岩波文庫『百人一首』を読む(20) 元良親王
20 わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王
【訳】あなたが恋しくてしかたがない。今となっては、わたしは難波潟に立つ澪標も同じこと。この身を破滅させてしまってもかまわず、あなたに逢おうと思います。
【出典】後撰集・巻十三・恋五・960
事いできてのちに、京極御息所につかはしける
【解釈の要点】
①「わぶ」という動詞は、気落ちしている、困りきっているなどの意。古今集の藤原興風の「わびぬればしひて忘れむと思へども夢といふものぞ人頼めなる」(恋二・569)と近い状態か。「はた」は副詞で、「やはり」。「身を尽くしても」に「澪標」を掛ける。「澪標」は水脈を示す標識とする杭(みをつ串)の意。万葉集にも見え、古今集では興風が「君恋ふる涙の床に満ちぬればみをつくしとぞわれはなりぬる」(恋二・567)と詠む。「尽す」は使い果たすことだから、「みをつくしても」は命に換えてもの意。
②この歌は拾遺集に重出するが、『百人秀歌』の集付によれば後撰集から採った。下河辺長流の『三奥抄』は「密通のこと顕れたるを、事出来て後とかけり」とするが、賀茂真淵の『宇比麻奈備』は「すべて事といふは、吉凶ともにかろからぬ事にいへり」というが、香川景樹『百首異見』は「皆凶事のみにて、よき事をいへるはなし」と批判する。
③岩波古語辞典は、「はた(将)」について「甲乙二つ並んだ状態や見解などが考えられる場合に、甲に対して、もしや乙はと考えるとき、あるいは、やはり乙だと判断するときなどに使う」と説明する。『三奥抄』は将は亦という心もあるとする。契沖の『改観抄』は「はたはまさにの心なり」として、「同じとは下の句の身を尽すに同じとなり」という。『宇比麻奈備』は「今はたは今果たして也」とする。『百首異見』は「はたはもと転動のすみやけきをいふにて、手のうらをかへすといふばかりの語勢あり。これを近世またと同じくこころえたるは非也」と批判する。
④京極御息所は左大臣藤原時平の娘褒子である。醍醐天皇に入内させようと支度していた夜、宇多法皇が連れ去り妃とした女性。以前にも九十の老僧に見初められたと『俊頼髄脳』にある。褒子は宇多法皇との間に、雅明・載明・行明の三人を生んだ。行明親王の誕生は、宇多法皇の六十の賀の催された延長四年(926)で、その年元良親王は三十七歳、父時平の年齢から推測される褒子はこの年三十五歳の筈である。
⑤『元良親王集』は歌語り風な他撰家集で、陽成院の第一皇子の元良親王が色好みであると記し、20の歌の詞書は「こといできてのち、宮す所に」である。その前には、京極御息所に親王が懸想したとする記述や、親王と御息所の贈答歌がある。
⑥この歌は捨て身の恋を思わせるが、契沖の『改観抄』の指摘するように、ふてぶてしく居直った趣がある。徒然草132段には、この親王が音吐朗々としていたという逸話があり、男性的魅力溢れる貴公子だったのであろう。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳に少々変更がありました。學燈社『百人一首必携』では、「あなたが恋しくてしかたがない。今となっては、難波潟にある澪標も同じこと。この身をつくし、駄目にしてしまってでも、あなたに逢おうと思います」とありまして、やや直訳ぎみだったのを、より言葉を変えて訳してあります。しかしながら、大筋では執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴を見ると、歌そのものには存在しない「あなたが恋しくてしかたがない」という心情を、最初にはっきりと打ち出しています。そして、問題となる「何が同じなのか」というこの歌の解釈の対立点に対して、「私は難波潟に立つ澪標も同じこと」と、詠作主体が自分を澪標と同じだという解釈です。下の句はそのまま直訳していますが、『必携』とくらべて「かまわず」という一言が加えられています。一言感想を加えると、「私は澪標も同じ」という表現はどういう意味なのか、判然としないところがあります。解釈と称する解説部分を参照すると、興風の歌の下の句に「みをつくしとぞわれはなりぬる」とありますから、結局水脈を示す標識そのものではなく、「身を破滅させるのは同じこと」という内容と理解してよさそうです。
解釈と称する解説部分では、④の元良親王と京極御息所の関係性や年齢に触れた部分が『百人一首必携』から引き継いだものです。要約では省略しましたが、御息所の子供に関しては『本朝皇胤紹運録』という資料と、時平の死に関しては『大鏡』という歴史物語が引用されております。また、『元良親王集』や『徒然草』を引用する⑤⑥も『必携』からほぼほぼ写したものです。これに対して、和歌の中の「わぶ」「はた」「みをつくし」や詞書の「事」を解説する①から③は今回新たに加わったものですが、「はた」や「こと」の解釈を巡って、近世の注釈書が対立していることが分ります。なお、何が同じなのかという問題については、契沖説を少しだけ引用するにとどめておりまして、それ以前の古注釈がまったく違う解釈をしていたことについては今回も触れていない点は注意が必要かもしれません。
元良親王はあの陽成院の第一皇子であります。陽成天皇が退位したのちの出生ということですから、皇位継承が制度上可能であったかどうかは不明ですが、皇位に就くことは状況から見てかなり難しかったはずです。この歌の送り先であった京極御息所は、実は宇多天皇の寵愛の后ですが、宇多天皇の父光孝天皇は陽成天皇の退位を受けて即位した天皇という因縁があります。その時点で宇多天皇は源氏に降下していた人物でありまして、たぶん皇位継承のためあわてて皇族に戻ったはずです。京極御息所は、藤原時平の娘の褒子ですが、宇多天皇が退位し法皇となった後に寵愛を受け、生まれた3人の男子は醍醐天皇の子供として公表されていたりします。ともかく、皇位継承をめぐって因縁のある宇多天皇と元良親王の両方と、京極御息所は関係があったということになるわけです。
天皇の后に対して、天皇になりそこねた皇族が不倫を仕掛けるというのは、源氏物語の筋に限りなく近いのであります。事が知れたら、重大なスキャンダルであることが、よく分かります。
ところで、この歌に関して、「澪標」と「身を尽くし」が掛詞になっている点については、例外なく注釈書は指摘するようですが、気になるのは、「難波なる」の部分に掛詞を指摘する注釈書が近年では皆無である点です。以前取り上げていた桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』は、そうした流れに対して「難波なる」には、「名にはなる」すなわち「憂き名を受けることになる」という意味が掛かっているはずだと大胆に指摘したわけです。古注釈では、ここがそういう掛詞になっていることを前提にしていた時期があるんですが、いつの間にか「難波なる」は意味のない枕詞のような扱いになっていたわけです。むしろ、著者の指摘通り、掛けていても構わないことでしょう。
噂になっただけでもスキャンダルでありまして、衆人環視の中、もう一度事を起こせば、スキャンダルでは済まないというのが、「名にはなる」ということであります。つまり、一度なら過ちですが、二度三度繰り返せば反社会的行為として糾弾されかねないということなんであります。
「難波なる」と「名にはなる」の掛詞を認めないと、何が「同じ」なのかと言うところで解釈が迷走するんですね。その場合、今回の久保田淳氏のように「身を尽くす」ことが同じだと解釈する向きが大半のようですが、中には北原白秋のように「わびぬる」ことが同じだとする意見もあるんです。「難波」に「名には」を掛ける歌は少なくないはずですから、この歌に関しては、「どうせ評判になることは同じだ」とか、「結局不倫だと非難されることは同じだ」というほうが、正しいかもしれないのであります。
ちなみに、「身を尽くすことは同じだから、身を尽くしても逢いたいと思う」とか、「つらくなって侘しく思うことは同じだから、身を尽くしても逢いたいと思う」という解釈には、何か自己撞着したおかしさがあるように感じます。これだと、「身を尽しても~したい」という主張が、強調にはならないと思います。「どうせなら破滅してもいいんだ」と迫るから意味があるわけで、「どうせ破滅するから破滅しよう」というのでは、近頃の「無敵の人」の発想でありまして、受け入れられません。それに比べたら、「愛を諦めても、愛を貫いても悪評が立つことは同じだから、身を尽くしても逢いたい」のほうが、世間を意識してそれでも愛を貫きたいということですから、かなりましな解釈のはずです。これが成立するなら、大手柄でございます。それにしても、近代において今まで注釈を試みた人々は、この歌の内容を何だと思って解釈していたのでしょうか。不思議の極みです。北原白秋の評釈を紹介していた時までは、「名にはなる」という指摘をして自分の大手柄と思っていましたが、その後、桑田明氏がすでに指摘していたことに気付きました。また講談社学術文庫の『百人一首全注釈』の解説などを見るに及んで、実は古注釈は「名にはなる」を前提にしていると気付いた次第です。
下に、宮内庁書陵部蔵『百人一首抄』(応永十三年奥書)を引用し、訳したものを添えておきます。
是は宇多の御門の御時、京極御息所に忍びてかよひける、あらはれて後又つかはしたる歌也。「わびぬれば」とは、よろづ思ひのつもりてやるかたなきを云ふ也。されば、いまはあはずとも、立ちにし名はおなじ名にこそあれ、身をつくしてもなほ「逢はんとぞおもふ」といへり。「みをつくし」、「難波」の縁也。此の歌は幽玄体の歌とぞ。歌は、ただ、心はいふにおよばず、うちながめなどしてよきあしきしらるべきやうを、能々吟味すべき事にこそ。
(訳)この歌は、宇多天皇の時代に、元良親王が京極御息所褒子様に密通し、露見してからさらに贈った歌である。「わびぬれば」とは、万事に付け恋慕の情が募って気の晴らしようがないことを表現しているのだ。だから、今は逢瀬がなくても、広まった悪評は(関係を回復すれば)悪評がまた広まるけれど、破滅してもやはり「逢いたいと思う」と詠んでいる。「澪標」は「難波」の縁語である。この歌は(師説では)幽玄体の歌ということだ。歌は、その内容は勿論の事、何となく唱えたりして良し悪しを感得する筈のものであるという趣を、くれぐれも詳細に検討するのがふさわしいものである。
要するに、この歌は「わびぬれば今はた同じ名には成る」という危惧というか懸念を述べまして、じゃあこの恋から手を引くのかと思わせておいて、「難波なる澪標」という景物を差し挟みまして、「身を尽しても逢はむとぞ思ふ」と破滅志向の決意を述べているわけです。もう、この船は水脈を指し示す杭なんか無視して、好きなようにそなたの元に向って参りますと言っているのでありましょう。陽成天皇も破滅型で皇位から降ろされましたが、御長男もやりたい放題、『源氏物語』の光源氏の原型はここにもあったということなのでしょう。
それから、『徒然草』の第132段でありますが、これは「鳥羽の作道」に関する蘊蓄でありまして、兼好法師の独壇場ともいうべき知識かも知れません。
鳥羽の作道は、鳥羽殿建てられて後の号にはあらず。昔よりの名なり。
元良親王、元日の奏賀の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作道まで
聞えけるよし、李部王の記に侍るとかや。
「鳥羽の作道」というのは、羅城門から鳥羽に通じる、今で言うならバイパス道路でありまして、それが鳥羽殿以前から存在したということを言っているわけです。鳥羽殿というのは、白河天皇が建てたものでありまして、ここがいわゆる仙洞御所となりまして、院政期の政治の中心になりましたので、おそらく鳥羽殿の便宜のために鳥羽の作道ができたと思う人が多かったということなのでありましょう。ただし、この件に関しては『徒然草』以外に、確たる証拠がないそうですが、少なくとも兼好法師が間違ったことを言っているという証拠も出て来ないそうです。後のエピソードの主役は元良親王ですが、それを証言する李部王は重明親王という方ですが、その日記は散逸していて、元良親王の声の話題が本当かどうかは不明だそうです。大極殿から鳥羽の作道の始点までは、約5キロあると角川ソフィア文庫の脚注は記しています。Google地図で、大極殿跡から羅生門跡までのルートを検索すると、最短で5・3キロ、徒歩で一時間15分くらいかかるということです。おーいと叫んで、さて聞える距離なのかどうか。花火の音なんかだと聞えることでしょうけれど。
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