岩波文庫『百人一首』を読む(13) 陽成天皇
13 筑波嶺の峯より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける 陽成院
【訳】筑波山の峰からしたたる水が集まって流れ落ちる水無川は、深い淵となりました。ちょうどそのように、あなたを想いそめたわたしの恋心も積もり積もって淵のように深くなっています。
【出典】後撰集・巻十一・恋三・776
釣殿の皇女につかはしける
【解釈の要点】
①陽成院は貞観十八年(876)九歳で帝王の座に就いたが、八年後の元慶八年(884)位を退いている。長寿を保ち天暦三年(949)82歳で世を去った。慈円の『愚管抄』は、藤原基経が陽成天皇を退位させ、代りに光孝天皇を戴いたという。史書から見ると、在位中の陽成天皇に粗暴な行動があったのは否定できない。
②後の宇多天皇は、光孝天皇と班子女王の間に生まれた皇子であるが、二人の間に生まれた皇女が釣殿の皇女である。
③陽成院のこの歌が釣殿の皇女に送ったのが、帝位にあった時か退位以後かわからない。皇女は、光孝天皇の即位後まもなく臣籍に下り源氏となったが、内親王となったのは寛平三年(891)のことだった。
④「筑波嶺」は筑波山、男体山と女体山の二峰から成る。「みなの川」は、筑波山の中腹から流れ出て桜川に注ぎ、霞ケ浦に入る。
⑤下河辺長流の『三奥抄』や契沖の『改観抄』は、「筑波嶺の岩もとどろに落つる水世にもたゆらにわが思はなくに」(万葉集巻十四・3392)を本歌とみなす。
⑥筑波嶺を詠んだ歌で、「恋」や「積る」などを詠み込んだ歌は、古今集などに見出され、陽成院の歌に先行する。都人にとって、距離的に遠い東国が、かえって関心をそそる地域だった。
【蛇足】
さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は、訳に変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈に変更を加える必要はなかったということのようです。その特徴を見ると、「恋」という言葉を除いて、筑波山のみなの川の風景を訳しまして、それを比喩に転じて「恋が淵となった」という主題を際立たせる訳になっています。これを見る限り、和歌の中にない「水」を訳に出して、その「水」が恋の比喩になっているという理解が示されていると思われます。
解釈と称する解説部分では、陽成天皇の退位に関するスキャンダルを紹介する①と、歌枕の「筑波嶺」「みなの川」の説明である④が新たに書き下ろされております。②と③は歌の送り先である釣殿の皇女についての紹介ですが、『百人一首必携』では単なる紹介ではなくて、釣殿の皇女がもしかして陽成天皇より年長であり、幼い頃に年上の身近な女性として憧憬していたことが、この歌の背景にあるのではないかと言う、なかなか大胆でユニークな推測がなされていました。著者は、そんな想像をしたうえで、この歌を「ういういしい、いい恋歌である」と述べていまして、一歩踏み込んだ解釈の可能性を探っていたことが分ります。今回は、そうした理解は控えて、歌の詠み手と歌の貰い手の関係性を淡々と叙述したようです。
この歌の問題点は、上の句を序詞として理解するかどうかという点ですが、下の句のはじめにある「恋」に、上の句の序詞を受けるうまい掛詞が見付からないために、注釈書は苦心するのであります。久保田淳氏の訳も、一首全体を筑波山のみなの川の情景として解釈して、それを比喩として処理しておりますので、やはり「恋」の部分に掛詞を見出すことが出来なかったようです。
「恋」に水の意の「こひ」が掛けてあるというのは、香川景樹が『百首異見』のなかで、友人の御園常言の見解として紹介し、「泥」を「こひぢ」というのは、「水土」の意だから、「こひ」は「水」なのだという牽強付会ぶりでありまして、水を意味する「こひ」という言葉を無理やり抽出しているだけです。どうしても、序詞の直後に必ず掛詞があるはずだという見立てから、存在したことのない「こひ」という言葉をひねり出したのでありましょう。久保田淳氏の訳も、実は「恋」の部分に「水」を当てたような訳になっているわけです。
この際、ぜひ指摘しておきたいのは、四句目の「恋」の部分が掛詞なのではなく、五句目の「ふち」のところに、「淵」と「不治(ふち・ふぢ)」が掛けてあるのではないか、ということでございます。もちろん、そんなことを古来指摘する人もいなかったようですから、まったくの臆説に過ぎないことなので、非常に恐縮です。ただ、「落つる」「川」「淵」という川の縁語に対して、「落つる」「男女(みな)」「恋」「つもり」「不治(の病)」という恋の言葉がきれいに対比されていると見えますから、解釈はすんなりと落ち着くはずなのです。
「淵」と「不治」の掛詞というと何か奇抜のようですけれども、大和言葉と漢語の組み合わせは不自然ではありません。というより、その方が自然なのであります。「掛詞」という修辞技法の用語は近年よく使われる受験用語のようなもので、平安時代なら「秀句」と呼ばれたもので、それも和歌に限ったものではなくて日常で会話に用いられる駄洒落も秀句であります。枕草子では、漢語と大和言葉の秀句はいくらでも出てきます。
漢文の「不治」の例として割と有名なものは、『十八史略』の「鼓腹撃壌」の例でありまして、尭という帝王が大変理想的な天子であったことを示す文章に出てきます。自分の治めている天下が上手く言っているのかどうか分からなくて、ためしに市中にお忍びで出かけたところ、平和な時代に満足した老人が「王様なんて俺には何の関係もない」と歌っているのを聞いて、天下泰平を実感するという面白い話であります。その初めに、帝尭が質問するところに、「不治」が出て参ります。
治天下五十年、不知天下治歟、不治歟。
これは、政治的な話でありますから、「統治できていない」あるいは「平和ではない」ということでいいのでしょう。
次に漢文の「不治」の例として知られているのは、『史記』扁鵲倉公列伝に出て来る、「六不治」のはなしでありまして、扁鵲という名医がどうしたら病気が治らないかという点に言及したというものであります。
使聖人預知微、能使良医得蚤従事、則疾可已、身可活也。人之所病、病疾多、而医之所病、病道少、故病有六不治。驕恣不論於理、 一不治也。軽身重財、二不治也。衣食不能適、三不治也。陰陽并、臓気不定、 四不治也。形羸不能服薬、 五不治也。信巫不信医、 六不治也。有此一者、則重難治也。
わがままで道理に従わないのが第一の不治、お金をけちって健康を軽視するのが第二の不治、衣食が不適切なのが第三の不治、内臓が働かず気が定まらないのが第四の不治、衰弱して服薬ができないのが第五の不治、占いを信じて医者を信じないのが第六の不治。一つの状態でもあてはまる場合は、病気は治らないか、あるいは治療は非常に困難であるということのようです。
古代中国の名医扁鵲が挙げているのは六つですが、恋の病はお医者様でも治せないというのが常識ですから、男女が落ちた恋が、「不治となりぬる」というのは、当然成立するはずであります。「恋」を加えたら、「六不治」ではなく「七不治」となることでしょう。ついでに、乱暴狼藉が度を越してしまって、政治的に帝王として「不治になりぬる」ということも、陽成院の歌を採用した『後撰和歌集』撰者側の意図が暗に込められているとしたら、面白いと思います。当然『百人一首』を撰んだ時にも、その点は含んでいたのではないでしょうか。
ちなみに、「恋(こひ)」に「故意(こい)」が掛けてあるとしたら、いかがでございましょう。「故意ぞつもりて不治となりぬる」とまで読み取って、歴代の中でも問題児であった陽成院の歌を採用したとしたら、この一首だけ採用という秘密も明らかなような気がいたします。ただし、「たくらみ」とか「わざとする」という意味の「故意」が漢文にふさわしい例があるのか、よくわかりませんので、ぜひとも冗談として受け止めていただけるとよいかと思います。
「不治」というのは、引用した『十八史略』「鼓腹撃壌」や『史記』扁鵲倉公列伝のような有名なものから、普通に使う例までいくらでも出て来ることでしょうから、どうして従来の注釈者は気付かずに来たのでありましょう。ちなみに、「文」と「踏み」の掛詞の場合、「文」は純粋な日本語ではなくて、中国語由来の言葉です。だから、漢語と日本語の掛詞は、探せばいくらでも見つかるのであります。そうそう、「菊」と「聞く」なんかもそうでありますね。「菊」の「キク」という読み方は訓ではなくて中国音ですが、よろしいでしょうか?
「故意」はともかく、「不治」を掛詞とするなら、上の句は「淵」の序詞でありまして、その上の句が、四句目を飛び越えて五句目(末句)の「淵」を導くという修辞だったと結論付けることが出来ると思います。ものすごく分かりやすい歌になると思いますけれども、いかがでしょう。
筑波山の峰から流れ落ちる男女の川は深い淵ともなることよ、その淵ではないが、私のそなたへの積年の恋心は積もり積もって今では不治の病となることよ。(粗忽の試訳)
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