足利将軍撰『新百人一首』を読む(31) 小大君

31 大井川そまやま風のさむければたついは浪を雪かとぞみる  三条院女蔵人左近

     

【標註】

(記事なし)

※明暦三年(1657)版本は、三句目を「さむけきに」、四句目を「岩うつ浪を」とする。嘉永5年(1852)島津久光(源忠教)自筆本も三句目を「さむけきに」、四句目を「岩うつ波を」とする。

【出典】

〇『新拾遺集』巻六・冬669(『新編国歌大観』第一巻)

  平兼盛大井の家にて冬歌よみ侍りけるに  三条院女蔵人左近

大井河そま山風のさむけきに岩うつ波を雪かとぞみる

※三句目「さむけきに」、四句目「岩うつ波を」のところに異同がある。


【語釈】

〇大井川  山城の国の嵐山付近を流れる川。秋の紅葉、夏の鵜飼・篝火を詠むことが多い歌枕。『万葉集』には見えず、『古今集』でも墨滅歌に見える程度だが、『後撰集』以下の勅撰集にはどの集にもほぼ詠み込んだ歌が見える。〇そまやま風 勅撰集ではこの一首のみの表現なので、作者による造語か。「そまやまから吹き降ろす風」の意であろう。「そま」は、木材にするために植林した樹木、または切り出した材木のこと。「そまやま」は、植林した山。『拾遺集』巻十七・雑秋1138(大中臣能宣)「杣山に立つけぶりこそ神無月時雨をくたす雲となりけれ」。〇さむければ 形容詞「さむし」の已然形に、理由条件を示す接続助詞「ば」が付いたもので「寒いので」の意。異文の「さむけきに」は、「さむけき」が形容詞「さむけし」の連体形で、接続助詞の「に」が接続していると考えるべきか。『万葉集』巻一74(文武天皇)「み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今夜も我独り寝む」。原文は「見吉野乃 山下風之 寒久尓 為当也今夜毛 我独宿牟」で、「さむけく」は「寒し」のク語法と『岩波古語辞典』は説明する。〇いは浪 川の速い流れの妨げになるような岩によって、砕け散る水の様子。吉野川・大井川のほか貴船川・音無川・龍田川・五十鈴川などとともに勅撰集に詠み込まれている。海岸の歌は稀。『万葉集』には見えない。『古今集』巻十一・恋一471(紀貫之)「吉野川岩波高く行く水のはやくぞ人を思ひそめてし」。「岩うつ波を」という表現は、左近の歌を含めて勅撰集に6首あるが、目立つのは、『百人一首』48番歌の『詞花集』巻七・恋上211(源重之)「風をいたみ岩うつ波のおのれのみ砕けて物を思ふころかな」である。この歌とよく似た歌には『新千載集』巻十一・恋一1100(読人不知)「いかにして岩うつ波のやちかへり砕くとだにも人に知らせむ」がある。重之の歌は海岸の歌に見えるが、「岩うつ波」の他の歌を見ると、大井川・御手洗川・吉野川を詠んでいるので、重之の歌に関しても海岸の景と断定するのにはためらいがある。〇雪かとぞみる この表現は、この左近の歌を含めて勅撰集に12例あり、雪に見立てられているものは、梅や菊もあるが主に桜で、他に月光や谷川の水である。『玉葉集』巻十五・雑二2066(赤染衛門)「消え果てぬ雪かとぞ見る谷川の岩間を分くる水の白波」は、趣向が非常に似ている。なお、赤染衛門の実父は平兼盛と言われている。『兼盛集』には、「嵐のみ寒き山辺の卯の花は消えぬ雪かと誤たれつつ」と、卯の花を雪に見立てた歌がある。


【作者】

〇『和歌大辞典』(明治書院・1986年刊)を元に加筆。

三条院女蔵人左近(さんでうゐんによくらうどさこん) 平安時代の歌人。生没年や出自・系譜は未詳。春宮左近など、別の呼び方もされているのは、彼女が女蔵人として春宮時代の三条院(居貞親王)に仕えていたからである。三条院の東宮在位期間は寛和二年(986)から寛弘八年(1011)までである。「左近」の由来は分からない。「小大君」と同一人物であるが、その詠み方も「こだいのきみ」「こおほぎみ」「こおほいぎみ」など幾通りかあってはっきりしない。西本願寺本三十六人集所収の『小大君集』には、外題に「こおほきみ」と仮名書きされているが、宣長の『玉勝間』は、『栄花物語』に出てくる東宮女蔵人小大進を左近と考えて、「小大進という名をはぶきていへるなれば、こだいの君とよむべし。こおほきみとよむはひがごと也」と言っている。ただし、久安六年(1150)の『崇徳院百首』に参加し、説話集に出てくる花園左大臣家小大進とは、活躍時期が隔たっているので別人であろう。交友関係は、家集『小大君集』などによれば、朝光・兼盛・実方・道信・為頼・統理・寂昭(大江定基)・馬内侍らがおり、朝光とは彼が少将だったころ一時恋愛関係にあったらしい。『拾遺集』に3首、『後拾遺集』に5首、『千載集』に1首、そのほか『新古今集』以下に12首入集。「いかに寝て起くる朝にいふことぞ昨日をこぞと今日を今年と」という歌は、家集の巻頭歌であるが、『後拾遺集』の巻頭も飾っている。三十六歌仙の一人。

※『後拾遺集』陽明本勘物には「或書云、三品式部卿重明親王女、母貞信公女」と伝える。醍醐天皇の第四皇子重明親王の娘で母を貞信公(藤原忠平)の娘寛子とする女性には、斎宮女御徽子女王がいたので、小大君はその姉妹という可能性もある。一方、斎宮女御徽子女王の異母姉妹で、朝光の妻だったが後に離縁した女性の可能性もあるのかもしれない。その人の場合、母は藤原師輔の次女の登子という女性の可能性があり、登子は円融天皇の内侍尚侍で「貞観殿の尚侍」と呼ばれていた。その娘が三条天皇の女蔵人として仕える可能性はあったかもしれない。ただ、男性官人の蔵人相当の役職とすると、六位または五位程度なので、果たして親王の娘にふさわしい地位かどうかは問題があるらしい。ともかく、新日本古典文学大系8『後拾遺和歌集』の人名索引によると、贈答歌の年次考証から小大君については、天暦四年(950)くらいの出生で、寛弘年間(1004-1012)のはじめまで生存していたという推測があるとしている。

※『尊卑文脈』によると、藤原朝光の子に朝経があり、「母式部卿重明親王女」と書き込まれている。この朝経は、天延元年(973)の誕生で、寛和2年(986)に14歳で従五位下に叙釈、正暦5年(994)右近権少将であったが、長徳元年(995)父の朝光が没して以後官位を据え置かれ、長徳3年(997)右少弁に任じられてからは弁官を務め続けた。しかし、寛弘8年(1011)三条天皇が即位すると、翌年正四位下・蔵人頭兼右大弁となり、長和3年(1014)大蔵卿を兼ね、翌長和4年(1015)参議に任ぜられ公卿に列した。長和5年(1016)三条天皇は譲位するが、朝経は右大弁大蔵卿を帯びたままで、寛仁2年(1018)には勘解由長官も兼ね、さらに造宮の功で従三位に昇任、寛仁4年(1020)には大蔵卿と勘解由長官は辞職したものの、左大弁に転じ政権中枢にとどまっている。長元2年(1029)1月24日に権中納言を辞任したのち、7月4日に57歳で薨去している。最終的には正三位であった。以上を、三条院の女蔵人を務めた左近(すなわち小大君)の子として見ても、特に矛盾は感じられない。三条朝で厚遇されたのは、左近(小大君)の子としてなら納得できよう。また、左近という名称は「左近衛府」の略とするなら、夫であった朝光の左大将という地位から名付けられているとみてよいのではないか。朝光は小大君との交際期間に右少将で、花山院の東宮時代(969-984)に左中将に転じ、天延四年(976)には春宮大夫になり、貞元二年(977)には左大将を兼ねている。のちに「閑院大将」と呼ばれていたので左近衛府に関りが深く、その北の方が「左近」と呼ばれることは十分ありうると言えるだろう。

【訳】

嵐山の紅葉を見ようと、ここ大井川までやってきましたが、杣山から吹き降ろす風が、内裏のあたりとは違って格別に冷たく、寒く感じるので、岩に当って砕け散る浪を、まるであれは季節を先取りする雪がちらついているのかと見ることよ。紅葉を背景に、白波のしぶきが空に舞って、秋がとうに去って冬が来たかのように感じてしまいました。


【参考】

〇『小大君集』(『新編国歌大観』第三巻36)

  かねもりが大井にてよめりし

82 おほゐがはそまやまかぜのさむければいはうつなみをゆきかとぞ見る

※四句目「いはうつなみを」のところに異同がある。

〇『俊成三十六人歌合』(岩波文庫『王朝秀歌選』)左 小大君

91 岩橋の夜の契りも絶えぬべし 明くる侘しき葛城の神

92 かくばかりとくとはすれどあしひきの 山ゐの水はなほ氷りけり

93 大井川杣山風の寒ければ 立つ岩波を雪かとぞ見る

作者別索引 小大君(こだいのきみ。こおおぎみ)生没年、出自未詳。三条院女蔵人左近とも呼ばれた。寛弘ごろまで生存か。家集に小大君集がある。拾遺集初出歌人。

〇『女房三十六人歌合』(『群書類従』第十三輯)左 三条院女御蔵人左近

大井川杣山かぜの寒ければたつ岩浪を雪かとぞみる

七夕に貸しつと思ひし逢ふことのその夜なき名の立ちにけるかな

浪ごとに袖ぞぬれけるあやめ草心ににたるねを求むとて

〇『和歌大辞典』(明治書院1986年刊)をもとに、要約ならびに加筆。

大堰川(おほゐがは) 山城国の歌枕。大井川・大井河とも表記する。京都の嵐山・小倉山付近を流れる河川。淀川水系の一つ桂川で、保津峡から嵐山の渡月橋までを大堰川と呼ぶ。紅葉の名所であり、鵜飼も行われた景勝地で、桓武天皇以来歴代の行幸があり、平安貴族の遊覧の地であった。宇多法皇は延喜七年(907)に当地に行幸し重陽後朝の宴を催している。紅葉を詠み込んだ歌が多いが、丹波からの木材が筏で運ばれることから、筏・篝火などが詠み込まれた。『後撰集』巻十七・雑三1231(在原業平)「大堰川浮かべる舟の篝火に小倉の山も名のみなりけり」、『拾遺集』巻三・秋212(壬生忠岑)「色々の木の葉流るる大堰川しもは桂の黄葉とや見む」、『新古今集』巻三・夏253(藤原俊成)「大堰川篝さしゆく鵜飼舟幾瀬に夏の世を明かすらむ」などの例がある。また、『古今集』巻十一・恋一墨滅歌1106(読人不知)「今日人を恋ふる心は大堰川流るる水に劣らざりけり」の如く「多し」と掛詞にした歌も少なくない。なお、『十六夜日記』で駿河の大井川を渡った時に、「思ひ出づる都のことは大井川幾瀬の石の数もおよばじ」と詠んでいる。 

〇『拾遺集』巻十七・雑秋1128(藤原忠平)※延喜七年(907)九月、醍醐天皇に献じた歌か。

  亭子院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して

          小一条太政大臣貞信公

小倉山峰の紅葉葉心有らば今一度のみゆき待たなん

〇『十訓抄詳解』(明治書院・1902年)「第一可定心操振舞事21

(前略)彼の清少納言は、天暦の御時、梨壺の五人の歌仙の内、清原元輔の女にて、其の家の風吹き伝へたりけるうへ、心ざまわりなく優にて、折につけたるふるまひ、いみじき事多かりけり。これのみならず、其の比は、源氏物語作れる紫式部、並びに赤染衛門・和泉式部・小式部内侍・小大君・伊勢大輔・出羽弁・小弁・馬内侍・高内侍・江侍従・乙侍従・新宰相・兵衛内侍・中将などいひて、やさしき女房どもあまたありけり。(後略)

小大君 式部卿重明親王の御女。三条院坊の時の女蔵人。玉勝間(四)に「三条院女蔵人左近を、小大君ともいへり。そは小大進といふ名をはぶきていへるなれば、コダイの君とよむべし。コオホキミとよむはひがごとなり」と見えたり。

※享保六年(1721)摂陽書堂刊の『十訓抄』では、「小大君」に細字で「重明親王女」と傍注がある。岩波文庫『十訓抄』や内閣文庫本『十訓抄』(国立公文書館デジタルアーカイブ)は、「小大君」に「母蔵人号右近」と注する。


【蛇足】

大井川の急流が、岩にぶつかって砕け散る様子を見て、それを雪だと見立てた歌であります。白波を雪に見立てているという点では、ありふれた修辞でありまして、うっかりすると平凡な歌として見逃してしまいそうな気がいたします。しかしながら、その和歌に使われている表現の由来を探ってみると、春の桜を雪に見立てるというのが一般的でありまして、冬の初雪に先駆けて大井川の川波を雪に見立てるというのは、なかなか斬新な発想のようです。さらに、その発想のもとに平兼盛や源重之の歌が出てきたり、異文の出典に『万葉集』がほの見えたりしますので、作者が意欲的に和歌の素材や表現を吟味していたらしいことが分かってまいります。家集の詞書や、『新拾遺集』の詞書を参照すると、この歌の背景には平兼盛の大井の住まいがありまして、実は兼盛の娘であった赤染衛門が似た趣向の歌を残していることも、非常に興味深いものがあると言えるでしょう。『小大君集』や『新拾遺集』の詞書は、うっかりすると作者を兼盛と誤解しそうなところがありまして、さらに大井川を駿河国の歌枕と誤解することも可能ではないでしょうか。実は、晩年の兼盛は駿河守を務めたようですから、ひょっとして三条院女蔵人左近が下向して富士山などを見物するために駿河国へ行ったのかとも思いましたが、勅撰集に出てくる大井川は嵐山付近のことのはずでありまして、「かねもりが大井にてよめりし」は、「平兼盛の大井の別邸で詠んだ」と解するべきでしょう。駿河の国と断らないで「大井」と出したなら、それは京都近郊小倉山や嵐山の間を流れる「大堰川」でなければこうは表現できないと思います。「冬歌」と『新拾遺集』は明記しておりますが、桜を雪に見立てるのが春であるように、おそらく初雪の前でなければ波を雪に見立てることは成立しないので、まだ紅葉が見頃である頃に訪問して、紅葉を背景にしたちらつく雪であると考えるのがいいかと思います。


嵐山観光客も大井川行く人波を川かとぞみる

あらしやま くわんくわうきやくも おほゐがは ゆくひとなみを かはかとぞみる


【訳】

コロナもいつのまにか沈静化したようで、アニメの聖地を見たいとか、日本の伝統文化に触れたいとか、いろんな理由で日本は大人気。ここ京都の嵐山付近も、観光客は次から次と詰めかけて、多いのなんの、ひっきりなしの大盛況、「あらしやま」というだけに、「あら、まあ、なんともじゃまなことよ(あらじゃま)」、ほんまに流れて行く人また人の大洪水、この人波をふとそこを流れる大井川かと思いました。ぼちぼち、気い付けてお帰りやす。

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