足利将軍撰『新百人一首』を読む(30) 善滋為政

 30 ほととぎす鳴やさ月にうゑし田をかりがね寒み秋ぞ暮ぬる

     

【標註】

〇「鳴やさ月に」 新古今に「鳴さみだれに」とあり。「かりがね」に「田を刈」といひかけたり。

※明暦3年(1657)版本は、二句目を「なくさみだれに」とあって、『新古今集』と同じ。嘉永5年(1852)島津久光(源忠教)自筆本も「なくさみだれに」とある。江戸時代の萬笈堂の刊本は、巻末に享和2年(1802)橘千蔭跋と年号不明の村田春海跋を持つが、本文を「鳴やさ月に」とするが、頭注に「新古今 鳴さみだれに」と校異を示す。


【出典】

〇『新古今集』巻五・秋下456(『新編国歌大観』第一巻)

  (だいしらず)  善滋為政朝臣

郭公なく五月雨にうゑし田をかりがねさむみ秋ぞくれぬる


【語釈】

〇ほととぎす  『岩波古語辞典』は、「鳴声による名か。スはウグヒス・カラスなどのスに同じく鳥をあらわす語」と語源を推察し、「鳥の名。初夏に鳴き、その声が人の叫び声のように感じられ、人恋しさを誘う。古来、冥府の鳥とされ、橘・蓬・菖蒲(あやめ)など、不老不死伝説・復活伝説に於ける生命の木や草と関係して使われることが多い。死出の田長(しでのたおをさ)」と解説している。『万葉集』では集中最も多く詠まれた鳥。「ほととぎす鳴く五月」「ほととぎす来鳴く五月」という表現はすでに『万葉集』に6例ある。『万葉集』巻十・夏相聞1981「ほととぎす来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも」は、異伝が『拾遺集』に採られている。〇鳴やさ月に 「や」は間投助詞で、「動詞+や+動詞」で、「~するやいなや、~する」「~すると、すぐに~する」という即時の用法。『古今集』巻十一・恋一469(読人不知)「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな」。『拾遺集』巻二・夏125(読人不知)「ほととぎす鳴くや五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも」は二句目に『万葉集』と異同がある。なお、「さみだれ」は『万葉集』に例がなく、『古今集』に次の歌が見える。巻三・夏153(紀友則)「五月雨に物思ひをればほととぎす夜深く鳴きていづちゆくらむ」、巻三・夏160(紀貫之)「五月雨に空もとどろにほととぎす何を憂しとか夜ただ鳴くらむ」、巻十九・雑躰1002(紀貫之)「……さみだれの 空もとどろに さよふけて やまほととぎす 鳴くごとに 誰も寝覚めて……」。〇うゑし田 「し」は過去の助動詞「き」の連体形。「うゑし田をかり」と続く例は、為政のほかに勅撰集では、『拾遺集』巻十七・雑秋1123(柿本人麿)「わぎもこが赤裳濡らして植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜」がある。この歌は『万葉集』巻九1710に人麻呂歌集の歌と左注がある歌で、二句目は「赤裳ひづちて」(原文「赤裳埿塗而」)。〇かりがね 雁の鳴き声。転じて雁。雁はカモ科の水鳥。「がん」とも言う。冬を日本で過ごす渡り鳥で、春には北方へ去り、秋に戻って来る。秋になって初めて戻って来る雁を「はつかり」と呼び、その声を「はつかりがね」と称する。『岩波古語辞典』は、「カリ」をその鳴き声による命名と解説している。なお、「かりがね」に「田を刈り」が掛けてあるとするのが通説だが、「がね」の部分にも、不可能・困難の意を表す「かね」が掛けてあると見たい。『古今集』巻四・秋上211(読人不知)「夜を寒みころもかりがね鳴くなべに萩の下葉も移ろひにけり」は、「かりがね」に「借りかね」が掛けてある。なお、この歌は『拾遺集』巻十七・雑秋1119に下句を「萩の下葉は色付きにけり」として入っている。〇寒み 形容詞「寒し」の語幹に「み」が付いたもの。「み」は、『岩波古語辞典』「基本助詞解説」では、従来接尾語とされてきたが、「その機能からみて、接続助詞と考えたい。(中略)多く上に助詞「を」を伴い、「…のゆえに」「…なので」の意で、原因・理由をあらわす」と説く。【参考】に紹介した『新古今集』の註釈は、この「み」を無視しているが、理由は分からない。〇秋ぞ暮ぬる 「あきぞくれぬる」という歌は勅撰集には5例ある。『新古今集』巻五・秋下547(能因法師)「夏草のかりそめにとて来し宿も難波の浦に秋ぞ暮れぬる」なども参考にすると、「ぬる」は完了の用法ではなく、強意(確述)の用法の可能性が高い。 


【作者】

善滋為政(よししげのためまさ) 本来の姓は賀茂氏。「善滋」は「慶滋」と表記されることがある。『尊卑分脈』(国史大系)の賀茂氏の系図を見ると、父保章の兄に賀茂忠行・慶滋保胤、父の弟に慶滋保遠がいたことがわかる。忠行は陰陽師として知られており、子の保憲や安倍晴明を後継者としたことが『今昔物語集』巻24に出てくる。保胤は忠行の子または保憲の子とされることもあるが、菅原文時の弟子で詩文で名を上げ、『池亭記』などを書いた人物。保章は文章博士・能登守であった。為政は一条天皇・三条天皇・後一条天皇の時代に、文章生から外記となり、式部少輔・内蔵権頭を経て文章博士・河内守となり従四位上に至った。長和五年(1016)の大嘗会で屏風歌を詠んでいる。右大臣・小野宮(藤原)実資の家司も務めた。勅撰集には拾遺集・後拾遺集・千載集・新古今集にそれぞれ一首ずつ、合計四首が入集している。為政の娘は藤原経衡に嫁し、業綱という子を儲けている。経衡は、和歌六人党の一人として知られる歌人である。


【訳】

〇二句目「鳴やさ月に」の場合

ほととぎすが鳴くやいなや、それを合図に五月に田んぼに苗を植えたものだが、実った稲を刈り終わらないうちに、北方から戻ってきた雁が鳴き渡り、その雁の鳴く声に寒さもひとしお感じられる頃なので、田を刈り取る秋はいよいよ終りが近づくことだ。急いで稲を刈り取らねばならないことよ。

〇二句目「なく五月雨に」の場合

ほととぎすが鳴く五月の長雨の頃に田んぼに苗を植えたものだが、実った稲を刈り終わらないうちに、北方から戻ってきた雁が鳴き渡り、その雁の鳴く声に寒さもひとしお感じられる頃なので、田を刈り取る秋はいよいよ終りが近づくことだ。急いで稲を刈り取らねばならないことよ。


【参考】

〇角川ソフィア文庫『新古今和歌集』上(2007年刊・久保田淳氏訳注)

456 ほととぎすが鳴くさみだれの頃に植えた田を刈り、雁の声が寒く聞こえて、秋は暮れてしまった。

〇上句 ほととぎすは田植えの時期をしらせる勧農の鳥とされる。「ほととぎす声めづらしく植ゑし田を稲葉もそよと今日は刈るかな」(兼盛集)。〇雁がね 雁の鳴く声。「刈り」を掛ける。雁は田を刈る頃北国から日本に飛来すると考えられていた。「秋田刈る仮廬(かりほ)もいまだ壊(こぼ)たねば雁が音(ね)寒し霜も置きぬがに」(万葉・巻八・1556・忌部黒麻呂)。▽定家十体では面白様の例歌とする。

作者略伝 為政(ためまさ) 善慈ー朝臣。生没年未詳。長元五年(1032)以前没か。保章男。保胤の甥。文章博士・式部少輔・内蔵権頭・文章博士従四位上。拾遺集初出・『新古今集』は一首入集(456番歌)。

※「作者略伝」中の、文章博士の1例目は、「文章生」の誤り。

〇新日本古典文学大系11『新古今和歌集』(1992年刊・田中裕氏校注)

456郭公がしきりにせついて鳴く五月雨時に植えた田を刈り終り、雁の声も寒く、秋もようやく暮れたことである。〇ほととぎすなく 袖中抄十一「郭公は勧農の鳥とて「過時不熟」と鳴くといへり。時過ぎば実のらじといふ義なり。それが「ほととぎす」(と)鳴くとは聞ゆるといへり」。〇かりがね 雁の声。転じて雁をもいうが、ここは前者。雁は八月、常世の国から来るとされていた。「雁 八月柳の末に風ふく時、常世の国より来て、二月に帰るといへり」(八雲御抄三)。「刈り」と掛詞。以下三首「夜寒」。

人名索引 為政(ためまさ) 善慈(善慶)。本姓は賀茂。生没年未詳。文章博士能登守保章の男。保胤の甥。従四位上文章博士・式部少輔内蔵権頭。長保5年(1003)『左大臣家歌合』に参加。長和5年(1016)後一条天皇の大嘗会屏風歌の作者。『本朝続文粋』『本朝麗藻』などに詩文がみえる。拾遺集初出。新古今集456。

〇『万葉集』巻八1566(大伴家持)「大伴家持の秋の歌四首」

ひさかたの雨間も置かず雲隠り鳴きそ行くなる早稲田雁がね

(久堅之 雨間毛不置 雲隠 鳴曽去奈流 早田鴈乃哭)

〇『新千載和歌集』巻五・秋下477(藤原為氏)

  建長五年八月仙洞にて遠近初雁といふことをつかうまつりける  前大納言為氏

我が門のわさ田かりがねいつしかと雲井をわたる友さそふなり


【蛇足】

本文の揺れというものは、本家の『百人一首』の場合も結構ありますので、ここで異同が生じていることに別に驚きはしないのであります。何となく、「鳴くや五月に」のほうが、『古今集』巻十一・恋一469(読人不知)「ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな」をあらわに本歌にしていて面白いし、素直な感じがするんですが、その本歌を避けるように「鳴く五月雨に」とある『新古今集』の形にも一理あるような気がいたします。余計なことですが、『万葉集』の長歌には「ほととぎす 来鳴く五月の あやめぐさ」という言い回しが大伴家持の歌にいくつか(巻十八4101・4116)出てきますので、『古今集』の「あやめぐさ」の歌は意外と古風な響きの歌であったのかもしれません。

気になったのは、『新古今集』の権威ある注釈書が、「かりがね」の「かり」だけ掛詞であるとしていたり、「寒み」の「み」を理由条件で訳していないことでありまして、何かそれを裏付けるような論説がありそうなのですけれども、私にはよくわからないのであります。『古今集』の「夜を寒みころもかりがね鳴くなべに萩の下葉も移ろひにけり」というような歌を見ると、理由条件の「み」語法に、「かりがね」の掛詞などというものは伝統的なもののようですから、何ら問題なく「~ので」と訳したり、「刈りかねて」と読み取ってもいいのではないでしょうか。【参考】のところに、「わさだかりがね」の例を挙げておきましたけれども、なんとなく、家持の歌も為氏の歌も「早稲田を刈りかねていて」というように、「かね」を補助動詞として解してしまいたい気持ちになったりするのであります。為氏の歌などは、「いつしかと」というのが「早くとせかして」のように感じられまして、「早稲田を刈り」と「雁が友を誘う」の両方に響くのではないかと思ったり致します。

ともかく、初見で為政の歌を見た時には、夏の「ほととぎす」、秋の「かりがね」が入っていて、さらに掛詞が使われておりますから、何とも滑稽な歌にしか見えませんでした。それが『新古今集』の秋下に入っているというのですから、本当なのかと疑ったくらいです。『十訓抄』第四「可誡人上多言等事」に入っているいくつかの説話を思い浮かべました。一つは花園左大臣家の出来事でありまして、初出仕の侍が自分は歌人であると申告していたので、折から鳴いていた「はたおり」を歌にせよと左大臣から命じられまして、詠んだ歌が、「青柳の緑の糸を繰り返し夏経て秋は機織りぞ鳴く」だったという話です。「はたおり」は今のキリギリスらしいのですが、鳴き声が機織りの音に聞こえるわけで、季節は秋であります。よって、初句の「あをやぎの」と歌い出したところで、控えていた女房達が笑い出します。「糸・繰り・経・機織り」という縁語の歌を作るのに、「青柳の緑の糸」と始めたわけで、なかなか意表を突いた歌なのであります。花園左大臣は歌人ですから女房達を制しまして、歌を最後まで言わせて褒美をくれております。もう一つは、歌合で「初雁」の題を詠むのに、左方に入っていた紀友則が「春霞霞みて往にしかりがねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に」(『古今集』巻四・秋上210読人不知)と詠んだ時の逸話でありまして、もちろん「初雁」は秋の題でありますから、右方から初句の「はるがすみ」が披露されたときに嘲笑が起きるわけです。でも二句目を聞いたらみんな静まったというのでありまして、人の歌など最後まで聞かずに馬鹿にしてはいけないという教訓になっております。ただ、この話の場合その後に「さやうに思ひがけぬことも詠むまじきにや」と釘を刺してもいますので、大変参考になります。


ほととぎす鳴くや五月に飢ゑし民かりがね寒み秋ぞ暮ぬる

ほととぎす なくやさつきに うゑしたみ かりがねさむみ あきぞくれぬる


【訳】

ほととぎすが到来して鳴くという五月、その五月が来るころには、田植えに備えてきた種もみをすべて使ってしまい、食料が尽きて飢えに植えてしまう人民たちは、借金に懐も寒く、初雁の声も寒く聞こえるので、秋には生活が行き詰まることよ。

※「かりがね」に「借金」を掛ける。なお、江戸時代などに人はどの季節に死ぬのかという調査結果が世の中にありまして、寒い冬ではないそうです。田植えの季節に備蓄した種もみを収穫を当てにして使い切りますので、その後には飢えてしまって命を落としたそうです。詳しく言うと、お米をおかゆにして食べるものですから、そのおかゆが傷んでしまい、食中毒を起こしていたのではないかと推測されています。主食のコメが高騰して、政権がその命を断たれるというのは、去年起きた出来事のような気がいたします。

コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根