足利将軍撰『新百人一首』を読む(29) 藤原仲文
29 あり明の月の光をまつほどにわがよのいたく更にけるかな 藤原仲文
【標註】
〇「わがよ」は、夜の更るに我生の闇になれるをかねたり。
※「闇」の字は、活字印刷の影印が不鮮明なので、推定による。
【出典】
〇『拾遺集』巻八・雑上436(『新編国歌大観』第一巻)
冷泉院の春宮におはしましける時、月をまつ心のうた、をのこどもよみ侍りけるに 藤原仲文
ありあけの月のひかりをまつほどにわが世のいたくふけにけるかな
【語釈】
〇あり明の月 「有明の月」は満月(望月)以降の下弦の月を言うが、特に二十日過ぎを言う。一般には、夜が明けても空に月があると説明するが、月の出は深夜であり、月の南中の時刻が夜明けのころとなる。2026年3月11日は旧暦の正月23日で、月齢は21・6、国立天文台暦計算室のサイトによると、月の出は0時35分、月南中時は5時16分、月の入りは9時54分であった。ちなみに、3月12日(旧正月24日)は、月の出が1時31分、月南中時が6時7分、月の入りが10時44分であり、月の出は毎日1時間ずつ遅くなり、月の明るさも減じてゆく。〇月の光 「月の光」という表現は勅撰二十一代集に54首あるが、「有明の月の光」を詠んだものは、この仲文の歌と、『新勅撰集』巻五・秋下288(藤原兼宗)「有明の月の光のさやけきは宿す草葉の露や置き添ふ」の二首のみである。新日本古典文学大系7『拾遺和歌集』の脚注は、「有明の月の光」について「東宮の恩寵を暗示する。光は王権の象徴」と解説している。〇わがよ 「よ」は有明の月の縁語で「夜」を響かせるが、主意は「世」。〇いたく 『岩波古語辞典』は、「いたし」について「甚し」と「痛し」を分けて掲示する。「甚し」は「甚だしい・ひどい」の意とし、「痛し」は肉体的・精神的に苦しいと感じる意と説明しているように見える。ここは前者で、連用形「いたく」は、副詞的な用法で強意・強調を表す。〇更にけるかな 「更け」は、下二段動詞「更く」の連用形。『岩波古語辞典』は、「深し」の語根を活用させたとして、「自然に時や季節が深くなる」「年をとる・年老いる」の意とする。「有明月」の縁語であり、人生に関して、年を重ねるものの沈淪・不遇の境遇に甘んじていることを意味している。『拾遺集』巻三・秋145(柿本人麻呂)「天の川去年の渡りのうつろへば浅瀬踏むまに夜ぞふけにける」、『新古今集』巻六・620(大伴家持)「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける」。『新古今集』巻十六・雑上1501(藤原為時)「山の端を出でがてにする月待つと寝ぬ夜のいたく更けにけるかな」は、仲文の歌の影響を受けたものか。
【作者】
〇冷泉院(れいぜいゐん) 第63代天皇であった冷泉天皇。諱は憲平。天暦四年(950)、村上天皇の第二皇子として出生、生後二か月ほどで春宮に立太子。母は藤原師輔の娘・安子。在位は康保四年(967)から安和二年(969)。奇矯な行動が多く、わずか三年で譲位した。『大鏡』には、源俊賢が「冷泉院のくるひよりは、花山院のくるひはずちなきものなれ」と帝王親子を評したことが出てくる。『栄花物語』は、弟の第三皇子・為尊親王(弾正宮)が亡くなった時に、「よにうせじ。よう求めばありなんものを」と悲嘆にくれたと伝える。寛弘八年(1011)62歳で崩御。『詞花集』以下に四首入集する勅撰歌人。『詞花集』巻九・雑上332「年経ぬる竹の齢をかへしてもこのよを長くなさむとぞ思ふ」。
〇藤原仲文(ふぢはらのなかぶみ) 延喜23年(923)生まれ。藤原宇合の子孫。信濃守公葛の子。東宮蔵人、内匠助、加賀守などを経て、冷泉帝の蔵人。貞元二年(977)正五位下となる。藤原頼忠・兼家・道兼などのもとに出入りし、清原元輔・大中臣能宣らと親交があった。三十六歌仙の一人。勅撰集に8首入集している。初出は『拾遺集』。正暦三年(992)70歳で没している。生没年に関しては、新日本古典文学大系7『拾遺和歌集』の人名索引を参照した。
【訳】
満月などに比べて月の出が遅く、なかなか昇らない有明月の月の出の光を待ちに待つうちに、夜が更けてしまうように、東宮様がご即位なさるのはいつかいつかと待つうちに、10年15年と月日がたち、私の人生も官位も停滞したまま老人になってしまいましたよ。ああ、本当に東宮様が即位して、そのお陰で官位が上がることが待ちきれません。
【参考】
〇『仲文集』(新編国歌大観Ⅲ)
春宮のくら人どころにて、月まつころ
43ありあけの月のひかりをまつほどにわが夜のいたくふけにけるかな
〇『拾遺和歌集』(新日本古典文学大系7・小町谷照彦氏)脚注
有明の月の出るのを待っている間に、夜がたいそう更けてしまったことだ。ー東宮の恩寵により我が身が栄達することを期待して待っている間に、すっかり年老いてしまったことだ。(中略)紫式部日記「歳暮れて我がよふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな」。▽「月を待つ心」の題詠。月を待つのに、我が身の不遇と老いの訴嘆を託して詠む。冷泉院の東宮時代の仲文は、43歳から60歳まで。
〇『古来風体抄』(藤原俊成)新編国歌大観Ⅴ
東宮蔵人 仲文
有明の月のひかりをまつほどにわがよのいたくふけにけるかな
〇北村季吟『八代集抄』拾遺集・八・雑上
冷泉院の春宮におはしましける時月をまつ心の歌おのこどものよみ侍けるに 藤原仲文
ありあけの月のひかりをまつほどに我よのいたくふけにけるかな
※「おのこども」の傍注に「殿上人也」とする。
※頭注 「藤原仲文」 伊賀守五位正暦三年二月卒七十信濃守公葛二男
※頭注 「ありあけの月の光」 我世を夜の更るに添たり、身の威光あらんことを待程にかひなくて、徒に老かたぶける述懐なるべし。
〇『袋草子』上巻(新日本古典文学大系29)
四条大納言、六条宮に談ぜられて云はく、「貫之は歌仙なり」と。宮曰はく、「人丸には及ぶべからず」と。納言曰はく、「然るべからず」と。ここに秀歌十首を書きて、後日に合はせらる。八首は人丸勝ち、一首は貫之勝つ。(中略)この事より起りて、卅六人撰の出来せるか。件の撰不審あり。いはゆる、深養父・元方・千里・定文等、これに入らず。この人々、あに頼基・仲文・元真の類に劣らんや。
※「四条大納言」は藤原公任。「六条宮」「宮」は具平親王。
〇『江談抄』(新日本古典文学大系32)2-3「冷泉天皇、御璽の結緒を解き開かんとし給ふ事」
故小野宮右大臣語りて云はく、冷泉院、御在位の時、大入道殿兼家忽ち参内の意有り。よりてにはかに単騎馳せ参り、御在所を女房に尋ぬ。女房云はく、夜の御殿に御します。ただ今、御璽の結緒を解き開かしめ給ふなりといへり。驚きながら闥を排きて参入す。女房の言のごとく筥の緒を解きたまふ間なり。よりて奪ひ取り、本のごとく結ぶと云々。
※「故小野宮右大臣」は藤原実資。「御璽」は、ここは三種の神器の八坂の勾玉か。「闥を排きて」は、「かどをおしひらきて」と読み、宮中の小門を開いての意。
〇『続古事談』(新日本古典文学大系41)1-8「冷泉院と師輔の霊異」
一条院の御時、大地震のありける日、冷泉院おほせられけるは、池の中嶋に幄をたてよ、おはしますべき事あり、とおほせられければ、人、心得ず思ひながらたてて、御簾かけ、むしろしきたるに、午時ばかりにわたり給ひにけり。其の後、未時ばかりに大地震ありて、おそく出る人はうちひしがれけり。人々、此の事を問ひたてまつりければ、去んぬる夜の夢に、九条大臣来たりて、明日の未時に地震あるべし、中嶋におはしませと、つげつるなり、とぞおほせられける。聞く人涙をながしけり。彼の大臣の霊つきそひて、まもりたてまつるなるべし。
※「大地震」は永延年間(987-989)のことか。「幄」は「あげはり」、柱を立て帳を垂らしたもの。「九条大臣」は藤原師輔。冷泉院の外祖父(母安子の父)。
【蛇足】
平安時代の皇位継承というのは、『大鏡』や『栄花物語』によってなんとなくその輪郭を知ったという程度ですが、なかなか大変なものだという気がいたします。『大鏡』はどちらかと言えば官人というか男性の視点が主のような気がしますが、『栄花物語』は明らかに宮廷女房や女官という女性の視点でありまして、客観的にはどうなのかという疑問がわいてきます。どの歴史物語も、後代のある特定の人々の都合によって記述されているわけで、どこまで信じていいのか分からないわけです。ただ、ちゃんとした史書を読めばいいのでしょうけれど、手ごろではありません。気になるのは、陽成院や冷泉院が本当の所はどのような人物だったのかということでありまして、乳母子を殴り殺したという陽成院は本当に乱暴者だったのか、そして今回『拾遺集』の詞書に出てくる冷泉院は異常な人だったのか、気になるところです。陽成院については、宇多天皇に向かって、「そちは朕の臣下であったな」と言ったという逸話がありますし、冷泉院に関しては地震があるからお逃げなさいと夢で外祖父の師輔が指示したという逸話があって、なかなか興味深いのであります。どちらも長生きして、老いた姿の目撃談があったりします。
冷泉院は生まれてすぐに東宮になりまして、17年後に天皇に即位しておりまして、近臣の者たちは随分長い間お世話をしていたようです。藤原仲文は東宮蔵人を務め、即位すると六位の蔵人になっておりますので、ずいぶん冷泉院との関係が近いのであります。もしかすると、仲文の妻か母が冷泉院の乳母として奉仕していたのではないかという気がいたします。仲文の生年は諸説ありますけれども、冷泉院と親子ほどの年齢差がありまして、即位したときには仲文は老人ですから、待ちに待った恩賜にありつける状態にはなれましたが、『拾遺集』の詞書に拠れば即位前の歌なのであります。まさしく、暗闇の中で有明の月を待ちかねているような気持ちを何年も味わったということです。よって、この歌は平安時代の貴族たちには痛いほどよくわかる歌のはずなのです。院政期になると、上皇の権威が高まりまして、その結果上皇の乳母を務めた女性の係累は大出世を遂げたのであります。そうしたことの芽はすでに摂関期にもあったことが分かる歌なのであります。
あけすけに即位の恵みを待つほどに頭ぞいたく霜の置きける
あけすけに そくゐのめぐみを まつほどに かしらぞいたく しものおきける
【訳】
我がご先祖は蔵下麿様でございます。その曾祖父は鎌足様、祖父は不比等様、父は宇合様、錚々たるご先祖様ですが、蔵下麿様の子孫は残念ながら沈淪して久しいことでございます。東宮様にお仕えしてからは、その即位の日を今か今かと待ちまして、お仕えした見返りに立身出世することを期待して、私もご奉仕に精を出してきたのです。ふと近頃鏡を覗けば、もう私の髻(もとどり)は白髪が目立っておりまして、ああこうなるまで即位の日が来ないとは思いもしませんでした。
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