足利将軍撰『新百人一首』を読む(28) 具平親王
28 世にふるは物思ふとしもなけれども月に幾度ながめしつ覧 具平親王
【標註】
〇「世にふるは」、一本に「世にふれば」とあり。
※伝本によっては、この歌は24番に出てくる歌である。
※「世にふるは」「世にふれば」のほかに、「世にふるに」とする伝本(明暦三年1657版本)もある。
※「世にふるは」とする伝本に享和二年1802版本がある。
【出典】
〇『拾遺集』巻八・雑上432(『新編国歌大観』第一巻)
月を見侍りて 中務卿具平親王
世にふるに物思ふとしもなけれども月にいくたびながめしつらん
※『拾遺抄』巻十・雑下497は、初句「よにふれば」。『和漢朗詠集』巻上・秋「月」(後中書王)260は初句「よにふれば」、『時代不同歌合』281、初句「世にふれば」。
【語釈】
〇よにふるは 「よにふるは」という表現は、二十一代集には2首ある。『新古今集』巻六・冬590(二条院讃岐)「世に経るは苦しきものを槙の屋にやすくも積もる初時雨かな」、『玉葉和歌集』巻十九・釈教2673(光俊)「春の雨秋の時雨と世に経るは花や紅葉の為にぞありける」。どちらも「経る」に「降る」を掛ける。「よにふるに」は『拾遺集』のこの具平親王の歌のみ。「よにふれば」は二十一代集に7例あるが、『古今集』巻十八・雑下に2例あり、951「世に経れば憂さこそまされみ吉野の岩のかけみち踏みならしてむ」、958「世に経れば言の葉しげき呉竹の憂き節ごとに鶯ぞ鳴く」、どちらも読人不知の歌。『拾遺集』には、巻八・雑上495(斎宮女御)「世に経ればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあらむ」という歌もある。「よにふるに」や「よにふれば」は、下の句の「月に幾度ながめしつ覧」に掛かる方が自然だが、「よにふるは」は直下の「物思ふとしもなけれども」に掛かると見るべきで、どれを採用するかで解釈に影響がある。〇物思ふ 「物思ふ」は、胸の内で思い煩うこと。または、悩むこと。『古今集』巻十四・恋四743(酒井人真)「大空は恋しき人のかたみかは物思ふごとにながめらるらむ」。〇としもなけれども 「と」は引用の格助詞で、ここは「物思ふ」を取り立てて提示している。「しも」は「し」に「も」が付いた強調の係助詞。『続古今集』巻十・羇旅927(高遠)「浦風に物思ふとしはなけれども波の寄るこそ寝られざりけれ」、『新続古今集』巻四・秋上391(花山院)「秋来れば物思ふとしはなけれども萩の上葉ぞ露けかりける」。なお、この2首の「とし」は「年」ではなく、格助詞「と」と係助詞「し」。〇月に この「月」を歴月の「月」とする見方があるが、「世に経る」という初句の表現からすると、空に浮かぶ「月」のみと見た方がいいのではないか。〇幾度……覧 「覧」は疑問推究の助動詞の連体形「らむ」。ここは、修辞疑問で「何度~するだろうか、何度も~することだ」と、「ながめ」することが重なることを強調する表現。〇ながめしつ 「ながめ」は、遠くを見るという原義から、その状態を内面に転じて、恋人を思ったり、人生を観じたりして「物思いにふける」、あるいは「悩み事に沈潜する」という意味を表すことに使われる。「し」はサ変動詞の連用形。「つ」は、強意の助動詞の終止形。
【作者】
〇具平親王(ともひらしんわう) 応和四年(964)、村上天皇の第七皇子として生まれた。母は村上天皇の兄に当る代明親王の娘の庄子(荘子)女王。後中書王・六条宮・千種殿などと呼ばれた。康保二年(965)親王宣下を受け、貞元二年(977)に元服し、兵部卿を経て正暦元年(990)中務卿となり、寛弘四年(1007)二品に叙せられている。慶滋保胤に師事して詩文・儒教を学び、大江匡衡や藤原為頼・為時兄弟などとも親しかった。一条天皇の信任が厚く、一条朝の詩壇の中心人物だった。和歌においては、勅撰集に41首入集し、初出の『拾遺集』に3首採られている。藤原公任と人麻呂・貫之優劣論を戦わせたことが、『袋草子』に見える。順徳院『八雲御抄』では、『古今和歌六帖』の撰者と目されている。篳篥や筝などの管弦が巧みで、書道においても能書家と知られており、天台宗の書籍に注解を施した『弘決外典鈔』という著作もあった。寛弘六年(1009)46歳で没している。具平親王の子源師房は藤原道長の娘を妻とし、三人の娘の内二人は道長の子息の妻となっている。
【訳】
〇初句を「世にふるは」とする場合 ※初句を直下の二句目・三句目に掛かると見る。
この世に日を重ねて過ごすからと言って、必ずしも立身出世や恋愛のことであれこれ悩んで物思うというわけではないけれども、天空に照り輝く月に、私はどれくらい思いに沈むことだろうか。思えば、数知れず何度も月を見て思いに沈むことよ。
〇初句を「世にふるに」とする場合 ※初句を下の句に掛かると見る。
必ずしも立身出世や恋愛のことであれこれ悩んで物思うというわけではないけれども、天空に照り輝く月に、私はどれくらい思いに沈むことだろうか。思えば、この世に日を重ねて過ごすにつけて、数知れず何度も月を見て思いに沈むことよ。
〇初句を「世にふれば」とする場合 ※初句を下の句に掛かると見る。
必ずしも立身出世や恋愛のことであれこれ悩んで物思うというわけではないけれども、天空に照り輝く月に、私はどれくらい思いに沈むことだろうか。思えば、この世に日を重ねて過ごすと、必ずや数知れず月を見て思いに沈むことよ。
【参考】
〇『拾遺和歌集』(新日本古典文学大系7)巻八・雑上432初句「世にふるに」脚注
この憂き世に生きているからといって、必ず物思いをするというわけでもないが、美しい月に感動して、一月に何度眺めやったことであろうか。抄・雑下497 〇物思ふとしも 「しも」は強意。〇つきにいくたび 「月」に天象の月と歴月の月を掛ける。〇ながめしつらん 「ながむ」は、視覚的な眺めをいうが、物思いによるしぐさでもある。▽月を眺めることを、物思いに結び付けた趣向。私抄(※『拾遺集私抄』阿波国文庫本)「物思ふ人こそ秋一夜月を見るやうなれ。我はさやうにもなけれども、物思ふやうに月を見るとなり」。以下十一首、月の歌。他出文献一覧 〇抄 書陵部本・貞和本・初句「世にふれば」。〇和漢朗詠集・上・秋・月、初句「世にふれば」。玄玄集、初句「世にふれば」 〇後十五番歌合、初句「世にふれば」。時代不同歌合。
〇『袋草子』上巻(新日本古典文学大系29)
また撰じて後の歌の出で入りの事、例なきに非ず。後中書王の月の歌よにふれば金玉集に入るといへども、宮の薨去の後に納言これを除く。撰集の習ひか。
※「御中書王」は具平親王。「納言」は藤原公任。
金葉集の時、種々の異名有り。その中に「臂突あるじ」第一の名と云々。これ李部五品盛経の付くる所なり。撰集の私、昔よりある事か。四条大納言、中書王の御歌よにふれば物思ふともを、存日金玉集に入れ、大王の没後、これを除く。これを怪しむべし。
※「四条大納言」は藤原公任。「中書王」は具平親王。
四条大納言、六条宮に談ぜられて云はく、「貫之は歌仙なり」と。宮曰はく、「人丸には及ぶべからず」と。納言曰はく、「然るべからず」と。ここに秀歌十首を書きて、後日に合はせらる。八首は人丸勝ち、一首は貫之勝つ。(中略)この事より起りて、卅六人撰の出来せるか。
※「六条宮」「宮」は具平親王。
【蛇足】
初句の異同というのが、なかなか面白いのではないかと思います。「世にふれば」を採用するものが多いのは、勅撰集でも「世にふれば」という表現が多いからで、歌の表現としては落ち着きがいいのは間違いありません。ところが、具平親王のこの歌は、二句目・三句目が「物思ふとしもなけれども」とありまして、取り立てて悩みなどないけれど、というような破天荒な内容なのであります。名君の誉れ高い村上天皇の皇子でありますけれども、第七皇子ですから皇位を継承するプレッシャーもなく、それでいて幼少時から聡明さが際立っていたそうなので、まったく光源氏と同じ立ち位置なのであります。ちやほやしない人が周囲にいないというような、人生が非常に順風満帆、イージーモードそのものだったのでしょう。そういう人が「悩みがあるというわけでもないけれど」と詠んでいますから、本音と受け止められて嫉妬する人も出てくることでしょう。だとすると、初句の「世にふれば」は二句目・三句目に掛けて理解してはならないはずです。これは「世にふれば、月に幾度ながめしつらん」と下の句に掛けまして、「それでも我が人生においては、月のせいで幾度も物思いに耽ることだ」となり、具平親王様でも月を見るとしみじみ、まんじりと物思いに耽ったりするんだ、となりまして、破天荒だった内容が、誰にも容認できるところへ着地するのでありましょう。だとしたら、この「世にふれば」という初句を『拾遺集』に入れるに当って、「世にふるに」と改めて、二句目・三句目に掛かっても違和感のないように修正したかもしれませんし、これが具平親王の詠んだ歌形だったかもしれないと感じます。「世にふるは」となると、これはもう二句目・三句目にしかかからない気がしまして、「別に人生は悩むわけではないが」と恵まれた人生の総括を提示して一歩も引かない歌であります。
ともかく、この歌の二句目・三句目の「物思ふとしもなけれども」というところが、あの藤原公任には非常に気に入らなかったのかもしれないと思われます。「三船の才」とか「三舟の才」という言葉がありまして、当時の貴族の中で漢詩・和歌・管絃、どのジャンルでも優れている場合に評される言葉ですが、それに該当した藤原公任は、古典の世界では平安時代中期を代表する文化人として常に賞讃の的であります。その公任の同時代に、もっと身分が高くて優秀な人物がいるというのは、はっきり言って我慢ならなかったのかもしれません。だから、さりげなく「物思ふとしもなけれども」という具平親王の告白は、まったく鼻持ちならない傲慢さに見えたのかも知れないという気がいたします。そういう点では、『袋草子』が伝える逸話は、『金葉集』に「臂突あるじ」という異名があったという話の流れから、公任が具平親王の歌を除棄したことも「臂突あるじ」の振舞だと指摘しているわけです。臂で相手を強く突けば、怪我をさせることになりそうですが、何かの集まりで仲間と思われる同席者の脇腹を臂で弱く突いて合図をするなら、陰険姑息な意思表示となることでしょう。ここは後者のような気がいたします。「吾輩はあいつが嫌いである」と、仲間に知らせたのではないでしょうか。現代では、皇族も貴族の一部のような錯覚をしますが、実は大違いでありまして、皇族は生まれながらの「あてなる」人でありますが、貴族は出世して公卿になって初めて「やんごとなき」人に認定されるものだったような気がいたします。漢詩が作れて、和歌も詠めて、さらに管絃の才もあるということなら、これはまさしく『源氏物語』の主人公光源氏でありまして、エリート貴族の公任でも敵わない存在であります。
彼の君は悩みのひとつもなからむに我に幾度焼餅焼くらん
かのきみは なやみのひとつも なからむに われにいくたび やきもちやくらん
【訳】
あの四条大納言藤原公任殿は、権門に生まれて才知に長けていて、和歌も漢詩も、あまっさえ管絃もお上手であるよ。故に、世の人が感じる悩みなど一つとしてない恵まれた境遇だろうと思うのだが、どうして私に対して繰り返し繰り返し嫉妬をむき出しにしてくるのだろう。ああ、そうか、例の貫之より人麻呂が上だと言って、公任殿をへこませたのがいけなかった。くわばらくわばら、つい本気を出したのがよくなかった。悩ませて申し訳ないとは思うが、やはり歌人の評価などは譲れないものだよ。
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