足利将軍撰『新百人一首』を読む(27) 藤原惟盛
27 しばしまてまだ夜は深しなが月の有明の月は人まどふなり 藤原惟盛
【標註】
〇「有明の月は」は、有明の月には、の意なり。
※伝本によっては、この歌は29番に出てくる歌である。作者名が「惟盛」とあるが「惟成」が正しい。版本の中にくずし字が「惟盛」と読めるものがある。
【出典】
〇『新古今集』巻十三・恋三1182(『新編国歌大観』第一巻)
題しらず 藤原惟成
しばしまてまだよはふかしなが月の有明の月は人まどふなり
【語釈】
〇しばしまて この表現は勅撰集にもう一首ある。『新千載和歌集』巻十八・雑下2018(後深草院少将内侍)「しばし待てうちたれ髪のさし串をさしわすれたる時の間ばかり」。〇まだ夜は深し この表現は勅撰集にもう一首ある。『新千載和歌集』巻六・冬645(藤原為家)「船もがないさよふ波の音はしてまだ夜は深し宇治の網代木」。〇なが月の有明の月 「長月」は陰暦の九月。三年で37か月ある旧暦では、現在の太陽暦から見ると変動があるが、晩秋に位置付けられている。「有明の月」は満月(望月)以降の下弦の月を言うが、特に二十日過ぎを言う。一般には、夜が明けても空に月があると説明するが、月の出は深夜であり、月の南中の時刻が夜明けのころとなる。2026年3月11日は旧暦の正月23日で、月齢は21・6、国立天文台暦計算室のサイトによると、月の出は0時35分、月南中時は5時16分、月の入りは9時54分であった。ちなみに、2026年の11月2日が、旧暦の9月23日にあたり、月齢は22・5である。2025年11月12日が、前回の旧暦9月23日でこの時は月齢21・6であった。また、2024年10月25日が旧暦の9月23日で、この時は月齢が22・3であった。ともかく、「長月の有明の月」が現代ではどのような感じか参考になるだろう。「長月の有明の月夜」は『万葉集』に二首(2229・2300)ある。2300は、『拾遺集』巻十三・恋三795(人麻呂)「長月の有明の月のありつつも君し来まさばわが恋ひめやも」の形で採録されている。『古今集』巻十四・恋四691(素性)「今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」は、『百人一首』21番歌。〇人まどふなり 四段動詞「まどふ」は『岩波古語辞典』が「事態を見極め得ずに混乱して、応対の仕方を定めかねる意」と原義を説明する。有明の月の光を夜明けの曙光ではないと見極めることができずに、起きようとしていることを表現している。「なり」は、ここは断定の助動詞。
【作者】
〇藤原惟成(ふぢはらのこれしげ) 藤原北家魚名流。天暦七年(953)生まれ、父は右少弁雅材、祖父は肥前守経臣。母は同じ魚名流の摂津守藤原中正の女。花山天皇の乳母子であり、春宮時代からの近臣で、東宮学士・侍読を務め、永観二年(984)天皇の即位とともに蔵人に抜擢された。花山天皇の伯父である中納言藤原義懐と協力して政治改革を進めたが、寛和二年(986)花山天皇の突然の出家に従って、義懐ともども出家している。法名は悟妙、受戒後に寂空と名乗っている。永祚元年(989)37歳で没した。五位に過ぎなかったが蔵人と併せ権左中弁、右衛門督を兼ねて「三事兼帯」を果たしたことから、「五位摂政」と称された。歌合に出詠したり自ら判者を務めるなど歌人活動があり、家集に『惟成弁集』がある。『拾遺集』に初出で、勅撰集に15首入集している。
【訳】
起きて私の為に朝の支度をするのは、ちょっとお待ちください。どうやら、まだ夜明けはまだのようではあるまいか。秋も深まった九月の下弦の月は、これこのように明るくて、まるでもう夜明けが来たのかと、だれもが困惑するものなのですよ。このまま夜明けまで共寝していましょう。
【参考】
〇『古今和歌六帖』五・雑思「人をとどむ」3043(作者名不記載)
待てと言はばまだ夜は深し長月の有明の月ぞ人はまどはす
〇『江談抄』(新日本古典文学大系32 1997年刊)
第二(四)円融院の末、朝政はなはだ乱る。寛和二年の間、天下の政忽ち淳素に反る。多くはこれ惟成の力なりと云々。天下今にその賚(たまもの)を受くと云々。
※質素倹約に努めた結果、朝廷の経営が安定した。
第三(一七)また云はく、惟成の弁を称ひて田なぎの弁と号くるは、初めて禁内裏の田ならびに西の京・朱雀門・京中などの田を刈らしむる故なりと。
※今日で田を営むことを禁じていたことを徹底した。
〇『大鏡』(日本古典文学全集20 小学館1974年刊)人物一覧
(前略)いまだ貧窮であったとき、その妻はよく才覚して夫に恥ずかしい思いをさせなかったが、花山天皇の即位によって栄達の途につくと、離別して満仲の婿になった。旧妻は貴船に参詣して夫が乞食になることを祈った。百か日の祈念のかいあり、天皇の出家の変事によって惟成も一挙に凋落、修行乞食の身になった、旧妻は饗一前をそろえて乞食の夫を招き入れ、往時を談じて哭怨した(古事談・二)
〇『百人一首』(岩波文庫2025年刊・久保田淳氏)
21 今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつる哉 素性法師
訳・出典 あなたが「すぐ行くよ」とおっしゃったばかりに、訪れていらっしゃるのは今か今かと待ち続けて、とうとう有明の月が出るまで、待ち通してしまいました。(古今集・巻十四・恋四・691・題しらず)
※五句目「待ち出でつる哉」の解釈は、「待ち続ける」や「待っていて月に会う」などとして、有明の月の出まで起きていたという注釈書が多いが、おそらく誤り。「出で」は補助動詞で「~し始めた」の意で、この歌は訪問の連絡を受けてから、有明月の月の出までの宵の歌で、同衾の前であろう。惟成の歌は、訪問後の同衾の歌で、有明月の月の出から、月が南中するまでの深夜の夜明けが遠い時刻の歌である。
※念のため付記しておくが、「待ち出づ」という複合動詞は、『岩波古語辞典』では「待ち出で」、『日本国語大辞典』では「待ちいず」という語形で採用されているが、従来の『百人一首』や『古今集』注釈の誤りを受けて意味を説明している節があるので、注意が必要である。また、有明の月についても、月の出、月の南中、月の入りの知識がない注釈者がいるので、夜明けの月というような説明には納得しないのがいいだろう。
【蛇足】
『大鏡』「太政大臣伊尹 謙徳公」から、惟成に関する部分の要旨をまとめると、つぎのようなことになります。一条摂政殿伊尹の御子息の義懐中納言は、花山院は妹懐子が産んだので帝の伯父にあたり、花山院の在位中に、近臣であった惟成の弁とともに権勢を誇りました。義懐の出家は、花山院が出家してから一日をはさむだけでしたが、それは惟成が「いまさら新帝のもとで宮仕えするのは見苦しいことだ」と申し上げたからで、惟成はたいそう思慮分別のある人だったらしいのです。それ以上のことは惟成には触れていないので、兼家・道兼親子の策略にはまって花山院が出家したときに、巻き添えを食った人々として扱われているように見えます。
これに対して『古事談』に出てくる惟成の話というのは、藤原氏の末流が貧窮にあえいでいた状況が手に取るようにわかり、さらに権勢を握った瞬間に糟糠の妻と離別して恨みを買うというようななんとも救いようのないところがありまして、苦い味わいがあるわけです。会合に持ち寄る食糧を手に入れるため、妻が自身の髪の毛を引き換えにしたとか、来客のお給仕をする召使がいないので、妻が召使のふりをしたなどというのは、目に浮かぶような話でありますし、捨てられた妻が貴船明神に百日参詣して、夫の零落を祈願するんですが、夢に出た明神が、時期が来たら落ちぶれさせるよと言ったり、乞食をする元夫の惟成入道の所に食べ物を運んで、さんざん恨み言を言うに至っては、人を怒らせるとどうなるかというような真に迫った話で、大変教訓として意義があります。
さて、そうなるとこの『新百人一首』に採用された一首というのは、糟糠の妻と一緒だった時の歌なのか、それとも離別して他の女の所へ行くようになってからの歌なのか、場合によっては解釈が揺れるのかもしれないのであります。しかしながら、「しばし待て」「まだ夜は深し」というような、初句切れ、二句切れの会話口調というのは、なんとなく若い時からなじんだ妻に向かって、何の心の隔てもなく発した言葉をそのまま歌にしたような気がいたします。『古今六帖』の歌との関係が気になりますが、「待てと言はば」がなんとなく説明口調で、共寝の相手が「待て」と自分をとどめたなら、「ああまだ夜中なんだね」と気が付いたという内容ですが、「しばし待て」というのは詠作主体が共寝の相手に「起きなくていいよ」と制しているわけですから、物語の一場面のような趣が生じるのではないでしょうか。『古今六帖』の歌と、この惟成の歌の前後関係は不明でしょうし、異伝という可能性も残ることでしょう。それでも、あの糟糠の妻と貧しいながらいたわり合っていた時期の歌だとするなら、いい歌なのかもしれないのです。
待てしばしこの世は闇よひさかたの雲居の月ぞ人もまどはす
まてしばし このよはやみよ ひさかたの くもゐのつきぞ ひともまよはす
【訳】
ねえ、あなた、ちょっとお待ちください。この世は一寸先は闇というではありませんか。五位の摂政などと時代の寵児になったのをいいことに、いままで尽くしに尽くした私を捨てて、財力のある人の婿になろうなんて、それこそ気の迷いですわよ。世をしろしめす帝のお側に仕えたばっかりに、はしたなくお心を迷わせていらっしゃるのですよ。(ああ、そう言って諫めたそばから、帝が出家なさるなんて。)
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