足利将軍撰『新百人一首』を読む(26) 安法法師

  26 世をそむく山のみなみの松かぜに苔の衣やよさむなるらん  安法法師

     

【標註】

〇「山の南」は熊野をいへり。新古今に相知れりける人の熊野にこもり侍りけるに遣しける、とあり。

※伝本によっては、この歌は28番に出てくる歌である。


【出典】

〇『新古今集』巻十七・雑中1663(1661)(『新編国歌大観』第一巻)

  あひしれりける人の、くまのにこもり侍りけるに、つかはしける  安法法師

世をそむく山のみなみの松かぜに苔の衣やよさむなるらむ


【語釈】

〇世をそむく 仏道修行などの為に遁世すること。僧侶の境遇にあることを指す。『後撰集』巻十七・雑三1195(小野小町)「岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に貸さなむ」、1196(遍昭)「世を背く苔の衣はただ一重貸さねばうとしいざ二人寝む」の贈答歌を背景とする表現。〇山のみなみ 『新古今集』の詞書に従えば、「熊野」を指すので、「山」は吉野山を意識した表現とみなせる。『安法法師集』41の詞書は「僧の南山に籠りていまするに」とあるだけなので、比叡山東塔無動寺の可能性もある。無動寺は千日回峰行の拠点で、「南山」と称されている。熊野も無動寺も、過酷な修行を前提としていることになる。〇松かぜ 松を吹く風。季節を問わないが、聴覚に訴えて風が吹いていることを知らせる存在。『後拾遺集』巻十七・雑三992(源道済)「世の中を思ひ乱れてつくづくと眺むる宿に松風ぞ吹く」は「題知らず」の歌だが、道済は松を『拾遺集』巻八・雑上461「行く末のしるしばかりに残るべき松さへいたく老いにけるかな」と詠んでいて、この歌の詞書が「河原院の古松を詠み侍りける」とある点には注目すべきだろう。〇苔の衣 「苔衣」。僧侶や隠者がまとう粗末な僧衣を指す。小町と遍昭の贈答歌に見えるのが勅撰集初出例である。〇よさむ 秋が深まって夜の冷え込みを意識した言葉。『宇津保物語』に例があるが、歌に詠まれたものとしては安法のこの歌が最も早い例かもしれない。勅撰集の初出は『後拾遺集』巻四・秋上276(伊勢大輔)「小夜深く旅の空にて鳴く雁は己が羽風や夜寒なるらん」であるが、この歌は『後冷泉院后宮歌合』のもので、安法が詠んだずっと後の歌である。「夜寒」は、新古今時代以降、歌人に好まれた言葉らしい。 


【作者】

〇安法法師 『和歌大辞典』抜粋(明治書院1986年刊・担当犬養廉氏) 安法(あんぽう)平安期歌人。俗名は趁。生没年不詳。河原左大臣源融の曾孫。大納言昇の孫。父は内匠頭適。母は大中臣安則女。父適の時代から沈淪。経歴の詳細は不明だが、出家して河原院の一隅に住み、清原元輔・平兼盛・源順・恵慶ら老若を問わず幅広い歌人・文人が出入り、おのずから風雅な小世界を形成していた。十世紀のいわば日蔭のグループではあるが、折々の歌会、歌集の借覧などによって、古今の伝統を後代に伝えた役割は大きい。中古三十六歌仙の一人で、拾遺集以下の勅撰集に12首入集。家集に『安法法師集』一巻がある。『安法法師集』は、自撰家集。全114首。河原院に在住する安法の風雅生活の記録であり、当代における王氏の傍流歌人たちの雅交の実態が知られて、資料的に貴重なものである。

※Wikipediaから次のような内容が拾える。962年(応和2年)「庚申河原院歌合」を催している。980年代天王寺別当を務めたという。娘(安法法師女)も勅撰歌人として『新古今和歌集』に2首が採録。「くれはつる 年をしみかね うちふさば 夢見むほどに 春はきぬべし」(安法法師集)。


【訳】

俗世を捨てて熊野で修行する日々はいかがですか。粗末な僧衣をまとって厳しい修行に臨んでいるあなた様にとって、音を立てて松を吹く風に、いかばかり夜の寒さが身に染みることでしょう。こちらも、松吹く風に夜の寒さを感じております。


【参考】

〇『新古今和歌集』(新日本古典文学大系11 田中裕氏1992年刊)脚注

世を遁れて籠っていらっしゃる熊野の南は松風が厳しくて、秋もふけたこの夜頃御法衣はさぞかし寒いことでしょう。安法法師集「僧のみなみ山にこもりていまするに」。〇山のみなみ 熊野山地の南にある那智をさすか。那智山は「み熊野の南の山」と呼ばれた。〇苔の衣 法衣。僧衣。苔衣・苔の袖とも。八雲御抄三「苔衣 非僧、又僧」。苔は山・松の縁語。〇夜寒 秋もふけて寒さの感じられること。寒夜は冬の夜。▽参考「み熊野の南の山の滝つ瀬に三とせぞぬれし苔のころもで」(万代集・釈教・良守)。〇人名索引 安法(あんぽう) 俗名は源趁。生没年未詳。嵯峨源氏。内匠頭適の男。母は神祇伯大中臣安則の女と伝える。曾祖父融が造営した河原院に住み、恵慶をはじめ源順・清原元輔らと交流あり。応和2年(962)『河原院歌合』などを主催したと推定される。中古三十六歌仙。家集『安法法師集』。拾遺集初出。(後略)

〇『新古今和歌集』下(角川ソフィア文庫 久保田淳氏2007年刊)

憂き世をそむいて籠っていられる山の南の那智の松風で、あなたの法衣は夜さぞ寒いことでしょうね。〇熊野 安法法師集では「南山」といい、同集の注釈(新大系『平安私家集』)では比叡山の無動寺かと考え、新古今集の詞書の「熊野」を誤と見ている。〇山の南 中世の註釈書で那智山(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)のことかという。熊野の海は「南の海」と歌われることがある。〇苔の衣 僧衣。「苔の袖」に同じ。「苔」は「山」「松」の縁語のような意識でいう。〇夜寒 『新古今集』巻五・秋下472(西行)「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく」。▽小野小町と遍昭の「岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣をわれに貸さなむ」「世をそむく苔の衣はただひとへ貸さねばうとしいざ二人寝む」(後撰・雑三)を念頭に置くか。▽定家十体で長高様の例歌とする。〇作者略伝 安法(あんぽう) ―法師。生没年未詳。円融天皇期の人。天元2年(979)生存。嵯峨源氏。適男。母は大中臣安則女。河原左大臣と称された融の曾孫。俗名趁(したごう)。中古三十六歌仙。家集は安法法師集。拾遺集初出。(新古今集入集歌は)三首(1472・1570・1663) 

〇『新時代不同歌合』(藤原基家撰・京都市歴史資料館本)七十一番左安法法師「世をそむく山の南の松風にこけの衣や夜寒成らん」。右源師光「侘人の宿にはうゑし桜花ちればなげきの数まさりけり」。

※伝本によっては24番左。

〇『今昔物語集』本朝世俗部上巻(角川日本古典文庫・1954年刊)巻24-46「河原院に歌よみどもの来て和歌を読みし語」

今は昔、河原院に宇多院住ませ給ひけるに、失せさせ給ひければ、住む人もなくて院の内荒れたりけるを、紀貫之、土佐国より上りて行きて見けるに、あはれなりければ読みける、「君まさでけぶりたえにし鹽がまのうら寂しくも見えわたるかな」と。此の院は陸奥国の鹽窯のやうを造りて、潮の水をたたへ汲み入れたりければ、かく読むなるべし。其の後、この院を寺になしてけり。さて安法君と云ふ僧ぞ住みける。其の僧、冬の夜月のいみじくあかかりけるに、かくなむ読みける、「天の原そこさへ冴えやわたるらむ氷とみゆる冬の夜の月」と。西の対の西面に、昔の松の大きなるありけり。其の間に歌よみども、安法君の坊に来て、歌を読みけり。古曾部の入道能因、「年ふればかはらに松は生ひにけり子の日しつべきねやの上かな」と。〔欠字〕の善時、「里人の汲むだに今はなかるべし板井の清水みぐさゐににけり」と。源道済、「行く末のしるしばかりに残るべき松さへいたく老いにけるかな」と。其の後、此の院いよいよ荒れ増りて、其の松の木も一とせ風に倒れしかば、人々あはれになむ云ひける。其の院今は小宅どもにて堂ばかり、となむ語り伝へたるとや。

〇『日本往生極楽記』慶滋保胤著・永観二年(984)成立・寛文九年(1669)刊

源の憩は、内匠の頭・適が第七の男なり。少年の時より志仏法に在り、敏給にして書を読む。行年廿有余、病に臥すこと廿余日遂に世間を厭ひて出家入道、平生偏に弥陀を念じ、病裡いよいよ之を念ず。兄の僧安法にあひ語りて云はく、「西方音楽有るを聞くこと得るやいなや」と。答へて曰く、「之を聞かず」と。また曰く、「一つの孔雀有り。我が前に翔舞す。毛羽光り麗し」と手に定印を結び、念仏して絶す。

※原文を訓読してみた。これをもとにして『今昔物語集』巻十五-33話が書かれたと考えられている。

〇『尊卑分脈』第三篇(国史大系)

嵯峨天皇――源融 ――昇 ――適 ――済 ――官 ――趁 ――女子

      左大臣  大納言 内蔵頭 陸奥掾    出家安法

※直系のみを記した。『中古三十六歌仙伝』には「大納言昇卿孫、内匠頭遄嫡男、母神祇伯大中臣安則女、俗名趁」とある。

〇『大和物語』(日本古典全書・朝日新聞社1961年刊)168段

(前略)小野小町といふ人、正月に清水に詣でけり。行ひなどして聞くに、あやしう尊き法師の声にて読経し陀羅尼読む。この小野の小町あやしがりて、つれなきやうにて人を遣りて見せければ、「蓑一つを着たる法師の、腰に火打笥など結ひつけたるなん、隅にゐたる」と言ひけり。かくてなほ聞くに、尊くめでたう聞こゆれば、ただなる人にはよもあらじ、もし少将大徳にやあらんとおもひにけり。いかがいふとて、「この御寺になん侍る。いと寒きに御衣一つ貸し給へ」とて、「岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣をわれに貸さなむ」と言ひやりたる返しに、「世をそむく苔の衣はただ一重貸さねばつらしいざふたりねん」と言ひたるに、さらに少将なりけりと思ひて、ただにも語らひし仲なれば、逢ひて物言はんと思ひて往きければ、かい消つやうに失せにけり。(後略)

          

【蛇足】

ひとつ前の山田法師の歌と、内容が被りますので、最初は何も問題がないのだろうと思いましたが、意外にもいろいろな問題があって、これを『新百人一首』に採用した将軍の力量に感服しました。山田法師の歌も、そして安法法師の歌も、出家した人物が同じような境遇の人物に向けて詠んでおりまして、そこには修行の厳しさを知る人間が、歌をもらう人に向けて発する慈愛の気持ちが込められておりまして、これこそが歌を詠むという行為の勘所なのだろうと思います。京都というような都の暮らしというのは、これは都市生活でありますけれども、そこには安心・安全な環境が構築されていて、人間は幾重にも保護されているのであります。そこから一歩外に出れば、もはや自然の脅威は人間を脅かすわけで、邸宅や寺院の中で聞く松風というのは天候や気象・季節を教えてくれる音声情報になるわけですが、これが熊野での修行であるとか、比叡山の千日回峰行にでもなると、もはや命に関わる物なのかもしれないのであります。松風で夜寒を感じても、自己中心的な人間なら寝具を重ねるだけでありますが、修行仲間がいたり、知人が修行に旅立っていったりして、その安否が気になる人にとっては、眠れない一夜を過ごすわけです。

安法は、『後撰集』や『大和物語』に出てくる小町と遍昭のやり取りを踏まえつつ、「夜寒」という俗っぽい日常語を織り交ぜて、旧知の人にさりげなく安否を問う歌を詠んだのだろうと思います。貴族社会の末端にいて、常に仏道に救いを求めるような人物だったはずですから、修行仲間の安否というのは、山田法師や安法法師などにとっては重大事だったと言えましょう。

安法について気になるのは、この嵯峨源氏の末裔だった人物が、どのような経緯で先祖が営んだ河原院の跡地に住み着いたかということです。『今昔物語集』には、安法が出てくる説話が二つあるわけですが、その結果彼の系図の問題というのは、説話の世界で古く取沙汰されて、ほぼ結論が出ていたようであります。こういう時に一番頼りになる『尊卑分脈』を見ると、嵯峨天皇の皇子として有名な源融が祖でありまして、さぞや名門なのかと思いましたら、実はそうでもないのであります。『百人一首』14番にも出てくる河原左大臣源融ですから、順風満帆の人生を歩んで豪邸河原院を営んだと思っていたのですが、『尊卑分脈』には何か国もの国守を務めたことが記してあります。案外苦労人だったのかと思いましたし、国守時代の貯えが河原院造営の原資になったのかもしれないと思いました。源融の子の昇という人物は大納言までたどり着いていますので、ここまでは公卿なんですが、融の孫の適という人は内蔵頭ですから、もはやただの役人であります。尊卑分脈では、その適の曾孫が安法法師でありまして。父は官職の記載がなく、祖父は陸奥掾ですから国守ですらないわけです。どうもこの辺りがリアルな安法法師の境遇でありまして、じゃあ他の資料で伝わる「昇の孫」という説は何なのかということが問題だと思います。私が『尊卑分脈』の伝える安法法師の立場であれば、「曾祖父は河原左大臣」だと虚勢を張ることくらいはするのではないかと思います。「曾祖父の祖父が河原左大臣」などという正確な言い方は、面倒くさいというか、自己紹介には使えないのではないかと思うのです。安法法師が最期を看取った「憩」という人物は、おそらくは安法法師の祖父「済」の弟だったのではないかと思います。ともかく、安法法師が世の中に出た時には、すでに河原左大臣や大納言昇のころの威勢は残っていなくて、歌はそこそこうまくても、歌合のような晴の場に招かれるような身分ではなかったというのが、事の真相かと思います。


  世をそむく六条河原の松かぜに苔の衣ぞ夜寒身に染む

  よをそむく ろくでうがはらの まつかぜに こけのころもぞ よざむみにしむ


【訳】

えっ、今なんておっしゃいました。河原左大臣の末裔は嘘だろうって。何をおっしゃいます。本当のことを申し上げると、河原左大臣の孫に適がおりまして、それが私の曾祖父なんです。「河原左大臣様が……曾祖父です」と、ちゃんと申し上げましたよ。それでも子孫として河原院を住みかとするには十分じゃありませんか。出家して粗末な僧衣に身を包んでおりますと冷え込みがきつく感じられまして、耳にする河原院の松吹く風に震え上がっておりますよ。世間を欺いているわけではありません。


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