足利将軍撰『新百人一首』を読む(25) 山田法師
25 よし野山もみぢの色やいかならんよその嵐の音ぞはげしき 山田法師
【標註】
(記事なし)
※伝本によっては、この歌は27番に出てくる歌である。
【出典】
〇『続後拾遺集』巻十五・雑上1039(1031)(『新編国歌大観』第一巻)
わらはともだちにてかたらひ侍りける人、かしらおろして後、あらしのいみじう吹き侍りける比芳野山にこもりたりと聞きてつかはしける 山田法師
芳野山もみぢの色やいかならんよその嵐の音ぞはげしき
【語釈】
〇よし野山 一般には「吉野山」と表記する。「吉野」は、『広辞苑』第四版によると、「奈良県南部の地名。大和国の一郡で、平安初期から修験道の根拠地。古来桜の名所で南朝の史跡が多い」とする。中西進編『万葉集事典』では「主として吉野離宮のあった吉野川を中心とした流域一帯の山河をさす」と説明する。『万葉集』巻一27(天武天皇)に「よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ」とある。また、同74(文武天皇)「み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今宵も我が独り寝む」とあるが、二句目は原文「山下風之」で、『新勅撰集』巻八・羇旅497には作者を持統天皇として「やましたかぜの」とある。「吉野山」と詠んだ歌は『後撰集』巻十六・雑二1167・1168(題知らず・読人不知)の贈答歌「数ならぬ身を持ち荷にて吉野山高き嘆きを思ひこりぬる 返し 吉野山越えむことこそ難からめこらむ嘆きの数はしりなむ」に見える。〇もみぢの色 『後撰集』巻八・冬459(伊勢)「涙さへ時雨に添ひてふるさとは紅葉の色も濃さまさりけり」。〇いかならん 「いかならむ」は『万葉集』に7例、『古今集』に1例あるが、係助詞「や」を受けて三句目に出てくる歌としては、『後拾遺集』巻十・哀傷535(源道済)「小夜ふけて峰の嵐やいかならむ汀の浪の声まさるなり」がある。〇よそ 『岩波古語辞典』は「かけ離れていて容易に近寄りがたい場所、またそのような関係の意。転じて、まったく無関係であること、局外者の意」と原義を説明する。ここは、幼馴染がこもる吉野山に対して、山田法師が現在いる場所を指す。『山田法師集』の詞書では、「山にまかりのぼり侍りし」とあるので、比叡山と考えてよいだろう。〇嵐 木の葉などを吹き散らす荒い風。〇はげしき 「はげし」は風や波が強烈であることを言う。「音ぞはげしき」という表現は『万葉集』ならびに勅撰二十一代集では、この歌のみ。『後拾遺集』巻五・秋下339(中務)に「月はよしはげしき風の音さへぞ身にしむばかり秋はかなしき」とある。
【作者】
〇山田法師(やまだのほふし) 伝記については未詳。明治時代の矢野玄道が『十訓抄私記』において、山田法師は玄賓のことではないかという指摘をしていたことを、『十訓抄詳解』の著者石橋尚宝が引用して紹介している。『古今集』巻十九・雑躰1027(読人不知)「あしひきの山田のそほずおのれさへ我を欲してうれはしきこと」や、『続古今集』巻十七・雑上1608「やまだもるそほづの身こそあはれなれあきはてぬればとふ人もなし」などの歌の「山田」「僧都」の影響によって「山田法師」と名乗ったと見たのであろう。新日本古典文学大系の『後撰和歌集』や『新古今和歌集』などでは架空の人物という視点を提供している。
なお、『山田法師集』全37首を参照すると、俗人だった時には桜狩や漢詩の会に参加して歌を詠む機会を得ており、また何らかの学芸に入門して弟子として努めていたが、懈怠の為師匠から叱責されることがあったらしい。住吉大社に参詣しているので、立身出世に期待を抱いていたが、仏道に心惹かれて延暦寺や石山寺に参籠することもあった。やがて親の死を契機に仏道に入ったらしい。係累に尼となっていた叔母(伯母)がいて、出家の際に気に病んでいる。熊野に修行に出たものの病で倒れたこともあった。幼馴染も出家して吉野にいると聞いて届けた歌が今回の歌だが、家集と『続後拾遺集』の表現に異同があるので、現在知られている家集『山田法師集』とは別系統の家集があった可能性がある。『後撰集』入集歌が家集に見えない点が不審だが、若くして『後撰集』に歌が採られたものの、歌人としての活動は限定的で、時折人生の岐路で歌を詠みしたためたのだろう。私事に関して詠んだ歌では、詞書に謙譲語や丁寧語の使われた歌が多くあり、身分ある人に求められて家集をまとめた可能性があるだろう。以上を勘案すると、歌物語の主人公を企図した架空の人物ではなく、殿上人になる事が叶わず、不如意な官人生活に見切りをつけて修行の道に入った人物で、歌道に関しても仏道に関しても特に頭角を現すことのなかった人物と言えよう。
【訳】
どうしているかと常々気にしていた幼馴染のそなたの近況が分かって、うれしく思いました。私と同じ仏道に入ったあなたが、今は吉野で修行しているのですね。古い離宮があった吉野の、山の紅葉の色は、京の都の紅葉とくらべてどんな感じなのでしょう。さぞや紅葉の色は濃いことでしょう。吉野から遠く離れたこの比叡山は、紅葉を吹き散らす嵐の音が強烈ですが、そちらはいかがでしょうか。比叡山での修行もつらいものがありますが、吉野での修行もきっと厳しくつらいことが多いのでしょうね。
【参考】
〇『山田法師集』(『新編国歌大観』第七巻)
わらはともだちにていみじうかたらひ侍りし人、もろともにとちぎり侍りしを、山にまかりのぼり侍りし時、かの人もならにまかりて、よそよそにすぐし侍れど、なほおもひやられ侍りし、あらしのふき侍りしころ、よしの山にこもりたりときき侍りて
33 よしの山もみぢのいほりいかならん夜半のあらしのおとのはげしき
※二句目・四句目は、『続後拾遺集』や『新百人一首』と異同がある。
※底本の書陵部本の詞書「こもりたり」は、河野美術館本では「ふかくいりたり」とある。
〇『山田法師集』(『新編国歌大観』第七巻 解題)
9山田法師集 (前略)山田法師は叡山で修行した法師らしいが、出自生没等は未詳。後撰集に山田法師の名で一首入集(この歌は家集になし)しているから、10世紀中頃の人であろう。山田法師集は詞書に謙譲語を用いているので、自撰家集と考えられ、本集が唯一の確かな伝記資料でもある。家集からは新古今集以下に八首入集している。(工藤重矩氏)
〇『後撰和歌集』(新日本古典文学大系6)
(題しらず)山田法師
1299 あしひきの山下とよみ鳴く鳥も我がごと絶えず物思ふらめや
▽山田法師は伝未詳だが、高山に住む隠者の風貌と人間的悩みから抜けられない人物として設定されていることも確かである。
※作者名・詞書人名索引 やまだのほふし(山田法師) 伝未詳。『古今集』のよみ人知らず歌「あしひきの山田のそほづおのれさへ我を欲してうれはしきこと」に仮託した架空の人物か。なお、『山田法師集』は後代のものであろう。
〇『新古今和歌集』(新日本古典文学大系11)
年ごろ修行の心ありけるを、捨てがたき事侍りて過ぎけるに、親などなくなりて、心やすく思ひ立ちけるころ、障子に書き付け侍りける 山田法師
1837 しづの男の朝な朝なにこりつむるしばしのほどもありがたの世や
※『山田法師集』と比較すると、詞書にかなりの異同がある。
〇『十訓抄詳解』(石橋尚宝著・明治書院1930年刊)第十「可庶幾才能芸業事」50
さてもとより、さるべききははことわりなり。すべて及ばぬ程の身なれども、芸能につけて望をとげ、賞をかうぶるもの、古今数を知らず多し。あやしのしづのめ・あそび・くぐつまでも、郢曲にすぐれ、和歌を好む輩、よき人にももてなされ、撰集をもけがす。其のためし、あまた聞ゆる中に、(中略・玉淵が女白女の逸話など女流歌人を挙げる)。女にもかぎらず、壬生忠岑は舎人なれども、古今の撰者につらなり、山田法師は非人にして、同じく集をけがす。歌どもは事長ければしるさず。
〇山田法師は非人にして云々 私記に「按釈玄賓事、見古事談、発心集等」とあり。「山田法師」とは、玄賓僧都をいふ。古事談(三)に「玄賓僧都者、南都第一の碩徳、天下無双者也、然而遁世之志深して、不好む山科寺之交、只三輪川の辺、纔結草庵隠居云々、而桓武天皇依強喚、時々従公請、猶非本意存けるにや。平城御時、雖被補大僧都自辞賦一首和歌『三輪川のきよき流にすすぎてし衣の袖を又やけがさん』古今歌にも『山田もるそうづの身こそあはれなれあきはてぬればとふ人もなし』是は彼玄賓僧都歌と申伝たり。如雲風さすらへありかれければ、田など守時も侍けるにや」とて、そのところ定めず、さすらひありきけるよし、詳しく載せたり。山田もるの歌は、続古今集(雑一)に「備中国湯川といふ寺にて、玄賓僧都」とて出でたり。なほ玄賓の伝は、元亨釈書に出で、其の歌は、後撰集以下の九集に、数多見ゆ。(後略)
※「私記」とあるのは、矢野玄道著『十訓抄私記』(1911年)。
※引用されている「山田もる」の歌は、『続古今集』巻十七・雑上1608 の歌で、『新百人一首』15番に入っている。『古今集』巻十九・雑躰1027「あしひきの山田のそほず」の歌と混乱したか。
〇「西山本(承空本を含む)の基礎的考察」(仁藤智子氏2021年国士舘大学)
(18)山田集 山田法師なる人物の自選歌集と考えられ、村上天皇の命によって十世紀中葉に成立した勅撰集である『後撰集』などに採歌されていることから、平安中期の歌人であったことがわかる。(補注10 久保木哲夫「山田集・解題」冷泉家時雨亭叢書69巻2002年)
【蛇足】
足利義尚公は、どういう経緯でこの歌に着目したのでありましょう。さほど有名でもない歌人なのでありますけれども、『後撰集』に一首入集して以降、平安時代には無視されていた歌人なのでありますが、『新古今集』以後、8首の歌が勅撰集に入ったわけで、新古今撰者のもとにどこからか発掘された家集が届けられて、知っている人は知っている歌人だったのかもしれません。だとすると、応仁の乱後、新規に勅撰和歌集が計画される可能性は高かったことでしょうから、その準備を義尚周辺がしていて、零細歌人の家集も蒐集されていたと考えてもいいかもしれません。二十一代目の『新続古今和歌集』が完成したのは、永享11年(1439)でありまして、義尚が『新百人一首』を撰んだのが文明15年(1483)ですから、40年以上勅撰の沙汰がないという状況を踏まえれば、世が世なら第二十二代目に向けて事は動いていたはずなのです。
それにしても、友人が吉野にいて、山田法師自身は京都の東山、比叡山にいて、ともに修行の身とは言いながら離れ離れ、京都の紅葉を吹き荒らす嵐を耳にしながら、友人の目に映る吉野の紅葉を気にしているというだけなのですが、考えてみれば南北朝の時代には、京都と吉野に朝廷が分裂していたわけで、それを踏まえるとこの歌は味わい深いのであります。よって、「嵐」は戦乱を意識することになりまして、ともすれば修行に心がくじけそうになる貴族の末裔の弱音の歌が、鎧兜に身を包んだ南北朝の公達の歌のように感じられるわけです。あくまでも平安時代中期の歌なのでしょうけれど、享受する側は深読みできるということかもしれません。
ペルシア湾波間の船やいかならんよその嵐の音ぞこちたき
ぺるしあわん なみまのふねや いかならん よそのあらしの おとぞこちたき
【訳】
緊迫する中近東情勢を考えると、ペルシャ湾の波間に浮かぶ船舶がどうなることかと気になって仕方ない。遠く離れた日本は、直接関係はないのだけれど、それでも戦乱の報道だけはかまびすしく聞こえてくるよ。
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