足利将軍撰『新百人一首』を読む(24) 橘忠幹
24 忘るなよほどは雲ゐになりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで 橘忠幹
【標註】
〇「ほどは雲ゐに」云々は天涯に別れゆくとも、の意なり。
※伝本によっては、この歌は26番に出てくる歌である。
【出典】
〇『拾遺集』巻八・雑上470(『新編国歌大観』第一巻)
橘忠幹が人のむすめに忍びて物いひ侍りけるころ、とほき所にまかり侍りとて、この女のもとにいひつかはしける
わするなよほどはくもゐになりぬともそらゆくつきのめぐりあふまで
【語釈】
〇忘るなよ 「忘る」は「わする」で動詞の終止形。四段の場合は、積極的に忘却する意となり、下二段の場合は自然に記憶が薄れるの意。「な」は禁止を意味する終助詞。ただ、強制禁止ではなくて、「~しないでほしい」という懇願の気持ちが入り、主従関係や夫婦関係など親密な関係に使われる。『万葉集』巻一80(作者未詳)「青丹よし奈良の宮には万代に吾も通はむ忘るとおもふな」など、「忘るとおもふな」の例が3例ある。「忘る」は、『古今集』では下二段活用の用法が多く、四段活用を使う場合には、受身・自発の助動詞「る」を伴って「わすられ」「わすらるる」と使われる。『後撰集』巻十九・離別羇旅1334(たかとほがめ)「忘るなといふになかるる涙河うきなをすすくせともならなん」を見ると、「忘るな」は別離の際の慣用句であったか。『拾遺集』には「忘るなよ」の例がもう一例、巻六・別306(読人不知)「忘るなよ別路に生ふる葛の葉の秋風吹かば今帰り来む」とある。〇ほど ここは、空間的な「距離」を言う。「ほど」は時代によって意味の変遷があった。 〇雲ゐ 本来は「雲」の「居る」ところの意で、空を指すが、「はるかに遠いところ」を指し、「雲」そのものも言う。「宮中・内裏」を指すこともあった。 〇なりぬとも 「ぬ」は完了の助動詞の終止形。「とも」は逆接仮定条件の接続助詞。『万葉集』巻十二2886に「人言はまことこちたくなりぬともそこに障らむ吾にあらなくに」とあり、西本願寺本は三句目「成友」である。『古今集』巻十九・雑体1003(壬生忠岑)の長歌に一例あり、『後撰集』巻五・秋上228(読人不知)にも一例ある。『拾遺集』は二例で、この忠幹の歌の他にもう一例、巻二十・哀傷1323(御製)に例がある。 〇空ゆく 「空を行く」の意。『後撰集』1190(読人不知)「思ひ出づる時ぞ悲しき世の中は空ゆく雲の果てを知らねば」が先行例か。
【作者】
〇橘忠幹(たちばなのただもと) 橘諸兄の弟橘佐為を祖とする橘氏。父は長門守であった長盛で、兄に大学頭や文章博士だった直幹がいる。長盛は『古今集』の作者であり、直幹は『後撰集』の作者。忠幹の勅撰集入集歌は、この歌の他『続古今集』にもう一首あるだけである。兄の直幹の読みも「ただもと」と読めるため、この歌の作者を兄の直幹と混同している場合がある。忠幹は、天暦九年(955)に駿河介となったが、赴任先の駿河で暴漢によって殺害された記録が残っている。「忘るなよ」の歌をこの事件直前に女に送ったものとする見解がある一方で、父長盛が長門守に任じられた延喜十六年(916)に、父に伴われて長門に行った際の歌ではないかとする見解が提示されている。長盛や直幹の官歴を踏まえて、忠幹の生年が延喜元年ごろと推定されており、それに従うと延喜十六年には若干16歳前後、亡くなった天暦九年には55歳前後となり、そのいずれか、あるいはこの間のどこかで「忘るなよ」の歌が詠まれたことになるだろう。なお、『伊勢物語』に出てくる歌で、詠作年次がもっとも遅いのがこの歌であるため、『伊勢物語』の成立の下限として議論されている。
【訳】
私が遠いところへ旅立って、二人の間がどんなに離れてしまっても、空を巡りゆく月が再び空に戻って来るように、二人がこの都で無事に再開を果たすまで、どうか私のことをあなたは忘れないでいてくれますか。
【参考】
〇講談社学術文庫『伊勢物語全訳注』(1979年刊・阿部俊子氏)「十一 忘るなよ」
昔、男あづまへ行きけるに、友だちどもにみちより言ひおこせける
忘るなよほどは雲ゐになりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで(16)
(中略)
この歌は、『拾遺集』雑上470に、「橘の忠基(幹)が人のむすめに忍びて物いひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、此の女のもとにいひつかはし侍りける」と詞書して採録されている歌である。『古来風体抄』では「遠き所にまかるとて女につかはしける」と詞書して大江為基の歌として採られている。橘忠幹は天暦年間に駿河守になっており、『拾遺集』にいう所によるべきであろう。したがって、『伊勢物語』に、男が東国へ漂泊した折の歌話として載せられたのは、業平の没後、業平以外の歌をもとり入れて物語が作成された時に収録されたものと見なければならない。このことは『伊勢物語』の資料はけっして業平と、その周囲の人の歌のみに限られるものではないことの証明にもなり、また物語の成立の年代が数次にわたり、かなり下ることを考えさせられることにもなろう。
〇『百人一首雑談』(『戸田茂睡全集』・国書刊行会1915年刊)「紫式部」
新古今 めぐりあひてみしやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月哉
此歌伊勢物語拾遺集に入し歌、わするなよ程は雲ゐになりぬとも空行月のめぐりあふまで といふ歌にて読たる、本歌に「めぐりあふまで」といへるゆへに、「めぐりあひて」と読り、
〇『小倉百人一首新釈』(小高敏郎・白楊社1954年刊)「五七 紫式部 参考」
この歌の本歌として、伊勢物語や拾遺集に見える「忘るなよほどは雲井になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで」(拾遺集雑上・470)の詠が、宗祇以来の諸注に引かれている。しかし、一般の本歌取とちがって、はるかに自由で、独創的な詠であるところ、やはり作者のすぐれた才能が見られよう。
〇岩波文庫『百人一首』(2025年刊・久保田淳氏)「57 紫式部」
橘忠幹は長盛の子で、駿河介になったが、天暦九年(955)賊に殺されたという。下河辺長流『三奥抄』は「伊勢物語に」として、紫式部がこの歌を本歌にしたと考え、契沖『改観抄』はただ「本歌」として挙げる。賀茂真淵『宇比麻奈備』や香川景樹『百首異見』では、「忘るなよ」の歌に言及しない。紫式部がこの歌を知っており、意識してもいたであろう。
【蛇足】
なかなかいい歌ではないかと思います。「忘るなよ」が初句切れで、二句以下が倒置法ですから、当然ながら何度も何度も口ずさんでいるうちに、倒置が解消されて感じられるという歌です。「ほどは雲ゐになりぬとも」というのが、相手が残る京都を起点として、雲居はるかの赴任地を意識させまして、「たとえ遠くへだたっても」というのが視覚的にイメージできるのでありましょう。そして、「雲居」の縁語である「空ゆく月」「めぐり逢ふ」によって男女の夜の逢瀬が喚起されまして、二人の再会も具体的に想起されるという仕掛けなのであります。「空ゆく月の」が序詞のように働きますので、なかなかの佳作なのです。それでいて、使われている言葉は『万葉集』にもあるような言葉で、しかも平安時代にも古くはない普通の言葉ですから、地方へ赴任する国司階級の男性なら、とりあえず親しい女性に贈っておいて損のない歌でありましょう。
これが、実は『伊勢物語』の成立論の重要なカギを握る歌であるというのは、今回この歌を扱って知ったわけですが、いろいろと興味関心をそそられました。『伊勢物語』には収載章段の相違する伝本があるようで、その結果、どの伝本の形態が原初のものなのかというところで、諸説紛々、説が入り乱れているようなのであります。そして、この「忘るなよ」の歌に関しても、これが忠幹の歌だとしたら、業平の歌ではないはるか後代の歌が紛れ込んでいるわけですから、誰が『伊勢物語』を編集したのかという話になるわけです。在原業平は元慶四年(880)56歳で亡くなっていますので、それから30年から75年くらい後の他人の歌がちゃっかり入っているわけで、『拾遺集』の詞書を読むと、忠幹という人物が『伊勢物語』の歌をとりあえず女に贈ってみたという見方をする人も出るわけです。細川幽斎や北村季吟などがその代表で、なぜか近代の研究者はこれを肯定しないのであります。父の長盛や兄の直幹は勅撰集の作者ですから、忠幹が歌が詠めてもいいんですが、三人とも入集歌数はすごく少ないのであります。実は、かつてこの世には小式部内侍本の『伊勢物語』というものがあったらしく、その本の末尾の章段がこの「忘るなよ」の歌だったということが知られておりまして、これが議論を呼ぶらしいのです。
ふと、思いましたが、橘氏の系図を眺めていると橘諸兄の系図の末端のあたりに「道貞」が出てきまして、その女子に「小式部内侍」と明記されています。言うまでもなく、和泉式部の夫だった道貞でありまして、二人の娘が小式部内侍というわけです。『百人一首』で言うと60番の「大江山」の歌を詠んだ人ですが、それが『伊勢物語』の風変わりな伝本にかかわりがあったということです。ひょっとして、同じ橘氏の名歌をそっと書き加えて持っていたなどということはないのでしょうか。小式部内侍の歌の才能は、母親の和泉式部から譲られたもののはずですが、父方の系譜に歌人がいたとしたら、そうした歌を収集して、何かの折に業平の詠にも劣らない歌を付け加えて見たりしていても不思議はないと思います。
忘るなよ血筋は遠くなりぬとも歌詠む才は通ひ合ふやと
わするなよ ちすぢはとほく なりぬとも うたよむざえは かよひあふやと
【訳】
母の和泉式部はともかく、父の橘道貞の先祖には歌人らしい歌人は見当たらないわね。あら、でも見つけた。私の先祖の橘諸兄公の弟、佐為様の末裔に忠幹さんという方がいて「忘るなよほどは雲ゐになりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで」と素敵な歌を詠んでいらっしゃる。たとえ血統はいくら遠いとはいえ、歌を詠む才能というのは、通じ合うものがあるのかと、忘れてはならないことよ。お判りかしら。よって、私の才能は、母だけでなく父方からも来ているのよ。
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