足利将軍撰『新百人一首』を読む(22) 安貴王
22 秋たちていくかもあらねどこの寝ぬる朝けの風は袂涼しも 安貴王
【標註】
〇「いくかもあらねど」 万葉集に幾日もあらねばとあり。
※佐々木信綱の【標註】は、二句目の異同を指摘しているが、実は五句目も「涼しも」が『万葉集』では「寒母」(さむしも)とあって異同がある。
【出典】
〇『拾遺集』巻三・秋141(『新編国歌大観』第一巻)
題しらず 安貴王
秋立ちていく日もあらねどこのねぬるあさけの風はたもとすずしも
【語釈】
〇秋たちて 「立秋」を意味する。陰暦では旧暦の七月初旬となるので、行事としては七月七日の「七夕」にちなむもの。太陽暦の二十四節気の「立秋」は、陰暦上では不定期となる。『万葉集』では、巻一38や巻二196に「秋立てば」とあり、巻十1965「秋立たずとも」、2000「秋立ち待つと」のほか、巻二十4485(大伴家持)「時の花いやめづらしもかくしこそ見し明らめめ秋立つごとに」と読まれている。『古今集』巻四・秋上巻頭169(藤原敏行)「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」の詞書は「秋立つ日よめる」で、次の170(紀貫之)「河風の涼しくもあるか打ち寄する浪とともにや秋は立つらむ」の詞書にも「秋立つ日」とある。〇いくかも 何日も、の意。「幾日」は『万葉集』にはもう一例ある。巻四751「相見ては幾日も経ぬをここだくも狂ひに狂ひおもほゆるかも」。〇あらねど ないけれど、の意。「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形、「ど」は逆接確定条件の接続助詞である。『万葉集』の原歌1559では「不有者」で、西本願寺本の訓は「あらねば」。西本願寺本『万葉集』の訓読は「不有者」26例のうち20例が「あらずは」、6例が「あらねば」と読む。「不在者」6例については、「あらずは」と読むのは1例で、残り5例を「あらねば」と読んでいる。「あらずは」に統一したほうがいいかもしれない。なお、「安良祢婆」が5例あるが、「阿良祢婆」「阿羅祢婆」「安良祢波」や「安良受波」と表記されているものは各1例。「あらねど」と読む場合は「不有跡」、「あらねども」は「雖不有」「不有友」という例がある。ちなみに、「あらずは」の「ずは」は打消の助動詞「ず」の連用形に係助詞「は」が付いたもので、仮定条件であるが、順接でも逆接でもかまわない。〇この 連体詞。初句の「秋立ちて」を受けて、「秋の」または「立秋の頃の」の意か。「この」は「風」に掛かると見るのがよいか。〇寝ぬる 「ねぬる」は下二段動詞「寝(ぬ)」の連用形「ね」に完了・強意の助動詞「ぬ」の連体形「ぬる」が付いていることになるか。「いぬる」と読んだ場合は、下二段動詞「いぬ」の連体形である。〇あさけ 早朝または夜の明ける頃を言う。『岩波古語辞典』は「あさあけの約」とする。『万葉集』には、巻十七3947「今朝のあさけ秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも」と、孤閨を嘆く歌がある。『万葉集』巻十1960も「物思ふといねぬあさけにほととぎすなきてさわたるすべなきまでに」も同様で、『万葉集』には「いねぬあさけ」が三例ある。〇袂涼し 「袂」は「たもと」。万葉集では「人の手首や腕」を指すことがあり、「衣服の袖」の部分とは限らない。『万葉集』巻五857(大伴旅人)「遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我こそまかめ」にあるように、妻の「てもと」に愛着を示す歌が多い。。『万葉集』には「たもとすずし」の例はない。「涼し」は、風や空気が暑くなく、冷たくて快いことを言う。これに対して「寒し」は、気温が低くて快適でないことを言う。「たもとさむし」も安貴王の一首のみ。〇も 終助詞。『岩波古語辞典』「基本助詞解説」は、「終助詞としては、主に奈良時代に例があって、形容詞終止形を承けるものが極めて多い。動詞終止形、あるいは否定形を承けることもあるが、これらの「も」は、用言の叙述を言い放たずに、不確定の意を添えてその表現をやわらげるものと思われる。平安時代以後、文末にはあまり使われなくなった」と説明する。思うに、「悲しも」「苦しも」などの場合、これから起こる感情であることを提示し、それを強く意識している用法と見える場合が多いのではないか。『万葉集』巻二229(河辺宮人)「難波潟潮干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも」。
【作者】
〇安貴王(あきのおおきみ) 新日本古典文学大系7『拾遺和歌集』の作者名索引によれば、生没年未詳で、志貴皇子の孫、春日王の子、市原王の父に当る。神亀六年(729)に従五位下、天平17年(745)には従五位上に叙せられている。阿貴王または阿紀王とも表記される。八上采女と通じ不敬の罪とされたことがあるものの、後に紀女郎と結婚している。万葉集中に長歌一首、短歌三首が見える。勅撰集にはこの『拾遺集』の一首の他、『新勅撰集』に一首、巻十九・雑四1287「伊勢の海の沖つ白波花にもがつつみて妹が家づとにせむ」(『万葉集』巻三306)が入集している。なお、巻四643~645に安貴王の妻である紀女郎の「怨恨の歌三首」という、人を呪い殺さんばかりの歌が採られている。
〇志貴皇子(しきのみこ) 施基皇子・芝基皇子ともいう。天智天皇第七皇子。光仁天皇の父。桓武天皇の祖父。霊亀二年(716)年に薨去しているが、宝亀元年(770)光仁天皇即位にともない、春日宮天皇と追尊され、さらに田原天皇と追尊された。『万葉集』には6首入っている。勅撰和歌集には5首採られた。
【訳】
夏も過ぎ、立秋を迎えてから何日も経過していないけれど、眠れぬ独り寝の夜を過ごして横になっている私に吹き寄せるこの夜明けの風は、心なしか涼しく感じられて、愛しい伴侶のいない腕のあたりが手持ち無沙汰であることよ。
【参考】
〇『万葉集』巻八・秋雑歌1559(1555)(『新編国歌大観』第二巻)
安貴王歌一首
秋立而 幾日毛 不有者 此寝流 朝開之風者 手本寒母
アキタチテ イクカモアラネバ コノネヌル アサケノカゼハ タモトサムシモ
あきたちて いくかもあらねば このねぬる あさけのかぜは たもとさむしも
※西本願寺本による訓だが、いくつか問題がある。二句目の「不有者」は「あらねば」ではなくて「あらずは」と読むべきか。また、三句目「此寝流」は「このねぬる」ではなく「このいぬる」と読むべきかもしれない。
〇「音韻と文法についての覚書」「八 ねば」抄出(工藤力男氏)新日本古典文学大系4『万葉集』四
秋立ちて幾日毛不有者この寝ぬる朝明の風は手本寒しも(1555)
第二句「いくかもあらねば」の古写本の訓は、類聚古集に「いくかもあらぬに」、春日本・広瀬本に「いくかもあらねど」とあり、拾遺集や平安時代の歌論書に引かれた形も「いくかもあらねど」である。つまり、万葉歌で活用語に「ねば」の付いた条件句が、平安和歌の逆態接続表現の「ねど」「ぬに」に対応するのである。そのなごりは古今集にもあって、「天の川浅瀬白波たどりつつ渡り果てねばあけぞしにける」(秋上)の第四句は「渡り切らないのに」と現代語訳されるのが普通である。万葉集および古代歌謡にはこの類が多く、(中略)已然形に「ば」の付いた形は順接表現が通例なのに、「ねば」が逆接の意味で解しうるのはなぜか。(中略)顕昭は、「ねば」の下に「しかはあらじを」「しか思はぬに」などの句を補って解釈すべき表現だとした。(中略)他の説明も提案されているが、簡明には解きおおせないものである。
【蛇足】
なかなかいい歌だと思います。ぼんやりした頭にも、その清涼感が伝わってくるのでありまして、立秋を過ぎたら夜明けの風が心地よいというような内容ですから、当然ながら世間一般なら「実感のこもった素朴な万葉集の歌」というような評価で足りるはずなのであります。しかし、本当にそうなんでありましょうか。この足利義尚公の撰んだ『新百人一首』を読み進めてみると、結構『万葉集』の原歌が勅撰集経由で採用されておりまして、実は興味も関心も薄かった『万葉集』に向き合うことになりました。そうなってみると、思っていたほど『万葉集』の注釈書は緻密ではないと見えまして、何となく物足りないのであります。この歌に関しても特に鑑賞の点で納得のゆく説明はなさそうです。ただ、この歌は素朴ではなくて、なかなか巧妙な七夕を背景にした歌ではないかと思います。まず、立秋から数日ですから、彦星・織姫の二星が再会する七夕が近づいております。「寝ぬる朝け」「たもと」「涼し」と出てきますから、訪問する彦星、あるいは待ち迎える織姫、どちらの立場でもよくて、それぞれの孤閨を嘆いた夜が明けた情景に見えてきます。よく計算された歌だと考えると、何も素朴ではないのであります。つまり、和歌というのは、その始発の時から文学でありまして、教養を蓄えた歌人が詠んでいたということが言えると思います。
昔高名な『万葉集』の専門家の学者さんの授業に出ておりまして、先生が言うには某出版社から出ているシリーズに参加を要請されたので、これこれこういう内容で執筆したのだが、「君、その本売れると思うかい」と聞かれました。当時は貧乏で本を買う余裕などなく、『万葉集』についてもその学者さんについても存じ上げなかったので、首をひねって何か言おうとしていたのですが、どうも短気な方でちょっと機嫌を損ねてしまったかもしれません。その方は、若い時に心ならず地方の大学に奉職して落胆していたそうですが、努力の甲斐あって出身校に戻れたというような自慢話もなさる、なかなかさばけた先生でしたが、明日の飯の心配をしているだけの苦学生には、縁のない話だったのです。『万葉集』が機知に長けた歌集で、その研究者が知的興奮を日々感じながら追究していたと分かっていたら、私も話に乗れたのかもしれないと思います。
さて、『拾遺集』から採られた安貴王の「秋立ちて」の歌は問題なく理解できましたが、気になるのは元の『万葉集』の歌でありまして、「あきたちていくかもあらねばこのねぬるあさけのかぜはたもとさむしも」という訓読を見れば、上の句と下の句がちぐはぐしていて、わけのわからない歌になっているわけです。特に「あらねば」という順接の表現が問題で、「立秋を過ぎたばかりなので、袂が寒い」というのは、いくら何でも論理が破綻していると見えます。これが「立春を過ぎたばかりなので、袂が寒い」ならいいのですけれども、「立秋」では話になりません。よって、「あらねば」を「ないけれど」と解するような説や、顕昭のように言葉を補う説まで出てくることは納得できます。
ただ、【参考】に挙げた新大系の解説では、簡単に解き明かせないということなんですが、果たしてそうでしょうか。【語釈】のところでちょっと触れましたが、『万葉集』1559(1555)の二句目に出てくる「不有者」の訓読を見ると、どうも西本願寺本などは「あらねば」と順接に読んでいて、平安時代などの「あらねど」という逆接と対立しております。この中世以降の「不有者」の訓読が杜撰だっただけなのではないでしょうか。おそらく『万葉集』に出てくる「不有者」「不在者」というのは、「あらずは」と読むべきで、これを気まぐれに「あらねば」と解したのが混乱の原因です。「あらずは」なら、順接にも逆接にも解することができますので、平安時代にはこれを「あらねど」と逆接でさりげなく言い換えただけのことでしょう。おそらく、大伴家持が『万葉集』を編纂したころには、「あらずは」という曖昧な条件節が忌避されて、「あらねば」「あらねど」のように詠むことが普通になったのではないかと思います。平安時代の人々はそこが理解できて、安貴王の歌を間違えずに言い換えたのに、中世には迂闊にも「不有者」「不在者」の解釈が乱れたわけです。
余計なことを言うと、未然形+「ば」とか已然形+「ば」、終止形+「とも」や已然形+「ば」というような、順接・逆接を明確にする平安時代の文法が、中世になると連体形+「に・を」という順接・逆接どっちにも取れる語法に変化して、そっちが主流になった時期もあるわけで、一筋縄では行かないのでありましょう。「ずは」が解けていないと言って、大野晋博士が一年間講義をしたことがあったように思いますが、さてあの時の結論は何だったのか、難しすぎて覚えておりません。
飽き果てて興味関心失せしかど怠けし授業の点辛かりき
あきはてて きようみかんしん うせしかど なまけしじゆげふの てんからかりき
【訳】学生時代を思い起こせば、他に楽しいことはいくらでもあったので、講義の内容にはすっかり飽きてしまい、興味も関心もなくしてしまったものだが、そうやって怠けに怠け、居眠りなどしてやり過ごした授業の単位は、何とか取りはしたものの、点数はひどいものだった。
※念のため申し添えますが、私は結構真面目で熱心な学生でしたので、あくまでも怠けたというのは、創作上のフィクションでございます。文中に出てくる学者さんというのは、もちろん大野晋博士ではありませんので、注意喚起しておきます。
コメント
コメントを投稿