足利将軍撰『新百人一首』を読む(20) 源順
20 老にける渚の松のふかみどりしづめる影をよそにやは見る 源順
【標註】
〇「しづめる影を」云々 松影の水底に見ゆるを身の沈淪せるにとりなして我身のたぐひと思ふとなり。
【出典】
〇『新古今集』巻十八・雑下1709(1707)(『新編国歌大観』第一巻)
なぎさの松といふ事をよみ侍りける 順
老いにけるなぎさの松のふかみどりしづめるかげをよそにやはみる
【語釈】
〇おいにける 「おい」は上二段動詞「老ゆ」の連用形。人が年を取って老人となることや、植物が年を経て古くなったり枯れたりすることもいう。「老松」という言葉もある。『後撰集』巻十五・雑一1107(凡河内躬恒)「引き植ゑし人はむべこそ老いにけれ松の小高く成りにけるかな」は、子日の松が大きくなったことによって、人の老いを実感したことを詠んだ歌。「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。「ける」は詠嘆の助動詞の連体形。〇渚 『順集』には、「渚の院といふ題を詠める」とあるので、題詠に従って詠み込んだもの。「なぎさ」は波打ち際。「水際」(みずぎわ・みぎわ)とほぼ同じ。〇松 『岩波古語辞典』は、「マツ科の常緑樹。長寿・不変の象徴として古来尊ばれた。「待つ」とかけていうことが多い」と説明する。平安時代には、新年最初の子日に小松を引き抜く行事があった。『古今・新古今の花』(国際情報社1982年刊・松田修氏)によれば、松を詠んだ歌は、『万葉集』に79首、『古今集』に14首、『新古今集』に71首採られている。〇ふかみどり 「深緑」は濃い緑色のことをいう。これに対する言葉は「浅緑(あさみどり)」である。『後撰集』巻一・春上42(坂上是則)「深緑常盤の松の影にゐてうつろふ花をよそにこそみれ」。なお、諸注は「六位の身分の者が着る位袍」を示しているとする。位階によって身にまとう服の色を「当色」と称するが、『広辞苑』によると、律令制では、一位は深紫、二位・三位は浅紫、四位は深緋、五位は浅緋、六位は深緑、七位は浅緑、八位は深縹、初位は浅縹と決まっていた。多少の変化はあったとする。〇しづめる 四段動詞「沈む」の已然形に、完了・存続の助動詞「り」の連体形が付いている。ここは、松の影が水中に没して見えることと、自身が昇進できず低い地位に沈淪していることを兼ねて表現している。〇かげ 「影」には、「光」の意や、光に照らされた「物の姿」の意もあるが、ここは水面に映った松の姿をいう。〇よそにやはみる 「やは」は反語の係助詞。「よそに見る」は、無関係なものとして見る、無縁のものと考えるということ。
【作者】
〇源順(みなもとのしたごう) 延喜11年(911)嵯峨源氏の源挙の子として生まれた。挙は嵯峨天皇の曽孫であるが早世している。承平年間(931-938)20代で、勤子内親王に『和名類聚抄』を撰進しているが、これは日本最初の辞典・辞書である。天暦5年(951)に和歌所の寄人となり、『万葉集』の訓点作業や『後撰集』の撰集作業に参加し、「梨壺の五人」と称されている。三十六歌仙の一人で、家集に『順集』があり、『拾遺集』以下の勅撰集には51首入集している。『竹取物語』の作者の可能性もあるとされ、多才の文化人であったが、官途については不遇であった。永観元年(983)に能登守従五位上にて73歳で亡くなっている。なお、この「老にける」の歌の作者ではない。
〇源為憲(みなもとのためのり) 生年は未詳で、筑前守忠幹の子。源順に師事して学問に励み、文章生から蔵人・式部丞を経て、国守を務めた。和歌・漢詩にもすぐれていたが、仏教説話集『三宝絵詞』を永観2年(984)に尊子内親王に献上している。他に『世俗諺文』『口遊』『空也上人誄』などの著作がある。寛弘8年(1011)に亡くなった。『順集』によれば、「老にける」の歌は為憲の作である。
【訳】
水辺にたたずむ松の老木が、水面に濃い緑の影を落としている。老いを迎えて六位に甘んじている沈淪の身の自分が、その老松の深緑を無縁のものと見るものか。私も、この宴の席で深緑の袍衣で、松と同様に老残の身をさらしているのだ。
【参考】
〇『続詞花集』巻十八・雑下877(『新編国歌大観』第二巻)
法性寺大きおほいまうち君、石山のてらにまうでて侍りける時人人に歌よませけるに、六位にてのぞみならず侍りける比よめる 源為憲
おいにける渚の松のふかみどりしづめる影をよそにやはみる
〇『順集』((『新編国歌大観』第三巻)
おなじ年の五月に、二条の大納言いしやまにまうでて七日さぶらひ給ふ。同じ日人の詩つくりうたよむにたへたるあまたあり。いとまのひまに、からのうた、やまとうたよめるに、侍従誠信の朝臣さはりありてとどまれり。後にかの歌どもを見て、みづからゆきてつくりてはべらで、これに又つくりくはへてとすすめしむるに、なかにみかはの権のかみ惟成、江山此地深と云ふ詩の、客帆有月風千里、仙洞無人鶴一双といへると、内記源為憲らなぎさの院といふだいをよめる
274 おいにけるなぎさの松のふか緑しづめるかげをよそにやは見る
といへる。ふたつの和すといへるわか
275 深みどり松にもあらぬ朝あけのころもさへなどしづみそめけん
〇『新古今和歌集』角川ソフィア文庫(久保田淳訳注)
▽源順集や続詞花集・雑下によれば、天元二年(979)の詠で、作者は源為憲。順はこれに和して「深緑松にもあらぬ朝あけの衣さへなど沈みそめけむ」と詠んでいるので、ここは撰者の誤り。なお、定家十体で有心様の例歌とされる。
【蛇足】
源順の歌として『新百人一首』に採用されておりますが、『順集』という家集によると、実は順の歌ではなくて、その弟子の源為憲の歌であることが分かります。勅撰集になり損ねた『続詞花集』には為憲の歌として入集しておりますので、『新古今集』の撰者たちが誤りを犯したことになります。新潮日本古典集成版の『新古今和歌集』の付録を見ると、この歌を撰んだのは藤原有家と藤原雅経の二人でありますけれども、彼らがこの歌を順の歌だとする資料に依拠したのか、それともわざと間違えたふりをしてみたのか、その点に関しては『新古今集』の注釈書は教えてくれません。というか、『新古今集』の注釈書は、為憲の名を作者一覧には載せませんので、あくまでも本文に従って解説するという姿勢に徹しているわけです。作者が違うということは、本家の『百人一首』にもあります(22番文屋康秀・37番文屋朝康)ので、そうしたやり方をわざと踏襲したのかもしれません。つまり、撰者の足利義尚公は、この歌が源順の歌ではなくて、源為憲の歌だと十分承知の上で、『新古今集』の作者名表記に従ったという可能性もあるということです。
源為憲というのは、聞いたこともない歌人でありまして、その著作『三宝絵詞』が、『三宝絵』という書名で、岩波書店1997年刊の新日本古典文学大系31『三宝絵 注好選』に入っております。その巻末に、大曾根章介氏の「源為憲雑感」という一文がありますけれども、ちょっとびっくりしましたので、少々紹介を試みてみたいと思います。というのは、歌人としての源順については、「梨壺の五人」という輝かしい経歴の持ち主として意識するのが普通ですが、どうも彼の人生はそんなに甘いものではなかったようであります。源順の『和名類聚抄』は、実は子供向きの「簡便で実用的な和語の字書」として編纂されたもので、彼のキャリアとして貴族や文人の間で注目を浴び高評を博したものではないというのであります。平安時代前期においては、初等教科書の著述は一流の学者のするような仕事ではなかったらしいのです。よって、源順の立身出世とは無関係であり、ましてや庇護者となるべき源高明の失脚によって不遇に終わったわけです。その順の境遇をそのまま継承したのが弟子の為憲で、『三宝絵』も若い女性向きの仏教の啓蒙書でありまして、それ以外の『世俗諺文』『口遊』なども幼童の啓蒙のための著述だったそうで、本人もこれらを業績として誇示することもなく、世間も為憲を高く評価することがなかったわけです。しかしながら、平安時代の後半、いわゆる院政期から鎌倉時代になると、啓蒙書の執筆が一流の学者の仕事として認められるようになったそうですから、源順や源為憲は活躍の時代を間違えてしまったと見てよさそうです。
以上のような状況を、『新古今集』の撰者たちが理解していたとしたら、不遇に終わった『後撰集』撰者の源順に深い同情を寄せるということがあったかもしれません。そして『順集』の師弟のやり取りをながめて、分かりやすい弟子の為憲の歌のほうを採用し、そこに師匠の順の名を添えるというようなことをしたかもしれないのであります。いえ、やはり誤りは誤り、どこまでも糾弾して止まないという立場もある事でしょうけれども、足利義尚公とその周辺は、そのあたりの機微を汲み取って『新古今集』に従ったこともあるだろうと申し述べておきたいと思います。
負ひにける師匠の名前汚さじとしたがふ弟子をよそにやは見る
おひにける ししやうのなまへ けがさじと したがふでしを よそにやは見る
【訳】
源順師匠の名に恥じないほどの文才を持っていると評判の源為憲が、師匠の名前を汚さぬようにと、せっせと啓蒙書を書きしたためていたのだ。その師匠に追随する弟子のあっぱれな姿を、無関係な他人事と見るか。いや、他人事とは見ずに我々新古今撰者も精進しようではないか。
※四句目の所に、源順の名前「したがふ」を隠しておきました。
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