足利将軍撰『新百人一首』を読む(10) 藤原良房

10 年ふれば齢は老ぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし  忠仁公


【標註】

〇「花をし見れば」は、花を忠仁公の御女染殿の后にそへてよめり。古今に「染殿の后の御前に花瓶に桜の花をささせ給へるを見てよめる」とあり。


【出典】

〇『古今集』巻一・春上52(『新編国歌大観』第一巻) 

   そめどののきさきのおまへに、花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる

                  さきのおほきおほいまうちぎみ

 年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

※「さきのおほきおほいまうちぎみ」は「前太政大臣」をいう。「さきの」が「前」、「おほい・まうちぎみ」が大臣をいう。「まうちぎみ」は「まへ・つ・きみ」で天皇に仕える人を敬って言う言葉で、「公卿」を指す言葉。


【語釈】

〇年ふれば 「ふれ」は下二段動詞「経(ふ)」の已然形。『岩波古語辞典』は「場所とか月日とかを順次、欠かすことなく経過して行く意」と説明する。『万葉集』巻十九4173(大伴家持)「妹を見ず越の国辺に年ふれば我が心どの和くる日もなし」。〇よはひ 『岩波古語辞典』は「ヨ(一生)ハヒ(延)の意か。多く人間の、重ね経た年齢にいう。類義語トシ(年)は、イネのみのりの意から、一年の意。『古今集』巻十七・雑上(読人不知)「留め敢へずむべもとしとは言はれけりしかもつれなく過ぐる齢か」※「年」に「疾し」を掛ける。〇しかはあれど 似た表現の「しかれども」は『万葉集』に14例(雖然8例・之可礼杼毛2例・然有十方・然鞆・之可礼登毛・之加礼騰母各1例)見えるが、『古今集』にはない。どういう事情があるのか分からないが、『岩波古語辞典』は「しかれども」について、「シカアレドモの約。平安時代漢文訓読系の用語」と解説し、奈良時代の例を失念している。良房が使った時には、老人めいた古い言い回しとして、効果を上げたかもしれない。〇花をしみれば 佐々木信綱の標註は、「花をし見ればは、花を忠仁公の御女染殿の后にそへてよめり」とする。 〇もの思ひ 心配や悩みをいう。『万葉集』巻三296(田口益人)「廬原の清見の崎の三保の浦の寛けき見つつ物思ひもなし」。


【作者】

〇忠仁公 藤原良房。延暦23年(804)藤原冬嗣の次男として生まれる。弘仁14年(823)嵯峨天皇の皇女源潔姫と結婚。天長6年(829)娘の明子が生まれている。後に養子になった基経(兄長良の三男)を除くと唯一の子である。蔵人頭を経て承和元年(834)参議となり、その後中納言・大納言を経て承和15年(848)右大臣となる。文徳天皇は天長4年(827)に生まれ、承和9年(842)皇太子となったが、そのころ明子を妃の一人に迎えている。嘉承3年(850)に第55代の天皇に即位した直後、明子との間に第四皇子(惟仁親王・後の清和天皇)が生まれており、惟仁親王はその年皇太子となった。斉衡4年(857)良房は太政大臣となって、位人臣を極めた。天安2年(858)清和天皇が第56代天皇として即位し、明子は皇太夫人となった。「年ふれば」の歌はこのころの歌と思われ、小町谷照彦氏はちくま学芸文庫『古今和歌集』の補注で良房50代の作品かと推測している。良房は、貞観8年(866)それまで皇族が務める慣例だった摂政に就任した。貞観14年(872)69歳で亡くなっている。なお、清和天皇は貞観18年(876)に譲位して太政天皇となり元慶4年(880)31歳で崩御、染殿の后と呼ばれた明子は昌泰3年(900)72歳で崩御した。

『日本三代実録』によると、貞観8年3月23日に弟の良相の西の京の第で桜花を観る宴があり、同じ年の閏3月1日に良房の東の京の染殿第でも桜花を観る宴が催され、ともに清和天皇の行幸があった。この直後伴善男による応天門の変(放火事件)が起きている。また翌年陸奥国で貞観地震が発生して三陸海岸で大津波が起き、甚大な被害が発生している。朝廷は使者を派遣し、その後「陸奥国修理府」を設置した。京都の祇園祭は、この地震の被害者の鎮魂の御霊会が起源とされている。

ちなみに、Wikipediaには、良房が政権運営をしていた時期には新しい政策が乏しかったものの、晩年に法制の整備と修史編纂に力を注いだという指摘がある。具体的には『貞観格式』や『続日本後紀』を完成に導いていて、ある程度の実績を残したことは間違いない。


【訳】

この世に生を受けて月日が過ぎるのを感じながら暮らしてきたが、私も齢を重ねて老いを迎えたことだのう。その間に様々な苦労もしたものだが、しかしながらじゃ、この染殿の瓶に挿された花を眺め、その花にも勝って咲き誇る娘のそなたを眺めていると、悩みの種が何一つ感じられないことだ。まことに愉快、愉快。


【参考】

〇『枕草子』「清涼殿の丑寅の隅の」(岩波新日本古典文学大系)

  ……春の歌、花の心などさいふいふも上臈二つ三つばかり書きて、「これに」とあるに、

    年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をば見れば物思ひもなし

  といふことを、「君をし見れば」と書きなしたる、御覧じくらべて、

〇『大鏡』第二・太政大臣良房 忠仁公(岩波新日本古典文学大系)

  ……御むすめの染殿の后の御前に、桜の花の瓶に挿されたるを御覧じて、かく詠ませたまへるにこそ。

    年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし

  后を花に譬へ申させたまへるにこそ。

〇『今昔物語集』巻第二十二・「閑院の冬嗣の右大臣、幷びに子息の語」第五(角川古典文庫・本朝世俗部上巻)

二郎は太政大臣まで成り上り給ひて、良房の大臣と申す。白川の太政大臣と申すこれなり。藤原の氏の、摂政にも成り、太政大臣にも成り給ふは、此の大臣の御時より始まればなり。凡そ此の大臣は、心のおきて広く、身の才賢くて、万の事人に勝れてぞおはしける。又和歌をぞめでたく読み給ひける。御娘をば文徳天皇の御后にて、水尾の天皇の御母なり。染殿の后と申すこれなり。其の后の御前に、めでたき桜の花を瓶にさして置かれたりけるを、父の太政大臣見給ひて読み給ひけるなり。

  年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみれば物思ひもなし

と。后を花に譬へて読み給へるなりけり。此の大臣は、かくいみじくおはしけれども、男子の一人もおはさざりければ、「末のおはさぬが極めて口惜しきなり。」とぞ世の人申しける。

※水尾の天皇 清和天皇。水尾はその御陵の地。


【蛇足】

正直なことを言うと、ようやくよく知っている歌が出てきたという感じであります。1番の文徳天皇の歌や5番の源当純の「谷風に」の歌も、折々に目にする歌ではありますが、どちらも作者についての印象がありませんので、今回『新百人一首』のラインナップの中で意識したに過ぎません。それに比べると、この藤原良房の歌は、『枕草子』でも『大鏡』でも、さらには『今昔物語集』でも見たことがありまして、それも高校生くらいの時にはすでに知っていたかもしれません。『和歌文学大辞典』によると、良房の勅撰集入集歌というのはこの一首だけなんだそうで、その一首が、うっかりすると本家の『小倉百人一首』の桜の歌なんかよりもはるかに有名かもしれません。『小倉百人一首』の花または桜の歌を探しますと、8首しかないようであります。

  9番 花の色はうつりにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに(小野小町)

  29番 心当てに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花(凡河内躬恒)

  33番 久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(紀友則)

  35番 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(紀貫之)

  61番 いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな(伊勢大輔)

  66番 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし(行尊)

  73番 高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなん(大江匡房)

  96番 花誘ふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものは我が身なりけり(藤原公経)

29番は秋の「白菊」ですからこれを除外すると春の花は7首、その中で9番や33番・96番の「花」は桜だと言われておりまして、これに対して35番は梅と考えるのがいいのかと思います。61番「八重桜」や66番「山桜」をやや特殊な桜と考えると、普通に「桜」を詠んだのが匡房の73番だけというような状況であります。もちろん、江戸時代に開発されたソメイヨシノではありませんから、さてどんな桜を想定するのがよいのか分からなくなってまいります。良房の歌の「花」(詞書では「桜の花」)が、伊勢大輔が詠んだ奈良の八重桜かもしれないわけで、なかなか特定するのは難しそうです。それから、良房の歌は「老いぬ」とありまして年齢を感じているわけですが、9番「我が身よにふる」、33番「ふるさと」(※私説ですが「故郷」に「経る」または「旧る」が掛かっているかも)、96番「ふりゆくものは我が身」などと、花を見ると我が身の老いを自覚するというのが目立ちます。さらに、29番「白菊の花」、61番「八重桜」、73番「尾上の桜」などは、私の個人的な見解ですけれども、誰か人を例えている歌に見えます。「白菊の花」は意中の女性、「八重桜」は藤原彰子、「尾上の桜」は藤原師通のことだと考えているのであります。9番の「花」は小野小町自身と考えると、花と言うのは擬人化を誘いやすい歌材ということなのでしょうか。そう考えたら、33番の散る花も35番の香のする花も擬人化している可能性はあるでしょうし、96番は公経が自分を投影しております。66番に至っては、山桜に声を掛けて親愛の情を示しております。こうしてみたら、単純な叙景歌などというものは、そうは存在しない可能性が高いのではないでしょうか。つまり、良房の歌いっぷりと言うのは、もはや和歌の始発の段階からそうだったのを受け継いでいて、それがその後の手本にもなったと考えてよいでしょう。ちなみに、『百人一首』の近代の注釈書では、伊勢大輔の歌や大江匡房の歌の「八重桜」や「尾上の桜」を誰を例えているとは言っていないのですが、そういうことでよいのでしょうか? いえ、ちっともよくはありません。『今昔物語集』のように「后を花に譬へて読み給へる」と解説がないと、だれも歌の真意には気が付かないものらしいのであります。


  年経れば 物思ひもなし 然れども 歌をし見れば 弱き解釈

  年経者 無思物 雖然 見歌者 弱解釈

  としふれば ものおもひもなし しかれども うたをしみれば よわきかいしやく

【訳】年年歳歳、月日が経つうちに、この世はこんなものだと分かって、悩み苦しみなどほとんど感じなくなったものじゃよ。しかしながら、それながら、古歌を眺めていると、なんとまあその脆弱な解釈が多くて杜撰なことよ、これらが物思いの種であるのじゃぞ。ああ、愉快、愉快。

※三句目「雖然」は漢文にも出てくる表現で、「しかりといへども」と訓読するが、これが「しかはあれど」「しかれども」などと音数を調節して訓読され、和歌にも用いられたか。すでに指摘したが奈良時代には使われていたので、良房は古老の口癖のような滑稽味を狙って使ったのであろう。末句の「弱き」には、本歌の「齢(よはひ)」を響かせてみた。


現代では索引の類が多数出版されまして、それらを駆使すると、昔の人が思い至らなかったところまで、考察をめぐらすことができるのかもしれません。しかしながら、文系の大学と言うのは、まったく人気がなくなりまして、後継者はどんどん減少するのでありましょう。インターネットの御蔭で、昔は簡単に見られなかった善本を手軽に見ることのできる状況が、この数年で急速に整っているように思います。よって、蔵書をあらかた処分してしまった私も、こんなことができております。そうして分かるのは、和歌の解釈などというものはずいぶん偏向していて、びっくりするほど遅れているように見えます。しかはあれど、その御蔭でたのしく戯れていられるわけで、何が幸いするか分からない、というのが実感です。

最後に付け加えると、やはり藤原良房の「年ふれば」の歌は貞観8年(866)閏3月1日の日の感懐なのでありましょう。それ以後だと、応天門の変やら貞観地震やらの混乱で、良房自身が幸福をかみしめて「物思ひもなし」などとのんきに歌を詠める状況ではなくなったのではないでしょうか。人生の絶頂があっただけましでありまして、晩年が本当に幸福だったのかどうか、ちょっと気になります。

コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根