足利将軍撰『新百人一首』を読む(9) 藤原実頼
9 池水にくにさかえける巻もくのたまきの風は今ものこれり 清慎公
【標註】
〇たまきの風は珠城宮の遺風なり
【出典】
〇『続古今集』巻二十・賀1908(『新編国歌大観』第一巻)
日本紀竟宴歌、活目入彦五十狭茅天皇 清慎公
いけ水にくにさかえけるまきもくのたまきのかぜはいまものこれり
※「活目入彦五十狭茅天皇」は「いくめいりひこいさちのすめらみこと」と読む。写本などでは「いくめ」を「いきめ」とする。第十一代天皇である、垂仁天皇(すいにんてんのう)のことである。なお、垂仁と言うのは奈良時代に淡海三船が漢風に諡名したもの。
【語釈】
〇池水 「池」は、『岩波古語辞典』によると「生け」の意で、「魚などを生かしておくところ、養魚や灌漑用、のちには観賞用などに作られた」とする。『日本紀竟宴和歌』の左注には「いけをつかしむ(令作池溝)とあるので、ここは灌漑用に作られた池。現在の狭山池(大阪狭山市)を指すか。「池水」は、その池に水が溜められた状態をいう。『万葉集』巻二十4512(大伴家持)「池水に影さへ見えて咲き匂ふ馬酔木の花を袖に扱き入れな」。〇くにさかえ 『日本紀竟宴和歌』の左注には「御宝富み豊かにして(百姓富裕)」とある。『万葉集』巻七・雑歌「月を詠める歌十八首」1086「靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし」。〇まきもくの 「まきもく」は「まきむく」とも言い、「巻向山」付近。巻向山は奈良県桜井市、垂仁天皇の珠城宮が置かれた土地を言う。『万葉集』巻七・雑歌「雲を詠める歌三首」1087「あなし川河波立ちぬまきもくのゆつきが岳に雲居立てるらし」。〇たまき 垂仁天皇の皇居は、『日本書紀』では「纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)」とあり、現在の桜井市穴師付近にあったとされる。〇かぜ 佐々木信綱の標註は、これを「遺風」と解説している。「風」は本来大気の流れのことであるが、そこから人や時代に影響を与える風習や伝統・思想信条・教条などを言う。灌漑用の土木工事によって国家の繁栄を企図した政策を、ここでは表現している。『新勅撰集』巻二十・雑五1342(藤原俊成)「しきしまや やまとしまねの かぜとして 吹き伝へたる 言の葉は 神の御世より……」。
【作者】
〇清慎公 藤原実頼。藤原忠平を父として宇多天皇の皇女源順子を母として昌泰三年(900)に生まれ、蔵人頭・参議を経て天慶二年(939)大納言になり、天慶六年(943)の『日本紀竟宴和歌』に詠進している。村上天皇が即位した天暦元年(947)に左大臣となり、天暦の治と呼ばれる天皇の親政を支えた。康保四年(967)冷泉天皇の関白となり、安和二年(969)円融天皇の摂政となった。天禄元年(970)亡くなると正一位が追贈され諡号は清慎公と定められた。小野宮殿と呼ばれ、有職故実に詳しく、小野宮流の祖となった。歌人としては天徳四年(960)の『天徳内裏歌合』の判者を務めるなどして、家集に『清慎公集』があり、勅撰集には34首入集している。
【訳】
垂仁天皇が諸国に命じて築かせたという池の水によって、百姓は富裕となりこの国も隆盛となったという、あの巻目の珠城の宮で施行された政策の教えは末代の今も脈々と遺っている。
【参考】
〇日本紀竟宴和歌(『新編国歌大観』第五巻 伝宗尊親王筆本)
得活目入彦五十狭茅天皇(いきめいりひこいさち)
大納言正三位兼右近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣実頼
意気美都耳 倶邇散嘉江計流 満幾牟玖濃 多万起農賀勢芳 伊麻蒙能古礼利
いけみづに くにさかえける まきむくの たまきのかぜは いまものこれり
この天皇、まきむくにみやこつくりせり、これを、たまきのみやといふ、おなじきみよにつかひをつかはして、かうちのくにに、いけをつかしむ、そののち、くにぐににみことのりして、おほくいけをつかしむ、これより、おほむたからとみゆたかにして、あめのしたやすらかなりといへり
〇続群書類従本、左注(漢文体)
此天皇都於纏向、是謂玉城宮也。同帝御世、遣使于河内国、令作池溝。其後、詔令諸国、多開池溝。因是百姓富裕、天下太平也。
※「百姓」の読みは、古代では「ひゃくせい」、中世以降では「ひゃくしょう」、「天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である万民」を意味する場合、「おほみたから」と訓じる。
〇垂仁天皇(すいにんてんのう) 崇神天皇の第三皇子。第11代天皇。『日本書紀』では「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」と呼ばれている。灌漑用の池を造営するように命じて農業を振興したほか、相撲節会の起源となる野見宿祢と当麻蹴速の取り組みを企図したことや、葬儀の際の殉死の風習を改め埴輪で代替したこと、富士山の噴火を受けて浅間神社を創始したことなどで知られている。
【蛇足】
藤原実頼が左大臣の時に催されたのが『天徳内裏歌合』でありまして、この方は歌人でもありますし、身分も高いので判者を務めたわけですが、その時に詠出されて有名なのは、平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで」と壬生忠見の「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の番いとなった二首でありましょう。ともに『百人一首』に入っているくらいですから、この二首を判定するのは難しかったわけで、村上天皇に勝敗を預けたとされています。だとすると、判者実頼は目利きなわけでありまして、身分も高いんですが、文芸にも見識があるというような、ある意味貴族のお手本のような人物と言うことなのです。そういう人物だと知って、第九代室町幕府将軍の足利義尚公は、この歌を撰んだのかもしれません。『新百人一首』では、ここまでで3番の歌と8番の歌が『続古今集』からの歌でありまして、それに続いて9番で実頼の歌を撰びましたので、この若い将軍は『続古今集』などもお勉強して、そこに採られた古歌に親しんでいたのかもしれません。
『日本紀竟宴和歌』というものの存在を今回初めて意識しましたが、AIに聞いてみたところ、『新編国歌大観』の第二巻にあるという答えでしたが、実は第五巻に収載されておりまして、何か情報を誤る原因があったのだろうと考えました。それにしても、平安朝の貴族たちが天皇の主導で、30年おきくらいに『日本書紀』を読もうというような催しをしていたというのですから、その勉強ぶりに感動してしまいました。そして参加者が、その内容に従って和歌を詠むというようなことですから、教養も文芸的なセンスも必要なわけで、実は平安時代もなかなか文化レベルが高いことが分かります。そしてもっと感動するのは、実頼の歌の元になった垂仁天皇の事跡でありまして、灌漑用水の整備を諸国に命じて、農業の振興を目指したというのであります。それに先立って、我が子の皇子に河内の国で実験的に池や用水路を作らせ、その技術を確かめた上で全国に命令を発しているという周到さは、『日本書紀』の記述を作りものであると疑う向きもあるそうですが、さてここまで書き込まれていて嘘偽りだと否定することができるのでありましょうか。最初に作った池というのは、大阪狭山市に狭山池としていまでも残っていて整備されているそうですから、ひょっとすると二千年近い昔の政策の遺跡がいまでも活用されているということになります。農林水産省が2010年に定めた「ため池百選」にも選ばれております。
2025年のNHKの大河ドラマ『べらぼう』には、松平定信が登場しましたけれども、あの方は、白河藩主の時代に「南湖」という池を作りまして、もちろん灌漑用ですけれども、池の周辺を公園として整備して領民に開放していたと思います。その「南湖」も「ため池百選」に入っておりまして、今も昔も治水事業と言うか灌漑用水の整備と言うのは、非常に大切な政治のお仕事と言うことなのでしょう。現代ならダムの造成と言うことですが、水利のない荒れ地と言うのは至る所にあったわけで、それを一挙に食糧生産の場所に変えることができれば、国家は安泰ということなのであります。
『日本紀竟宴和歌』実頼の歌の左注の訳
この垂仁天皇は、巻向に都の造営を試みた。これを珠城宮と呼ぶ。おなじ垂仁天皇のご時代に使者を派遣して、河内国に灌漑用の池や水路を構築させた。その後で、諸国にみことのりを発して、たくさんの灌漑用の池や水路を開発させた。こうした政策によって、万民は富を蓄え豊かな暮らしぶりとなり、天下は太平となったのだ。
いにしへに 小野宮殿 詠みし歌 雅の風も 今に残れり
いにしへに をののみやどの よみしうた みやびのかぜも いまにのこれり
【訳】平安時代の昔に、藤原実頼殿がお読みになった『日本紀竟宴和歌』での垂仁天皇を偲ぶ歌、それを足利義尚公が『新百人一首』に撰んでおいてくれたおかげで、伝説上の人物である垂仁天皇の事績も知ることができたし、それを歌に詠むというような催しにも触れて、何と洗練された歌の世界が伝わっていることよと思うことだ。
垂仁天皇について、少し調べて思いましたのは、この方の存在を伝説でしかないと疑う向きがあるということなんですけれども、『日本書紀』などから浮かんでくる人物像は、血も涙もある帝王でありますから、かなりの真実を含んでいると見るべきだろうなと思います。最初の后と言うのが、従妹に当たる女性ですけれども、その后の兄がクーデターを企んで失敗しまして、后も道ずれになって亡くなりました。后の兄も垂仁天皇にとっては従兄でありますから、身内が暗殺を謀った事件ということになります。こういう内容からすると、単に昔の偉人として尊崇することを押し付けているわけではなさそうで、ちゃんとした客観的な叙述を目指したもののように見えます。巻向の珠城宮の遺跡も発掘されて場所も特定されておりますし、河内国の池と言うのも、これだというのが残っています。鎌倉時代の勅撰集である『続古今集』から平安時代の藤原実頼の歌を撰んだわけですが、そこに古代の帝王の政治的な事績が絡みまして、なかなかどうして、若い足利幕府の将軍がいろんなことに興味関心を抱いていた姿が髣髴としまして、とても愉快な気分を味わうことができました。なぜ、近代でこの『新百人一首』の注釈が出なかったのでしょうか? 不思議です。
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