足利将軍撰『新百人一首』を読む(7) 宇多天皇
7 立かへり千鳥なくなりはまゆふの心へだてておもふ物かは 亭子院
【標註】
〇立かへり云々 新拾遺に「亭子院歌合に左方にうへの御心よせありとて右頭の女の恨み給ふよしきこえければ」とあり 〇浜木綿のは隔ててといはん為なり
【出典】
〇『新拾遺集』巻十八・雑上1703(『新編国歌大観』第一巻 ※二句目「なくなる」と異同がある)
亭子院歌合に左方にうへの御心よせありとて右頭の女七のみこうらみ給ふよし
きこしめして 亭子院御製
立帰りちどり鳴くなるはまゆふの心へだてておもふものかは
〇『亭子院歌合』(『新編国歌大観』第五巻 歌番号60番と61番の間 ※初句・二句に異同がある)
かくてひだりかたにうへの御こころよりたりとて、みぎかたのみこうらみきこえさせたまふときこしめして 院
ゆきかへりちどりなくなるはまゆふのこころへだてておもふものかは
ひだりもみぎもこれはあはせずなりぬ。
【語釈】
〇立かへり 「立ちかへる」は「すぐに戻る」意の動詞。「たちかへり」で副詞となり、「何度も」「繰り返し」などの意となる。『古今集』474(題知らず・元方)「立帰りあはれとぞ思ふよそにても人に心をおきつ白波」。〇千鳥 チドリ科の鳥。海や河の水辺に棲息し、「チチ」と聞こえる鳴き声を発し、群を成して飛ぶ鳥。ここは、宇多天皇の勅判に対する右方の不満の声を例えている。『百人一首』78番・源兼昌「淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいくよ寝ざめぬ須磨の関守」。〇なくなり このままだと二句切れの歌となる。『新拾遺集』や『亭子院歌合』では「なくなる」で、三句目の「はまゆふ」に掛かる。「なり」「なる」は伝聞推定の助動詞で、「~が聞こえる」「~の声や音がする」の意。〇はまゆふ 元禄七年(1694)刊行の貝原益軒『花譜下巻』(明治43年1910『益軒全集』所収)には、「浜木綿」として、「葉は芭蕉ににて小く、厚くして堅し。海浜に生ず。葉の本幾重にもかさなれり。故に万葉第四巻柿本人丸の歌に、みくまののうらのはまゆふ百重なる、心はおもへど只にあはぬかな。葉のかさなれる事を、百重なるとよめり。いにしへは、大饗のとき、鳥の足つかむ料に、伊勢国みくまのの浜ゆふをめすといふ。童蒙抄に曰、此三熊野は伊勢の国にあり。一説志摩国にありと云。紀伊国熊野にはあらず」と考証している。大饗の鳥の足というのは、正月の大臣主催の宴会のご馳走であった雉のことで、『大鏡』には光孝天皇がまだ皇子の時代にお膳の雉を配膳係に取られて、そっと燭台の火を消したエピソードがある。穏やかな人柄が、末席にいた藤原基経の目に留まり、後年の即位につながったとされている。「はまゆふの」は「へだて」を導く序詞。〇へだてて ハマユウの茎は偽茎と呼ばれるもので、葉が幾重にも重なっている。そこから「隔つ」「隔て」を連想することになる。『古今六帖』第三「はまゆふ」1938「みくまののうらのはまゆふいくへかもわれをば人のおもひへだつる」、『古今六帖』第五・雑思2634「みくまののうらのはまゆふいくかさねわれをば君がおもひへだつる」。二首の歌は三句目と四句目に若干の異同がある。〇ものかは 反語の終助詞。一般常識や相手の想定する内容を「いや、そうではない」と否定する表現。『古今六帖』第二「山」985「あさかやま影さへ見ゆるやまのゐの浅くは人をおもふものかは」。
【作者】
〇亭子院 宇多天皇。第59代の天皇。貞観九年(867)光孝天皇の第七皇子として生まれた。母は班子女王。諱は定省。元慶八年(884)臣籍に下り源朝臣姓を賜った。仁和三年(887)光孝天皇の崩御の直前に、藤原基経の推挙もあって皇族に復帰し、皇位を継いだ。基経の死後は親政を行い、綱紀を粛正し、文化的な催しなども主導して、後世に寛平の治として仰がれた。寛平九年(897)譲位の際には、醍醐天皇に『寛平御遺戒』を与えて、菅原道真を重用すべきなどと申し渡している。昌泰二年(899)仁和寺で出家し、法皇と称した。延喜13年(913)亭子院で歌合を催し、その『亭子院歌合』の晴儀形式が後世の歌合に影響を与えた。法皇の呼称ともなった亭子院は、東七条宮とも呼ばれ、現在の京都市下京区南不動堂町(京都駅の北西隣)の付近にあった邸宅。宇多法皇は承平元年(931)65歳で崩御している。醍醐天皇はその前年に崩御していて、既に朱雀天皇の時代となっていた。
【訳】
右方から何度も抗議の声が上がっているようだ。千鳥が幾度も鳴く浜辺に咲く浜木綿の茎は、幾重にも重なって隔たっているものだが、歌合の判を司っている私は、右方を疎遠に思って左方の肩を持つようなことはしていない。
【参考】
〇『歌枕歌ことば辞典』(片桐洋一角川書店1983年)「はまゆふ」
関東以西に咲く常緑の多年草だが、『万葉集』巻四の柿本人麿の歌「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも」が『拾遺集』に採録されるなど有名になり、熊野(和歌山県・三重県海岸)地方の景物としてよく歌に詠まれた。夏に白い六弁の花が十数個傘形に集まって咲くので「百重なす」と詠まれたのである。「忘るなよ忘ると聞かばみ熊野の浦の浜木綿うらみかさねむ」(『後拾遺集』雑一・道命)ほか、これを本歌とした歌の例は多い。
〇『万葉集』巻四・496「柿本朝臣歌四首」 三句目「ももへなす」と訓むか)
三熊野之 浦乃浜木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
みくまのの うらのはまゆふ ももへなる こころはおもへど ただにあはぬかも
〇『拾遺集』巻十一・667 題知らず 人麿
みくまののうらのはまゆふももへなるこころはおもへどただに逢はぬかも
【蛇足】
和歌の歴史というものを考えたら、なるほど宇多天皇を厚く待遇したいというのは、なるほどと納得するわけですけれども、では秀歌はあるのかとなると微妙な気がいたします。久保田淳氏は「日本の文学古典編」『百人一首 秀歌選』(ほるぷ出版1987年)に、『後撰集』巻十七・雑三1237「宮の滝むべも名に負ひて聞こえけり落つる白泡の玉とひびけば」という出家直後に吉野に行って詠んだ滝の歌を選抜しています。そうした歌ではなくて、歌合の判者を務めた時に、判定に偏りがある、というようなクレームを受けて、いやいやそんなつもりはないのだよと、その場で弁明した歌なのであります。歌合の時の法皇は47歳でありまして、判定に不服を漏らしたのは「七のみこ」とありますので、第七皇女ということですから、成人していたかどうか微妙なくらいの娘でありまして、「パパ、ちょっと左をえこひいきしていない?」というようなことでありまして、「いやいや、パパは公平だよ」と言い訳を試みているわけです。日ごろから可愛がられているお嬢さんでなければ、大掛かりな歌合の席で、法皇に抗議するなどということはできないはずであります。こういう対応の仕方を見ていると、宇多天皇という人が頭の回転が速くて、人当たりも抜群に良くて、世慣れた人だということがよくわかります。すぐに腹を立てたり、陰険に事を運ぶような人物であったなら、参加者の皇女が父上に立てつくなんてことは微塵も考えないことでしょう。
こういう人格はどこから来ているのかと考えるわけですが、まず父の光孝天皇が非常に温和な人物であったということが言えるかもしれません。『百人一首』15番に「君がため春の野に出でて若菜積む我が衣手に雪は降りつつ」という歌がありまして、これは天皇が若菜を地べたで摘むはずがないという議論のある歌ですが、実はこの光孝天皇は宮中で自炊をして見せるような人でありまして、当然ながら皇位と無縁の頃には貧乏で班子女王という奥さんとひっそり暮らしていたとするなら、自分で若菜を摘んだはずです。ということは、その若菜を幼い日の定省(のちの宇多天皇)も兄弟と一緒に食べていたわけで、貧しいながらも楽しい食卓を囲んでいたと見るべきでしょう。そして、臣籍に降下して侍従職にあったというのですから、勤め人の苦労もちゃんと積んだ人物であります。たしか、あの陽成天皇(『百人一首』13番「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりける」)が、宇多天皇に声を掛けたことがあって、「お前むかし朕の家来だったよね」というような話もどこかで見た記憶があります。要するに、天皇になることなんて考えないで人生に船出した人物が、あれよあれよと天皇になって、その結果唐が滅亡したのを尻目に、お手本をしのぐような文化国家を主導したということなのであります。なるべくしたなったのではなく、それなりの鑑識眼を備えた人物が選んだ結果、選ばれた人が力を発揮するということだったのかもしれません。そのあたりの経緯を考えると、足利義尚公はそうした歴史的な経緯を聞かされていたのでしょうし、和歌に関して面白いエピソードを指導の傍らで雑談のようにして耳にしたのかもしれません。
それにしても興味深いのは、二句目の所にある「なくなり」と「なくなる」という異同でありまして、どうやら元は「なくなる」だったような感じがしますが、それだと上三句「立かへり千鳥なくなるはまゆふの」が序詞の扱いになるわけです。これに対して「なくなり」と二句切れにすると、上二句の「立かへり千鳥なくなり」というのは、「何度も右方が判に不服を漏らすようだ」という比喩になって、『亭子院歌合』のやりとりとして非常にふさわしい気がいたします。もちろん、誤写の可能性もあることでしょうけれど、ひょっとすると義尚が、そんな風に感じて改めたのかもしれないという妄想を抱きました。
み熊野の 浦に咲くてふ 浜木綿の 重ね重ねに 皇女うらむなり(粗忽)
みくまのの うらにさくてふ はまゆふの かさねがさねに みこうらむなり
【訳】熊野三山のあるあたりの海岸に咲くという浜木綿、その茎が幾重にも重なっているように何度も何度も七のみこが抗議を繰り返すのが聞こえるよ。「うらのはまゆふ」だけに、「うらみをいふ」ってことよ。
※「み熊野」は「熊野三所」もしくは「熊野三社」のことと、『岩波古語辞典』にあります。「重ね重ね」「うらむ」は、「み熊野の浦の浜木綿」の縁語。「恨む」は、古語では上二段活用の動詞で、意味も「文句を言う・不満を述べる・愚痴を言う」という意味で、陰で怨恨を募らせるという意味ではありません。なお、ハマユウはヒガンバナ科の植物で、ヒガンバナと同様にアルカロイドを含んでいる毒草です。この仲間には、ナツズイセン(夏水仙)という、ピンクのきれいな花を咲かせる花があります。昔、マンションに住んでいて最寄り駅までの間に放棄された畑がありまして、そこが近道なのでいつも通って駅へ行っていたのですが、ある日その小道にヒガンバナそっくりのピンクの造花が挿してありまして、恐怖を覚えたことがありました。調べてみたら、造花ではなくて、ナツズイセンという植物でした。ヒガンバナもそうですが、ある日忽然と咲くのであります。咲いている時には葉っぱがない植物ですから、流通しないのかもしれません。
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