足利将軍撰『新百人一首』を読む(5) 源当純
5 たに風にとくる氷のひまごとにうちいづる浪や春のはつ花 源当純
【標註】
(頭注なし)
【出典】
〇古今集・巻一・春上12
寛平御時きさいの宮のうたあはせのうた 源まさずみ
谷風にとくるこほりのひまごとにうちいづる浪や春のはつ花
〇寛平御時后宮歌合 (春歌二十番)
左 紀友則
01 花の香を風のたよりにたぐへてぞうぐひすさそふしるべにはやる
右 源まさずみ
02 たにかぜにとくるこほりのひまごとにうちいづるなみやはるのはつはな
※定家筆本、初句「やまかぜに」とある。
【語釈】
〇たに風 「谷風」は『万葉集』に例がなく、古い『広辞苑(第四版)』には「谷を吹き通る風」とあり、そのあとに「昼の間に山腹近くの空気が熱せられて、山腹に沿い山頂に向かって吹き上げる風」と説明して、反対語として「山風」が挙げてある。「山風」については、「夜間に、山里から平地に向かって吹き下ろす風。夜、山腹が放射のため冷却する結果生ずる」として、それとは別に「山に吹く風、またやまおろし」と述べて百人一首にも採られている『古今集』の「吹くからに」の歌を掲示する。学研の『漢和大辞典』は、「谷」の熟語として「谷風」を挙げて、「万物を成長させる風。東風のこと」として、『詩経・邶風・谷風』の一節「習習谷風、以陰以雨」を引く。注があって「東風謂之谷風」とすることを、岩波新日本古典大系『古今和歌集』が指摘する。これは「谷から東風がさわさわと吹き、雲が出て陰り雨が降る」という意味らしいが、この詩は夫の浮気で妻が悲しむというような内容の詩として知られている。それとは別に、『漢和大辞典』は「谷から吹き上げる風」という解説をするが、これには例がない。平安京を前提にして考えると、都に最も近い谷は鹿ケ谷で、東にある大文字山(標高465メートル)から哲学の道のあるあたりまでの範囲。足利義尚の父義政(第八代将軍)の慈照寺銀閣は、鹿ケ谷よりは北に位置するが、大文字山の麓に当たる。〇こほり 直下に「ひまごと」下の句に「うちいづる浪」とあるので、池に張った氷を考えているか。谷川の光景とは思われない。内裏の神泉苑は平安遷都から造営され、平安時代末までその面影をとどめていたようだ。貴族の邸宅にも、寝殿造りの場合は池があったとされるので、大寒の頃に張った氷と考えるのがよいかもしれない。〇はつ花 ここは季節が変わって初めに咲く花の意。立春になって最初に咲いた花が、池の氷の隙間から出た波という見立て。春に最初に咲くのは梅。なお、梅や萩などそれぞれの植物の最初に咲いた花を指す場合とは、ここは違うだろう。『古今集』では、6番・7番・9番歌で雪を梅に見立て、12番のこの歌で波を花に見立てる。13番に「花の香」とあるものの、その後で若菜や柳は出てくるが、咲いている梅が出てくるのは32番とかなり遅い。
【作者】
源当純(みなもとのまさずみ) 右大臣能有の子。寛平六年(894)正月、大后太后宮少進、大蔵少輔・縫殿頭・摂津守を経て、延喜三年(903)二月、少納言。同七年従五位上。寛平御時后宮歌合の作者。(ちくま学芸文庫『古今和歌集』2010年刊による) 『古今集』入集歌はこの歌のみ。源能有は、文武天皇の皇子。近院右大臣の名で『古今集』に3首入集している。亡くなったのは寛平九年(897)だが、この時能有は右大臣兼左大将だった。
【訳】
谷から吹き寄せる春の風に、池に張っていた氷が溶けだしている。氷のあいまあいまから、出て来る波が、梅に先駆けて開く春一番の初花であることか。
【参考】
〇『新撰万葉集』巻下(春歌二十一首)
※元禄九年版本から。漢詩の返り点送り仮名は省略。漢詩の訓は原文にはない。
239 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
タニカゼニ トクルコホリノ ヒマゴトニ ウチイヅルナミヤ ハルノハツハナ
渓風催春解凍半 白波洗岸為明鏡
初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
けいふうはるをもよほしこほりをとくなかばなり
はくはきしをあらひてめいきやうをなす
しょじつにをふくみていろあけむとほつす
そせうがいへのばいりうをせうさつす
※「催」には「シ」と送り仮名があるが、「メ」とも見える。「メ」なら「あつめ」。
※「咲殺」は「笑殺」をもじった表現。
※「蘇少」は人物と思われるが不明とするのが通説か。あるいは「小蘇」(蘇徹)のことか。
〇『和漢朗詠集』上巻・春「立春」から抜粋
02 池凍東頭風度解 窓梅北面雪封寒 篤茂
いけのこほりとうとうはかぜわたりてとけ まどのむめほくめんはゆきふうじてさむし
04 柳無気力条先動 池有波文氷尽開
05 今日不知誰計会 春風春水一時来 府西池 白居易
やなぎきりよくなくしてえだまづうごき いけにはもんありてこほりことごとくひらく
こんにちしらずたがけいかいせし はるのかぜはるのみづいちじにくる
07 袖ひぢてむすびし水の凍れるを春立つ今日の風やとくらん 紀貫之
【蛇足】
私は長らく、氷が張っているのは谷川だと思っていたのですが、今回『新撰万葉集』の七言絶句を見て、「明鏡」という言葉から、どうやらこれは谷川などではなく、京都市中の池なのではないかと思いました。だとすれば、内裏周辺なら神泉苑、そうでなくても寝殿造りの貴族の邸宅には池があって、旧暦の師走などには氷くらいは張ったのであろうと思いました。紀貫之の「袖ひぢてむすびし水の凍れるを春立つ今日の風やとくらん」という歌は、『古今集』の春上2番に出てきますけれども、それも山野に遊んで谷水などを汲んだ歌だと思い込んでおりましたが、なんのことはない、屋敷の池を見てのことだと思い始めました。
『礼記』月例「孟春之月」のところに「東風解凍」と出てくるそうで、七十二候の一番最初でありますから立春の頃の季節感を表現しているものです。二十四節季をさらに詳細にしたバージョンですけれども、日本の気候に合わないので、何度か改訂しているそうです。
余計なことを言うと、二十四節季というのは、「啓蟄」なんかが妙に難しい漢字を使っていて意味ありげですけれども、最後のあたりは「小雪・大雪・冬至・小寒・大寒」でありまして、よくよく考えるとくだらない物だと感じます。「ちょっと雪が降って、次にどさっと降って、さすがに冬本番、さむいさむい、えらく寒いね」というだけのことでありまして、真に受けてもしょうがないのであります。さらに、「立春・立夏・立秋・立冬」だと、テレビのキャスターなどが、「暦の上では春ですが」などと言いますけれども、あの「立」というのは、それぞれの季節の始まりという意味ではなくて、「春ももうすぐ」とか「春めいた日も出てくる」程度のことでありまして、それぞれの季節の始まりは、「春分・夏至・秋分・冬至」なんじゃないかと思います。そう言うと抵抗する人がいるでしょうけれど、人それぞれの体感と地域の違いで気候の感じ方はさまざまでありまして、二十四節季とか七十二候というのは、実は実用性はかなり乏しいと思います。
さて、この歌を撰んだ足利幕府第九代将軍義尚公の立場になってみると、谷風というのは大文字山からくる風でありまして、凍るのは東山慈照禅寺の錦鏡池ではないかと思います。義政は文明5年(1473)に将軍職を義尚に譲っておりましたが、実権は握り続けたと言われております。文明14年(1482)から東山に山荘造営を始めまして、翌年には政務を譲って移り住んだそうです。その文明15年(1483)に義尚が撰んだのが『新百人一首』です。哲学の道のあたりに別荘を構えるというのは、京都を知っていれば誰でも考えそうなことでありまして、四季折々の楽しみにはもってこいの別荘地ではないでしょうか。そういう土地を父が目指したならば、若い義尚でも立春の日あたりに氷が解けて吹く風に白波の立つ池などという光景はすぐに浮かんだことでしょう。
それから、初句の「たに風に」は普通は二句目の「とくる」に掛かると見るのでしょうけれども、何となく「うちいづる」に掛かると見る方が自然ではないでしょうか。風に吹かれて波が立つということを言っているのであって、紀貫之の「袖ひぢて」の歌のように「東風解凍」にこだわる必要はないと思う次第です。もちろん、「たに風に」は「とくる」と「うちいづる」両方に掛かるという人が出てくるのは理解しますが、さて本当に春風で氷が解けるということでよいのかどうか、そう考えると紀貫之の歌は漢文の発想で作った歌だと分かったりします。
世の風も 乱れ収まり ひま故に 建てて身を寄す 渋き山荘(粗忽)
よのかぜも みだれをさまり ひまゆゑに たててみをよす しぶきさんさう
【訳】戦乱に明け暮れた世の中も平穏を取り戻し、将軍職も義尚に譲って退屈なので、老後の安寧を願って建て隠居の場所として定めた、我ながら渋い趣味の東山の別荘にそろそろ引っ越しをするとしよう。後のことは任せたぞ、義尚よ。
※通称は銀閣寺だが、正式名称は東山慈照寺(とうざんじしょうじ)。足利義政の法号が慈照院であるところから寺名が来ている。義政の造営した山荘である東山殿が起源で、義政の没後臨済宗の寺院となったものです。
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