足利将軍撰『新百人一首』を読む(4) 藤原宇合

4 山城のいはたの小野のははそ原みつつや君が山路こゆらん  式部卿宇合


【標註】

(頭注なし)

【出典】

〇新古今集・巻十七・雑中1589

    題しらず       式部卿宇合

  山城のいは田のをののははそはらみつつや君が山ぢこゆらむ

〇万葉集・巻九(国立国会図書館デジタルコレクション・西本願寺本)

   (宇合卿歌三首)   

1731 山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武

   ヤマシナノ イハタノヲノノ ハハソハラ ミツツヤキミカ ヤマチコユラム


【語釈】

〇山城 律令制で定められた国の一つ。現在の京都府南部の地域。古くは「山代」「山背」であったが、平安京を命名する際に桓武天皇が「山城」と改称した。万葉集での表記には「山代」「山背」のほかに「開木代」などもある。原歌は初句は「山品の」。『万葉集』で「やましろのいはた」と続けた例には、巻十二・2856「山代石田社心鈍田向為在妹相難」(ヤマシロノイワタノモリニココロオソクタムケシタレヤイモニアヒカタシ)がある。〇いは田のをの 「石田」を「いはた」と読む。現在、京都府伏見区には「石田」を冠する町名が複数あるが、読み方は「いしだ」。「石田の杜」は伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社と、京都府によって明治10年(1977)比定された。奈良から近江に向かう際に経由する場所で、宇治の北、山科の南に位置している。『枕草子』には「森は」の段は二つあるが、二つ目に「森は、うえ木の森、石田の森、木枯の森、うたた寝の森、岩瀬の森、大荒木の森、たれその森、くるべきの森、立聞の森。(以下略)」とある。〇ははそはら 「柞(ははそ)」はブナ科の樹木。ナラやクヌギなどを指し、大木となることが多く、ドングリを付ける。一般的には落葉樹。『古今六帖』1048「やましろのいはたのもりのははそ原いはねど秋は色づきにけり」。〇みつつや 『万葉集』の訓読では「みつつか」とする。『万葉集』巻十二3192「草陰之荒藺之埼之笠島乎見乍可君之山道超良無」(草陰の荒藺のさきの笠島を見つつか君がやまぢこゆらむ)という下の句がほぼ同じ歌がある。   


【作者】

〇藤原宇合(ふじわらのうまかい)持統天皇8年(694)藤原不比等の三男として生まれる。奈良時代の公卿で、主に聖武天皇時代の人。初名は馬養。霊亀2年(716)に第9次遣唐使の遣唐副使に任ぜられ阿倍仲麻呂らと翌年唐に渡り、養老2年(718)帰国した。この時「宇合」と改名している。養老3年(719)には常陸国守になり、さらに安房・上総・下総の按察使に任じられた。神亀元年(724)蝦夷の反乱では、宇合が持節大将軍に任命され、遠征して反乱を鎮圧し、この功により翌年、公卿に列する。難波宮の造営の責任者も務めた。その時詠んだ歌が、『万葉集』巻三312に載っている。神亀6年(729年)の長屋王の変に際しても兵を率いるなど、武人としての功が目立ち、天平4年(732)、地方に節度使が置かれると、西海道節度使に任ぜられ、九州に赴任する。天平9年(737)疫病によって亡くなった。享年44。最終官位は正三位、参議、式部卿兼大宰帥。


【訳】

山城の石田の小野の、柞の木の目立つ野原を、その風景に心引かれて眺めながら、そなたは山路を超えるのだろうか。


【参考】

〇『万葉集』巻九「宇合卿歌三首」(西本願寺本)

1730 暁之 夢所見乍 梶島乃 石越浪乃 敷弖志所念

   アカツキノ ユメニミエツツ カチシマノ イハコスナミノ シキテシソオモフ

1731 山品之 石田乃小野 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武

   ヤマシナノ イハタノヲノノ ハハソハラ ミツツヤキミカ ヤマチコユラム

1732 山科乃 石田社尓 布靡越者 蓋吾妹尓 真相鴨

   ヤマシナノ イハタノモリニ フミコエハ ケダシワキモニ タダニアハヌカモ

※1731四句目「公之」は「キミノ」と読むのがよいか。

※1732三句目「幣置かば」や「たむけせば」と読むのが通例のようになっている。

〇『万葉集』巻十二3236(石本願寺本)

 空見津 倭国 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速奮 

 ソラミツ ヤマトノクニ アヲニヨシ ナラヤマコエテ ヤマシロノ ツツキノハラ チハヤフル 

 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得

 ウチノワタリ タキノヤノ アコニノハラヲ チトセニ カクルコトナク ヨロツヨニ アリカヨハムト

 山科之 石田社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越往 相坂山遠

 ヤマシナノ イハタノモリノ スメカミニ ヌサトリムケテ ワレハコエユカム アフサカヤマヲ

※四句目「常山」は「寧山」という異文がある。※十句目「阿後尼」は「アコネ」と読む例がある。

※十九句目「往」の「ユカム」とあるが「ユク」と読む例がある。


【蛇足】

藤原宇合の歌というのは、『万葉集』に6首入っておりますが、巻一72の歌は目録では作者未詳歌とされていて宇合の歌かどうか不明のようです。巻三312は、「昔こそ難波田舎と言はれけめ今はみやこ引きみやこびにけり」という難波京の造営責任者としての歌です。巻八1535は、秋の雑歌の中にある歌ですが、七夕を詠んだ歌かと思われる「わが背子を何時ぞ今かと待つなへに面やは見えむ秋の風吹く」という、織女の立場のセンチメンタルな歌です。これに、参考に示した巻九の歌の三首が加わるわけですが、この巻九は、歌物語のように連作として享受できるのかもしれません。1730は、三句目四句目が「しきてし」を導く序詞で、夢に現れたので恋慕するという歌で、これを受けて1731は男が自分のもとに向かっているという女性の期待の歌、そして1732は石田の森まで来たからには逢ったも同然だという、男の歓喜の歌でありましょうか。

山科というのは、「山階」とも書くわけですが、藤原鎌足にとっては本拠地でありまして、大化の改新の成功を祈って造仏に努め、さらには山階寺を創建したところであります。鎌足の子が不比等、不比等の子が宇合ですから、宇合にとっては懐かしい祖父母ゆかりの地だったはずであります。奈良から山科へ向かうと、木幡の先で山が迫りまして、その先に山科の盆地が広がるわけですが、石田と称する所はその山が左右から迫る所で、今は伏見区ですが、どうやら古くは山科の一部とされていたのだと思います。


『新百人一首』を足利義尚公が撰んだのが文明15年(1483)ですけれども、日本の内乱史上でも長期にわたった応仁の乱は、応仁元年(1467)に始まって文明9年(1477)に終結したとされていますが、10年にも渡って戦乱に明け暮れたのであります。これを「応仁・文明の乱」と呼ぶこともあるそうです。天皇は後土御門天皇、将軍は第8代足利義政と第9代の義尚でありまして、落ち着いたところで義尚が『百人一首』の新しいバージョンを考えたということなのです。ところで、この『新百人一首』を義尚が考えている頃に、実は山科に変化がありまして、文明11年(1479)に蓮如が本願寺を建立したのであります。この本願寺が、実は西本願寺となってゆくわけで、元来、京都東山の大谷にあったのが寛正6年(1465)延暦寺の衆徒によって破却されていたわけで、これを「寛正の法難」と呼ぶそうです。応仁の乱を間に挟んで15年もかかって復興したわけですから、大変だったということです。


ちなみに、鎌倉時代に『万葉集』を研究していた僧侶の仙覚は、天台宗の学問僧であります。生まれは建仁3年(1203)常陸国出身ではないかと言われておりまして、寛元4年(1246)に鎌倉将軍藤原頼経の命で『万葉集』の諸本を校合する作業に着手したようですが、その年の内に校本ができたそうですから、実はもう作業はあらかた終わっていて、提出を待っていたと考えるべきでしょう。その上、従来読めなかった152首についても意見を述べまして、それらを後嵯峨院が御覧になって褒められました。文永4年(1267)には注釈書も完成したそうですが、その本の奥書で武蔵国比企郡在住だったということですから、都から遠く離れた関東の一隅で研究生活をしていたということになります。さて、その仙覚の『万葉集』はどうなったかということですが、もちろん書写が重ねられ、やがて版本になり、近代では活字化されたわけですが、現存する『万葉集』の二十巻揃い、すなわち完本というのは西本願寺に伝えられているものなのです。講談社文庫『万葉集事典』「諸本解説」から、西本願寺本の解説を引用してみます。

(書名)西本願寺本  (年代)鎌倉後期 12~14世紀

(概説)仙覚系統本最古の写本。現存する万葉集最古の完本。本文庫(=講談社文庫)の底本。大和綴。藍紙表紙。鳥の子紙。筆者不明。四人による寄合書。各巻に目録がある。片仮名の訓が付してあり、墨、朱、紺青の三色で色分けしてある。巻十二のみは別系。足利義満が皇室に献じ、天文11年(1542)後奈良天皇から西本願寺の澄如上人に下賜され同寺の旧蔵になったことに書名(=西本願寺本)は由来する。お茶の水図書館蔵。

最後に出てくる「お茶の水図書館」というのは、現在「石川武美記念図書館」と名前を変えておりまして、場所は東京都千代田区神田駿河台にあります。西本願寺本の万葉集は、佐佐木信綱博士の旧蔵書でありまして、「竹柏園本」として収蔵されています。現在の西本願寺本自体は、足利義尚のもとにはなかったということになりますが、当然のごとく足利将軍家には仙覚の校本の写しが伝わっていたはずで、若い将軍がかなりの善本に接して『万葉集』を読んでいた可能性は高いことでしょう。


ということで、足利義尚公は、『万葉集』の宇合の歌も参照しつつ、『新古今和歌集』から「やましろの」の歌を撰び入れたことだろうと想像されます。上三句「山城の石田の小野の柞原」というのは、単なる叙景ではありますけれども、それが詠作主体の目にしている風景というわけではないのであります。詠作主体が「君」と呼んでいる、恋人か主君か、そういう大切な人が、ひょっとして今移動しながら目にしている風景を想像裡に表現したわけですから、この歌は別に見たままを詠んでいる素朴な叙景歌ではありません。その身の上を心配したり、親愛の情を強く感じながら、「あれを見ながら」山路を急いでいるだろうと想像しているという歌です。

風吹けば沖つ白波龍田山 夜半にや君がひとり越ゆらむ

  (『古今集』巻18・994 題知らず 読人しらず)

もちろん、『伊勢物語』第23段にもある有名な歌でありまして、夫の浮気癖をこの一首でぴたりと止めさせたというものですが、要するに、「夫婦愛」というようなものがどういう性質のものかということをこの一首が教えてくれるわけです。遠くにいて、相手が今何をしているのか、元気でいるのか、何か困っていないのか、そういうことを自然に考えているという状態でありまして、これは今だって十分通じる歌であり、人としての基本的な感情のあり方なのでしょう。そう考えると、藤原宇合の歌も、十分その資格を持っているわけで、足利義尚はちゃんとそういうことに目をとめて選んでみたのかもしれません。


宇合に関して注目すべきなのは、征夷持節大将軍になっていることでありまして、「将軍」という点で義尚とは共通点があるわけです。「将軍」のことを中国では「柳営」と呼ぶそうですが、義尚は自分でそう名乗っていた可能性があるそうなので、同じ柳営として、軍功を挙げた人物に尊崇の念を抱いて、秀歌撰に撰んでみるということは大いにありそうです。考えてみると、遣唐使として派遣されても、将軍として派遣されても、宇合という人物はそれを何事もなくやりおおせて京に帰還しておりまして、なかなか優れ者だということになるでしょう。阿倍仲麻呂みたいに帰国できなくなったり、小野篁みたいに船がぼろいと言って遣唐使を拒否するというようなトラブルもなければ、源義家のように戦功を認められないというような不手際もないのでありますから、頼まれたことをちゃんと実行してしくじらない有能な人物だったことは間違いないのであります。人間がしっかりしていないと、後からトラブルが聞こえてくるというようなことになるのではないでしょうか。応仁の乱を体験した義尚からしてみたら、こんな風でありたいというような、理想の将軍像にぴったりだったということかもしれません。『万葉集』巻8・971・972には高橋虫麻呂が、西海道節度使になって赴任するときに贈った長歌と反歌が出ていますが、宇合を不言実行の男として称揚するような歌でありまして、そんなのを見たら足利幕府の若い将軍は宇合を尊敬したことでしょう。また、『万葉集』巻四・521には、常陸の国守の任が果てて帰京する宇合に、常陸の乙女が贈ったという「私を忘れないで」という歌もありまして、さぞやもてたのだろうと分かります。疫病で死ななかったら、晩年は政権を切り盛りしていただろうと思います。

 

  五六首の 詠草なりとも 宇合は 採りて載すべき 柳営とぞ思ふ(義尚公に代はりて)

  ごろくしゆの えいさうなりとも うまかひは とりてのすべき りうえいとぞおもふ

【訳】藤原宇合の歌は、『万葉集』には五首か六首しか載っていない。そんな数少ない、とても歌人とは言えないようなわずかな歌の作者であっても、いにしえに西へ東へ命を受けては戦果を挙げた宇合は、この『新百人一首』という余の秀歌撰にぜひとも歌を載せるにふさわしい、将軍であると思うことよ。

※『万葉集』に宇合の歌は6首あるが、巻一72番歌は目録では作者未詳とされている。高橋虫麻呂は『万葉集』巻八・972番の反歌で、西海道節度使となった宇合に「千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とぞ思ふ」(ちよろづのいくさなりともことあげせずとりてきぬべきをのことぞおもふ)と詠んで餞別の歌とした。「言挙げ」は、口に出して何かを取り立てて言うこと。「言挙げせず取りて来ぬべき」は、不言実行という意味になる。


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