足利将軍撰『新百人一首』を読む(16) 源信明

16 ほのぼのと有明の月の月影にもみぢ吹きおろす山おろしの風  源信明朝臣

     

【標註】

(記事なし)

【出典】

〇『新古今集』巻六・冬591(『新編国歌大観』第一巻)

  題しらず      源信明朝臣

ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしのかぜ 


【語釈】

〇ほのぼのと あけぼのの夜が次第に明けてくる様子を表す副詞。「明け」に掛かってゆくか、もしくは「有明の月」を導く枕詞的用法とも言えるだろう。この表現は『万葉集』にはない。『古今集』では、巻九・羇旅409(一説柿本人麻呂)「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く船をしぞ思ふ」一例のみ。『新古今集』ではこの歌を含め三例あり、残る二例は巻一・春上2(後鳥羽院)と37(藤原家隆)である。〇有明の月 満月以降、特に二十日前後の月を言う。真夜中過ぎに南中し、明方に西の空に残る月を指して言うことが多い。『万葉集』では2229「在明之月夜」・2300「在明能月夜」・2671「在開月夜」と三例にみられ、「ありあけのつくよ」または「ありあけのつきよ」と読んでいる。『古今集』には二例、巻六・冬332(坂上是則)「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」、巻十四・恋四691(素性法師)「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」。『新古今集』にはこの歌を含めて25首「有明の月」の歌があり、そのうちこの歌を含め6首が字余り。〇月影 月の光、もしくは月そのものも指す。月に照らされた人の姿を指すこともある。『万葉集』には、「月影」は一例のみ。1714「月影所見」を「月の影見ゆ」と読んでいる。『古今集』には5例ある。巻五・秋下281(読人不知)「佐保山のははその黄葉散りぬべみ夜さへ見よと照らす月影」は、「もみぢ」と「月影」の取り合わせの歌で、注目される。〇もみぢ 秋に露や霜に当たって色変わりしたと考えられていた木の葉。赤や黄色の枯葉。『新古今集』では「紅葉」とするが、「黄葉」の可能性も考慮する必要がある。『後撰集』巻七・秋下401(読人不知)「もみぢ葉の散り来る見れば長月の有明の月の桂なるらし」。〇山おろしの風 山から吹き下ろす風。烈風をイメージするべきか。『古今集』巻五・秋下285(読人不知)「恋しくは見てもしのはむ紅葉はを吹きな散らしそ山おろしの風」。『千載集』巻十二・恋二707(源俊頼)「憂かりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを」、この歌は『百人一首』74に採られている。私説で恐縮だが、この歌の「初瀬」は「外せ」の掛詞で、「憂かりける人を外せ」は初瀬の観音の御託宣と見る。そして、「激しかれとは祈らぬものを」は逆接の条件節で、それを「憂かりける」が受けるが、「ける」は詠嘆の助動詞。御託宣の中の「ける」は間接体験の過去の助動詞と考える。初句が、御託宣の一部であり、さらに倒置法によって文末に滑り込んで、二度解釈に顔を出すという「もみもみ」した歌であると考えるのがよいだろう。あくまでも、オリジナルの説です。『新古今集』では、「やまおろし」は6例あるがすべて字余り。この歌を含め「やまおろしのかぜ」も4例ある。


【作者】

〇源信明朝臣 源信明(みなもとのさねあきら)は、延喜10年(910)生まれの光孝源氏、光孝天皇の曽孫に当たる。父は源公忠で、公忠も信明も三十六歌仙(公任撰)に入っている。六位の蔵人を経て諸国の国守を務め、その功労で従四位下まで昇進し、天禄元年(970)61歳で亡くなった。『後撰集』以降の勅撰集に22首入集している。家集に『信明集』がある。三十六人歌仙の歌人である中務は、信明の妻だったと考えられる。

〇源信明(みなもとののぶあき) 醍醐源氏。醍醐天皇の曽孫に当たる。父は雅楽の名人だった源博雅。『琵琶血脈』によると、琵琶を父の源博雅から伝えられ源資通、賢円に伝えた。『文机談』には、実父は藤原敦忠とする説がある。父の博雅は音楽にまつわる奇談が説話に採録されている。信明の名は、『古今著聞集』に博雅の子として二か所に出てくるが、歌人の源信明朝臣より一世代下の人物で、別人である。  


【訳】

ほのぼのと夜が明けようとする頃になったが、空には有明の月が出ていて、月の光に照らされて外には黄葉が乱舞する庭が見えることよ。どうやら、黄葉を山から吹き降ろす山おろしの風が吹きつけてくる。


【参考】

〇『信明集』18(『新編国歌大観』第三巻)

  こと御屏風の絵に、もみぢちりたるを見る人人

ほのぼのとあり明の月の月影にもみぢ吹きおろす山おろしの風

〇『和漢朗詠集』風402

ほのとのとありあけの月の月かげにもみぢふきおろす山おろしの風

〇『梁塵秘抄』巻第一・長歌十首中の6(新潮日本古典集成)

そよ ほのぼのと有明の月の月かげに紅葉吹きおろす山おろしの風


〇『三十六人撰』(藤原公任撰 岩波文庫『王朝秀歌選』1983年)信明

98 敵なく思へる駒に比ぶれば 身に添ふかげは遅れざりけり

99 恋しさは同じ心にあらずとも 今宵の月を君見ざらめや

100 あたら夜の月と花とを同じくは あはれ知れらむ人に見せばや

〇『俊成三十六人歌合』(藤原俊成撰 岩波文庫『王朝秀歌選』1983年)右 源信明朝臣

70 あたら夜の月と花とを同じくは あはれ知れらむ人に見せばや

71 ほのぼのと有明の月の月影に 紅葉吹きおろす山颪の風

72 物をのみ思ひ寝覚の枕には 涙かからぬ暁ぞなき

〇『時代不同歌合』(後鳥羽院撰 岩波文庫『王朝秀歌選』1983年)左 源信明朝臣

181 あたら夜の月と花とを同じくは あはれ知れらむ人に見せばや(九十一番)

183 ほのぼのと有明の月の月影に 紅葉吹きおろす山おろしの風(九十二番)

185 物をのみ思ひ寝覚めの枕には 涙かからぬ暁ぞなき(九十三番)


【蛇足】

佐々木信綱の『標註七種百人一首』博文館刊・明治26年(1893)の中に出てくる『新百人一首』を底本にしておりますけれども、今回の歌に関しては、『新古今集』との異同も特にありません。この歌の問題点というのは、新潮日本古典集成『新古今和歌集』(久保田淳氏)が、

『詠歌一体』で「すぐれたる歌なれば、字の余りたるによりてわろくなりぬべきにあらず」として挙げるように、かなりはなはだしい字余りの歌であるにもかかわらず名歌とされている。「月の月影」「吹きおろす山おろし」という同語反復も意識的な技巧と見られる。

と述べて指摘しています。要するに、誰でも気が付きますけれども、この歌は字余りがひどいということが特徴の一つでありまして、本来57577、31音であるべきところが、58588、なんと34音もあるという不思議な歌であります。ただそれぞれに母音の「あ」や「お」が含まれておりますので、ひょっとすると朗詠する際には問題がないと認識されていた可能性がありまして、字余りとは言わないのかもしれないのであります。この点に関しては、字余りの問題がお咎めなしだとしても、この歌にはさらに問題がありまして、指摘通り同語反復が2セットもあるわけです。この点は、岩波の新日本古典大系『新古今和歌集』(田中裕氏)も、

「月」「おろす」の繰り返しは、強意のために意図的な技巧か。参考「恋しくは見てもしのばむもみぢ葉を吹きな散らしそ山おろしの風」(古今・秋下・読人しらず)。

と、腑に落ちないながらも詠作者による作為ではないかと理解を示しております。面白いのは、新潮日本古典集成の『梁塵秘抄』(榎克朗氏)の見解です。

初冬の風情を歌っているが、あるいは男女後朝の別れの艶に物寂しい気分を寓して歌ったかもしれない。なお、「月の月かげ」「吹きおろす山おろし」と二回も同語を反復しているのは本来歌謡向きだと言えよう。

同語の反復とか繰り返しという指摘なんですが、ここで「同心病」という指摘がないのはなぜかと思いましたが、どうも「同心病」というのには当たらないようなのであります。似たようなものに、「文字病」という同音異義を咎める歌病の考え方がありまして、それに対して「同心病」というのは、異語同義の場合なんだそうです。そうなると「有明の月の月影」や「吹きおろす山おろし」というのは、同音異義でないのはもちろんのこと、異語同義でもないわけで、歌病に相当しないということのようです。むしろ、繰り返したのがよかったということになってしまいそうです。

ところで、諸注釈は指摘しないようなのですが、この歌は二か所の繰り返しの他に、同音の繰り返しがたくさんありまして、ある意味韻を踏んでいるんですけれども、それについてはどう理解したらいいのでしょうか。「ほの」と「ぼの」はもともと畳語でしょうし、「あり」と「あけ」、「つき」と「つき」、そして「かげ」と「かぜ」でありまして、わざと狙って作ったということは言えそうであります。対句仕立ての歌が繰り返しになるというのはわかるんですが、音だけ反復する歌というのも、探すと結構ある物なのです。『古今集』巻十・物名432は「やまがきの木」を詠み込んでいますが、これが読人しらずとありますけれども、ひょっとすると紀貫之やら撰者の誰かのお遊びかもしれません。

  秋は来ぬ今やまがきのきりぎりす夜な夜な鳴かむ風の寒さに

「き」「ぎ」が5回、「きり」「ぎり」と「夜な」「夜な」が繰り返され、さらに至る所に音の繰り返しが現れるというような歌でありまして、遊び心が満載ではないかと思います。そうした歌が、たまたまできてしまうということはありそうです。


         ほのぼのと有明の月の月影に咲ける桜を誘ふ春風

  ほのぼのと ありあけのつきの つきかげに さけるさくらを さそふはるかぜ


  ほのぼのと有明の月に五月まつ山郭公声も止まじな

  ほのぼのと ありあけのつきに さつきまつ やまほととぎす こゑもやまじな


  ほのぼのと有明の月の月影に吹雪吹きあらす山あらしの風

  ほのぼのと ありあけのつきの つきかげに ふぶきふきあらす やまあらしのかぜ


それにしても、源信明朝臣の歌というのは、上の句は穏やかで安らかな感じなのでありますけれども、下の句が対照的に非常に危険で不安な感じであります。ただ、「月影」を黄色を帯びた光と考え、「もみぢ」を「黄葉」と考えると、非常に不思議な感じのする映像かもしれません。古い漫画に『伊賀の影丸』というのがありまして、そこに「この葉隠れの術」というのが出てきましたけれども、この歌も、「月影に」の「に」を受ける述語があるようなないような感じでありまして、歌の正体が分からないという歌になっているのではないでしょうか。「月影に吹きおろす」は成立しないのではないかと思います。


【修正した訳】ほのぼのと夜が明けようとする頃になったが、空には有明の月が出ていて、月の光に照らされて外には黄葉が乱舞する庭が見えることよ。どうやら、黄葉を山から吹き降ろす山おろしの風が吹きつけてくる。さて、その黄葉のなかに、余はこの葉隠れの術で姿を隠しておいとましようぞ。そなたとの逢瀬も今回が最後、さらばじゃ。

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