足利将軍撰『新百人一首』を読む(15) 玄賓
15 山田もるそほづの身こそ悲しけれ秋はてぬれば訪人もなし 僧都言賓
【標註】
〇「そほづの身」は、案山子の如き身の意なり。
【出典】
〇『続古今集』巻十七・雑上1608(『新編国歌大観』第一巻)
備中国湯河といふ山寺にて 僧都玄賓
やまだもるそほづの身こそあはれなれあきはてぬればとふ人もなし
※作者名が、標註は「僧都言賓」だが、『続古今集』は「僧都玄賓」となっている。三句目、標註は「悲しけれ」だが、『続古今集』は「あはれなれ」となっている。永禄九年奥書の『新百人一首』版本では、「僧都玄賓」「かなしけれ」とある。なお、たとえば岡山大学附属図書館蔵の写本『続古今和歌集』では、「そほづ」が「僧づ」と表記されている。
【語釈】
〇山田もる 「山田」は山間にある田んぼ。鳥獣の害にさらされるので、人が監視をする必要がある。『万葉集』巻十一2649「あしひきの山田守る翁が置く鹿火(かひ)の下焦がれのみ我が恋ひ居らく」、『古今集』巻五・秋下306(忠岑)「山田守る秋の仮庵に置く露は稲負鳥の涙なりけり」。〇そほづ 「案山子(かかし)」で、『古事記』には「そほど」とある。『古今集』巻十九・雑躰・誹諧歌「あしひきの山田のそほづ己さへ我をほしてふうれはしきこと」。奥義抄に「そほづとは、田に驚かしに立てたる人形(ひとかた)なり」とある。ここは、音の類似を生かして「僧都(そうづ)」と掛けた。〇僧都 大寺院を管理する僧官である僧綱の一つが僧都。僧綱には僧正・僧都・律師があり、さらに僧都にも大僧都・権大僧都・少僧都・権少僧都の四階級がある。『岩波古語辞典』は「僧都」の項で、玄賓の歌の影響で、「僧都」が「案山子(かかし)」の意を帯びたことを指摘している。猪苗代兼載『古今私秘聞』には、「そほずと云ふは山階寺玄賓僧都より起れり。かがしの類也」とある。〇悲しけれ 『続古今集』では「あはれなれ」 「こそ」の結びで形容詞「悲し」の已然形。「悲し」も「あはれなり」も、自らの心情を言うときは悲哀・悲嘆を表す。他者について述べる時は賞讃・慈愛を表す。訪問者のいない案山子・僧都の心境なので、「つらい・悲しい」の意である。〇あきはて 案山子の歌としては「秋果て」であるが、僧都の歌としては「飽き果て」で、僧侶として尊崇の対象でなくなることを意味するか。〇訪人もなし 『万葉集』にもこの表現はあるが、情景が似ているのは『古今集』巻四・秋上205「ひぐらしの鳴く山里の夕暮は風よりほかにとふ人もなし」。
【作者】
〇言賓(げんひん) 「玄賓」または「玄敏」と表記されることが多いので、「げんぴん」または「げんびん」と読むのがよいか。「賓」は通常の音は「ヒン」であるが、「賓賓」と重複すると「ヒンピン」、また十六羅漢の「賓頭盧」は「ビンヅル」と読む。天平6年(734)に河内国に弓削氏の子として生まれ、奈良の興福寺で修行、法相宗の学問僧として名声が高かったが、『僧綱補任』によると弘仁9年(818)85歳で没した。奈良時代から平安時代初期の僧侶。都を離れ備中国や伯耆国に隠棲していたが、延暦24年(805)桓武天皇の病気平癒を祈願し、翌年延暦25年(806)には大僧都に任じられたが辞退している。大同4年(809)には嵯峨天皇の招請を受けて入京し、平城上皇の病気回復祈願を行っている。玄賓の存在は長らく忘れられていたが、院政期初頭、大江匡房の談話を藤原実兼が筆記した『江談抄』に律師や大僧都を辞退した話が採録されたことから、鎌倉時代に入って、源顕兼の『古事談』や鴨長明の『発心集』、さらには慶政上人の『閑居の友』や橘成季の『古今著聞集』などに理想的な遁世者として描かれた。
【訳】
鳥や獣から山田を守る案山子の身は悲しいものだ。実りの秋が終わって、その用がなくなると、打ち捨てられて、訪ねてくる者など無くなって寂しく山田に立ち続けている。それと同じように、世の中の名利にしがみつく僧侶というものも悲惨なものよ。その教えや効験に魅力がなくなると膝下にすがり付いて救済を求める人もいなくなるのだ。かように僧侶の在り方を喝破して都を離れ遁世したが、ふと気が付けば我が身は案山子そのものではないか。愉快、愉快。誰も安否を問わぬではないか。
【参考】
〇『発心集』巻一第1話
又、古今の歌に、
山田もる僧都の身こそ哀れなれ秋果てぬれば問ふ人もなし
此れも、かの玄敏の歌と申し侍り。雲風の如くさすらへ行きければ、田など守る時も有りけるにこそ。
〇『古事談』巻三8話
又、古今の歌にも、
山田もる僧都の身こそ哀れなれ秋果てぬれば問ふ人もなし
是は彼の玄賓僧都の歌と申し伝へたり。雲風の如くさすらひありかれければ、田など守る時も侍りけるにや。
〇『和漢朗詠集』下・僧612
三輪川の清き流れにすすぎてし我が名をさらにまたやけがさむ
〇『江談抄』(内閣文庫本)
「玄賓、律師辞退の事」
又云はく、弘仁五年玄賓初めて律師に任ぜらるるも辞退の歌に云はく
三輪川の清き流れに洗ひてし衣の袖は更にけがさじ と云々
「同じく、大僧都辞退の事」
又云はく、大僧都を辞する歌に云はく
外国は山水清し事多き君が都は住まぬなりけり(住まずまされり)
又云はく、洛陽を去り他国へ赴く間、道に来会ひたる女人、脱衣してこれを奉るに、これを得たる歌に云はく
三輪川の渚の清き唐衣くると思ふなえつと思はじ
〇『源平盛衰記』「和歌の徳のこと」
(前略)或は名を玄地に遁れ、跡を白雪に暗くする人、此の道に携はざるは稀なり。玄賓僧都は山田を守りて秋果てぬればと恨み、空也上人は市の中に墨染の袖と詠じ給ふ。
〇『玄賓説話と和歌』(花園大学学術リポジトリ・2018年 新間水緒氏)
(前略)以上の点を踏まえて『発心集』のこの歌を解釈すると、以下のようになるであろうか。
山田を守る僧都の身こそ哀れなものだ。秋が終わってしまう(飽きられてしまう)と、あのそほづ(案山子)のように、誰からも忘れられて、話しかける人もいない。
【蛇足】
佐々木信綱の『標註七種百人一首』博文館刊・明治26年(1893)の中に出てくる『新百人一首』を底本にしておりますけれども、底本として妥当なのかどうか、非常に心配になります。一体どういう本を底本にして、佐々木信綱は活字化したのか、気になるところです。ただ、じゃあ、本家本元の『百人一首』の底本が大丈夫なのかと言えば、そんなことはありませんでした。筆によって書き継がれてきたものは、一本一本の伝本によって字句がいろいろありまして、そういうことは『源氏物語大成』などという本を見たことがあれば、一目瞭然、めまいのするような状況なのです。いま、ここまで書いているのを読んだ人がいると、「佐々木信綱」という表記が気になる事でしょうけれども、若い時の信綱氏は「佐々木」姓でありまして、「佐佐木」になったのは、この本が出た後、中国に行って「々」の字が中国では存在しない字であると気が付いてからであります。話を戻すと、『百人一首』の底本にする書陵部蔵本だって、ずいぶん変なところがありまして、近年刊行する文庫本などの著者は、それぞれ好き好き、あちこち修正していたりいたします。要するに、現代のように活字化して大量に同じ本文が出回るわけではないので、『新百人一首』というような零細な本でも、びっくりするくらい写本段階で違いがあるわけです。そして、活字印刷したものも、著者がちょこまかと手を入れると、内容が違っていたりするわけですから、実は事情は同じかもしれません。
さて、問題は玄賓と呼ばれた、桓武天皇や平城天皇・嵯峨天皇に信頼されていた高僧が詠んだ「山田守る」の歌ですけれども、本当に玄賓が詠んだ歌なのかどうか、非常に気になります。建久四年(1193)の『六百番陳状』や承久三年(1221)の『顕注密勘』には玄賓作として出てきますし、鴨長明の『発心集』は巻頭で玄賓を扱いますから、新古今歌壇では誰も疑っていませんけれども、どうしてそれ以前にこの歌を採録したものがないのでありましょうか。『発心集』と『古事談』は、どちらもこの歌を『古今集』の歌であると誤解しておりまして、これは両書の祖本に「古今集」とあったもので、さらにその祖本には「古歌」とあったのではないかというような推測もあるようです。ともかく、『続古今集』撰者はこれに目を付けて入集しましたので、今回めでたく足利義尚公の目に留まって、『新百人一首』に加えられたということなのです。別に掛詞を認めなくても、晩秋の山田の案山子の歌として味わうこともできまして、誰かが「そほづ」というのは「そうづ」に聞こえるよね、だったら玄賓の歌かもしれないね、そうだよ、あの大江匡房様の『江談抄』には漏れているけれど、これは玄賓和尚の歌に違いない、というような転換があったのかもしれません。各地方で目撃された隠者の話が玄賓と結びつけられたらしいのですが、そうした流れの中でこの歌が注目を浴びたのでありましょうか。
山里の 熟柿の実こそ 悲しけれ 人伐りぬれば 採る熊もなし
やまざとの じゆくしのみこそ かなしけれ ひときりぬれば とるくまもなし
【訳】近頃は熊が人里に降りてきて、人間にちょっかいを出して危険でした。そこで、山里では放置されていた柿木を伐採したので、赤く熟した柿の実が枝ごと処分されたのは悲しいことでした。人が柿木を切ってしまったので、熟柿を取って食べる熊も出没しないということなのです。やれやれ。
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