足利将軍撰『新百人一首』を読む(12) 大伴池主

12 神無月時雨にあへぬもみぢ葉のふかば散りなん風のまにまに  大伴池主


【標註】

〇「時雨にあへぬ」は、時雨の雨に堪へぬの意なり。新勅撰には時雨にあへるとあり。

※明暦三年刊本(永禄九年奥書)『新百人一首』(九州大学附属図書館蔵相見文庫W105などは、二句目「時雨にあへる」とする。


【出典】

〇『新勅撰集』巻六・冬362(『新編国歌大観』第一巻)

   題しらず   大伴池主

神な月しぐれにあへるもみぢ葉はふかばちりなむ風のまにまに

〇『万葉集』巻八・秋雑歌1594(1590)

かむなづき しぐれにあへる もみぢばの ふかばちりなむ かぜのまにまに

   右の一首は、大伴宿祢池主

〇『万葉集』巻八(西本願寺本)

   橘朝臣奈良麿結集宴歌十一首

十月 鐘礼尓相有 黄葉乃 吹者将落 風之随

カミナツキ シクレニアヘル モミチハノ フカハチリナム カセノマニマニ 

   右一首大伴宿祢池主

   以前冬十月十七日集於右大臣橘卿之旧宅宴飲也

※二句目「鐘」を講談社文庫版などは「鍾」に改める。どちらも呉音「シュ」、漢音「ショウ」である。「鍾」は「鍾乳石(ショウニュウセキ)」で使われる字。「鐘」も「鍾」も時雨とは無関係。

※四句目「将落」は、1621「ちりなむ」2317「ふりなむ」などと読まれている。『学研漢和大辞典』によると『類聚名義抄』には、「オツ」「シヌ」「フル」などはあるが「チル」は出てこない。「ふりなむ」または、「落葉」を「おちば」と読むので「おちなむ」と読むべきか。 


【語釈】

〇神無月(かみなづき) 陰暦十月の呼称。「かむなづき」「かんなづき」とも言う。『岩波古語辞典』は、「中世の俗説に、十月は諸国の神神が出雲大社に集まって不在となるからという」と付け加えている。他に「雷の月、酒を醸す醸成月」などが『広辞苑』第四版に載る。『万葉集』4例、『古今集』7例は1例を除いて「しぐれ」が詠み込まれ、残る1例も「雨間」とある。季節としては初冬に当たるが、『古今集』巻五・秋下253「神無月時雨もいまだ降らなくにかねてうつろふ神奈備の森」のように秋に配置されることがあった。『万葉集』1594の池主の歌も左注は「冬十月」と断っているが、巻八編者は秋雑歌に配した。巻八の冬雑歌は主に雪と梅の歌で占められている。〇時雨  秋から冬にかけて、降ったり止んだりする通り雨。『後撰集』巻八・冬445(読人不知)「神無月降りみ降らずみ定めなく時雨ぞ冬のはじめなりける」は、『古今六帖』第一・歳時209や『和漢朗詠集』巻上・冬355にも入る。〇もみぢ葉 もみじした葉。黄葉あるいは紅葉。『万葉集』巻十九4259(大伴家持)「かんなづき時雨の常か我が背子が宿のもみぢ葉ちりぬべしみゆ」は左注に「梨の黄葉」とある。〇ちりなむ 「な」は完了・強意の助動詞「ぬ」の未然形。「む」は推量の助動詞の終止形。四句切れ倒置法。ちなみに、『古今集』の「散りなむ」4例はすべて桜の花に使われている。『古今六帖』の「ちりなむ」9例は、萩が1例あるが、あとはほぼ桜。『新古今集』の「ちりなむ」は1例で梅。〇かぜのまにまに 「まにまに」は、「~の通りに」「~にしたがって」の意で、『岩波古語辞典』は副詞とする。「まにまに」が文頭に立つことがなく、「君がまにまに」「風のまにまに」などという使い方を見ると、「まにま」を形式名詞として、「に」を格助詞と見る方がよいのではないか。『古今集』巻九・羇旅420(菅原道真)「この度は幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」は、『百人一首』24番に入る。 



【作者】

〇大伴池主(おおとものいけぬし) 奈良時代の歌人。「駿河の国正税帳によって天平10年(738)春宮坊少属、従七位下であり、その前年駿河の国を通過したことが知られる」(『和歌大辞典』明治書院)。同じ年の十月、『万葉集』によれば橘諸兄の旧宅で橘奈良麿主催の宴に参加して、「神無月」の歌を詠んでいる。この宴には大伴家持も参加している。天平18年(746)大伴家持が越中守に赴任すると、池主は越中掾を務めていて、二人の間の贈答歌などが『万葉集』巻十七に収録されている。巻十八には、天平20年(748)以後の越前掾に転じていた池主と家持の贈答歌が出てくる。巻十九では、天平勝宝二年(750)にも家持から歌を贈られ、さらに翌年家持が帰京に際して越前の池主邸を訪問している。巻二十では、帰京して左京少進となり、天平勝宝5年(753)には家持らと奈良の高円山で歌を詠み、翌年には家持の邸宅で酒宴に参加して歌を詠んだことがわかる。天平勝宝9年(757)橘奈良麿を中心とする謀反に参加したが、この企ては漏洩して未遂に終わり、池主は投獄されたようだが、その後の消息は不明である。


【訳】

神無月の時雨に降られた(堪え切れない)黄葉の葉は、風の吹くままに、風が吹いたら散るだろう。

※「あへる」が正しいなら「時雨に合へる」は「時雨に降られた」ということ。「あへぬ」なら「時雨に堪へぬ」は「時雨に堪え切れない」ということになるか。


【参考】

〇橘奈良麿(たちばなのならまろ) 父は橘諸兄、母は藤原不比等の娘で、養老7年(721)の生まれとされている。天平12年(740)に従五位下となり、その後大学頭・民部大輔を経て、天平勝宝元年(749)参議となった。同じ天平勝宝元年(749)に孝謙天皇が即位、藤原仲麻呂が権勢を伸ばす中、天平勝宝8年(756)7月に聖武天皇が崩御し、翌年正月に父の諸兄が亡くなると、奈良麿は6月に右大弁に任じられたが、政権に対する不満を抑えきれなくなって、挙兵の計画を練った。しかし密告によって逮捕され、「寺院の造営で人民が疲弊している」というような弁明をしたが、拷問によって獄死した。この時37歳くらいだったらしい。池主や家持と諸兄の邸宅で宴会を開いて歌を詠んだ時は18歳くらいの叙爵前だったということになる。

〇大伴家持(おおとものやかもち) 奈良時代の公卿。『万葉集』の編集をしたとされる歌人。養老2年(718)頃に大伴旅人を父に、丹比郎女を母として生まれた。天平17年(745)に従五位となり、越中守・少納言・因幡守などを経て、宝亀11年(780)参議となる。天応2年春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍となり、延暦2年(783)中納言、翌年持節征東将軍に任じられたが、延暦4年(785)に68歳従三位で亡くなった。死後発生した藤原種継暗殺事件の関与を疑われて埋葬を許されず、官籍を剝奪されたが、のちに恩赦を受け復している。『万葉集』の巻十七から巻二十は家持の歌日記的な性格があり、最後は天平宝字3年(759)正月の歌である。

〇『万葉集』巻八「橘朝臣奈良麿の集宴を結べる歌十一首(講談社文庫)

1581 手折らずて散りなば惜しとわが思ひし秋の黄葉をかざしつるかも

1582 めづらしき人に見せむと黄葉を手折りそあが来し雨の降らくに

     右の二首は、橘朝臣奈良麿

1583 黄葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉をかざしつるかも

     右の一首は、久米女王

1584 めづらしとわが思ふ君は秋山の初黄葉ににてこそありけれ

     右の一首は、長忌寸娘

1585 奈良山の峯の黄葉取れば散る時雨の雨し間無く降るらし

     右の一首は、内舎人県犬養宿祢吉男

1586 黄葉を散らまく惜しみ手折り来て今夜かざしつ何か思はむ

     右の一首は、県犬養宿祢持男

1587 あしひきの山の黄葉今夜もか浮びゆくらむ山川の瀬に

     右の一首は、大伴宿祢書持

1588 奈良山をにほはす黄葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも

     右の一首は、三手代人名

1589 露霜にあへる黄葉を手折り来て妹にかざしつ後は散るとも

     右の一首は、秦許遍麿

1590 十月時雨に逢へる黄葉の吹かば散りなむ風のまにまに

     右の一首は、大伴宿祢池主

1591 黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか

     右の一首は、内舎人大伴宿祢家持

   以前は冬十月十七日に、右大臣橘卿の旧宅に集ひて宴飲せり

〇『万葉集』巻十六「由縁ある雑歌」

  葛城王の、陸奥に発ちし時に、祇承緩怠にして王意に悦びず、采女の觴を捧げて詠める歌一首

3807 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

     右の歌は、伝へて云はく、「葛城王の陸奥国に遣さえし時に、国司の祇承緩怠なること異に甚だし、時に王の意に悦びず、怒の色面に顕る、飲餞を設けども、肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流びたる娘子なり。左の手に觴を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき、すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりき」といへり。


【蛇足】

『万葉集』をまとめたのは誰かというような問題がありまして、それは『百人一首』を撰定したのは誰かという問題と同じでありまして、ぼんやり考えるなら『万葉集』の撰者・編者は大伴家持、『百人一首』の撰者は藤原定家と決まっているのであります。しかしながら、学問的にはそれぞれの撰者の直筆の伝本というのが出現して、その奥書が本人が撰定したとでも書いてなければ、決定的な証拠がなく、後は状況証拠を積み重ねて推理するということになります。大伴池主や大伴家持の周辺を今回辿ると、なかなか奈良時代の政治の混乱が彼らに与えた影響が大きくて、人生というのはままならないものなのだということが分かりました。とてつもなく翻弄されているのであります。それにしても、大伴池主が関わって命を落とすことになった、橘奈良麿の乱というのは、天平勝宝9年(757)でありまして、その二年後に『万葉集』最後の歌が詠まれているというわけで、関係がないということはあり得ないのでありましょう。

今回『新百人一首』に足利義尚が採った池主の歌は、若い日の橘奈良麿の周りに若い男女が集って、おそらくは奈良山で黄葉狩りをして、帰りに時雨に見舞われながら諸兄の邸に戻ってきて、そこで宴会を開き、歌を歌って締めくくったもののようです。叙爵前の奈良麿ですから「朝臣」のはずはないのですが、まあ、身分もろくにないような男女の合同コンパの記録ですから、後で体裁を整えて、巻八にねじ込んでみたというようなものかもしれません。家持の弟の大伴書持、家持の親友の池主、そして家持の大伴一族が歌がうまいだけで、あとはたぶん歌など苦手な面々だったのかもしれません。奈良麿はここに出てくる二首以外に後一首『万葉集』に入るだけの、歌人とも言えない人であります。

奈良麿の父の諸兄は、元は葛城王と呼ばれた人でありまして、『万葉集』には【参考】に掲げたような陸奥国へ行った時の逸話がありまして、和歌には縁の深い人物と言えるでしょう。接待がいまいちなので不機嫌になったら、昔都で采女を務めた美女がはべって「安積山」の歌で慰撫したというような、自慢していいのか恥ずかしいのかよくわからないエピソードの持ち主であります。「安積山」の歌は、『古今集』の仮名序では、子供が最初に読み書きを覚える歌でありまして、さらに『大和物語』などには略奪婚の物語に使われたりしておりまして、平安時代ならだれもが知っているような歌だったのであります。おそらく、奈良時代からそうだった可能性が高いと思います。諸兄は出世しますが、それはあの藤原宇合などの四兄弟が疫病でいっぺんに亡くなったために運よく活躍の場を得ただけだったようです。藤原仲麻呂が出てくると劣勢になりまして、最後は引退に追い込まれて失意の中で亡くなったのであります。奈良麿は諸兄の一人息子のようですが、出世は遅い感じでありまして、名門になりかけているのに出世の機会がないことに焦ったのかもしれません。叛乱によって政権を奪取しようとして失敗し、池主は道ずれになってしまったということのようです。

そうしたクーデター騒ぎの後で、大伴家持が若い日の黄葉狩りの歌をどこからか引っ張り出したか、他の参加者から提供されたかで眺めたとしたら、感慨深いものがあったかもしれません。美しかった黄葉を、奈良麿をはじめとする若い貴族の男女の象徴だとしたら、その黄葉は散って二度と戻らないのでありましょう。


  遠き日々 宴にかざしし ならの葉も 黄泉に散りけり 風のまにまに

  とほきひび うたげにかざしし ならのはも よみにちりなむ かぜのまにまに   

【訳】あの奈良麿が、叙爵もしない若者だった遠い遠い昔の日、平城山で手折り持ち帰って、宴の席でかざして興に入った楢の葉の黄葉、それならぬ奈良麿は、謀反に失敗して亡くなり、時代の風に翻弄されて黄泉へと旅立ったことだ。


池主の歌も、「時雨」を冷たく身を打つ世間とか、宮廷社会という風なものの比喩として捉えますと、まるで池主の辞世の歌のような趣に感じられたりします。その人の人生の末路をもって、若い日の歌を解するというのは、『百人一首』の崇徳院や、源実朝や後鳥羽院・順徳院の歌の時に見られる悪弊ですけれども、ここはあえてそういう色眼鏡で考えてみてもいいかもと思う次第です。本来は、若い男女が手折って髪などに挿して楽しんで戯れていただけなのであります。ちなみに、十一首の歌の「黄葉」はすべて黄色い方のもみじですから、まるで金の髪飾りのように感じて、お互いに「似合う似合う」と褒め合っていたことでしょう。

実は、無邪気に見える11首の歌の中で、人の姿を織り込まないで、叙景に徹したのは書持と池主の歌だけではないでしょうか。他の歌は、「わが思ひし」「あが来し」「君が黄葉」「わが思ふ君」「取れば散る」「手折り来て」「今夜かざしつ」「妹にかざしつ」「思ふどち」などとありまして、明らかに宴の場を意識して詠んでおりますし、書持の歌も「今夜もか」と多少は当日を意識しているのであります。そうすると、池主だけが、別にこの日の黄葉狩りや宴会の席という条件を抜きにしても成立する歌を詠んでいるという特異性が見えてくることでしょう。それだけに、『新勅撰集』の冬の部に撰入するに足る歌になったとも言えます。

気になるのは、三句目の「黄葉の(もみぢばの)」の「の」でありまして、ここは素直に詠むなら「は」でもいいわけです。この「の」が私には序詞の末尾の「の」、もしくは比喩を表す「の」に見えるのですが、そうなるとこの歌は黄葉の歌ではなくて、黄葉に我が身を例えた、何となく不吉な未来を詠んだ歌に変身するのかもしれません。「旧暦十月の折からの時雨に遭遇した黄葉が吹く風にあおられ散るように、私もいずれ不意に降りかかる災厄によって、散ることになるだろう」というような、わが身の末路を予見する歌に見えます。応仁の乱を体験した足利義尚公は、楽しい遊宴の場で少し浮いて物思いに耽っているような、若い日の池主の歌に、実は気が付いてしまったかもしれません。そしてこの第9代将軍は若くして陣中で命を落としたのではなかったかと思います。

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