岩波文庫『百人一首』を読む(7)  安倍仲麿

 7 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも 安倍仲麿


【訳】遠く大空を振り仰いで望み見ると、月がでている。ああ、あれは故国日本の平城京の春日にある、三笠山に出た月なのだなあ。

【出典】古今集・巻九・羇旅・406

       もろこしにて月を見てよみける 


【解釈の要点】

①「天の原ふりさけ見れば」という句の続きで始まる歌は万葉集に四首あり、大伴家持の長歌の途中にもある。また、「春日なる三笠の山」と続く歌も四首ある。それらの中には月が詠み込まれた歌もある。表現が万葉歌人と重なるのは、仲麿の同時代人の歌であるから当然である。

②古今集のこの歌には長文の左注が付されている。「この歌は、昔仲麿をもろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人馬の餞しけり。夜になりて月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる」。左注の明州は、中国浙江省の寧波で、隋・唐代から遣唐使などの入港地とされている。

③同じ歌が『土佐日記』承平五年(935)一月二十日条では次のように語られていた。「廿日の夜の月出でにけり。山の端もなくて、海の中よりぞ出で来る。かうやうなるを見てや、昔、安倍の仲麻呂といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどしける。飽かずやありけむ、廿日の夜の月出づるまでぞありける。その月は海よりぞ出でける。これを見てぞ、仲麻呂の主、「わが国にかかる歌をなむ、神代より神も詠ん給び、今は上中下の人も、かうやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む」とて詠めりける歌、「青海原振り放け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」とぞ詠めりける」。

④下河辺長流の『三奥抄』は仲麿の生涯を詳述し、頭書に万葉集巻七1295「春日なる三笠の山に月の船出づ みやびをの飲む酒杯に影に見えつつ」を引く。契沖の『古今予材抄』『改観抄』は、それに加え万葉集巻十八4073「月見れば同じ国なり山こそば君があたりを隔てたりけれ」を引く。

⑤賀茂真淵『宇比麻奈備』は、古今集の左注を後人の書いたものと否定し、香川景樹『百首異見』も左注を浮説と断じて『土佐日記』も信用していない。片桐洋一は、左注は貫之ら撰者は関与していないと論ずる。


【蛇足】

さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回も訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。

解釈に関しては、②の左注と③の『土佐日記』の引用が『百人一首必携』と共通していますが、①の万葉集に同じ表現が見られるという指摘や、④の長流・契沖の類想歌の指摘に加え、さらに真淵や景樹がこの仲麿の歌の詠作事情に関して左注や『土佐日記』の記述を疑っていたことが今回付け加えられています。香川景樹という歌人は、『百首異見』を見ると過激なアジテーター(扇動者)ではありますが、結構的を射たことを言いますので、無視できないのであります。近代の研究者は、例として挙げられている片桐洋一氏をはじめとして景樹の見解を否定しますが、景樹は古今集の詞書で充分だとして、この歌を高く評価しているようです。余計なことを言うと、紀貫之には和歌を捏造して古今集に入れたという悪評もありますから、『土佐日記』のできすぎた話を景樹が咎めたのでしょう。


土佐日記の「青海原」というのは古今集の詞書を受けて紀貫之が改作したと推定されており、紀貫之が過剰に添削しなければ、問題にもならなかったことかと思います。「天の原」とあるからと言って、それが陸上というか内陸で詠まれたというほど気にする異同ではないような気がいたします。俳句などの宗匠は弟子の俳句を添削して直しますので、紀貫之は仲麿の歌を添削してみたのかもしれないのであります。


また、春日の三笠山が出て来るのは、遣唐使が出発する際に三笠山で航路の無事を祈るという習慣があったと言われておりまして、おそらく日本を出る時に安全祈願をした三笠山を仲麿が強く意識したということなのでしょう。まさしく仲麿の出発時期である『続日本紀』の養老元年(717)の記事が注釈書に指摘されております。一緒に唐に渡った吉備真備はその後日本に戻りましたが、仲麿は名を朝衡と改めて玄宗皇帝に仕えました。帰国しようとして送別会が開かれたというなら、意識されるのは遣唐使として派遣される前後の日本での送別会だったということです。


ところで、世の中の注釈書なんかに出てこないんですが、安倍仲麿に関しては、『江談抄』という説話集にとんでもないことが書いてありまして、実は仲麿は餓死しまして、後で留学してきた吉備真備の夢に出てきたというのであります。結局日本に帰れなくなってしまったというのだけでも壮絶すぎる気の毒な話でありますけれども、そのあとの飢え死にしたという話はあまり世間では取沙汰しないものなのでありましょう。


それから、これには佐佐木信綱『百人一首講義』も触れているいい話があります。帰国しようと仲麿の乗った船が難破したというのは唐の人たちにもすぐに伝わりまして、なんとまああの李白が仲麿の死を悼んだ漢詩を作っていたそうです。あの李白が、なんと日本人を心から悼んでいたのでありますよ。そんな大切なことはぜひとも若いうちに知りたかったなあと思うのでありますけれども、あまり世間では教えてくれないものなのであります。それにしても中国の唐の時代と言うのはあけっぴろげに開放されていた時代だったんでありましょうか、日本人がそのまま中国に居着くことが出来たのであります。李白が仲麿の死を悼んで作った詩を石田吉貞氏の『百人一首評解』(有精堂1968年)から引用いたします。「哭晁卿衡」(てうけいかうをこくす)というタイトルだったようです。なお、現在ネットで調べると、「片帆百里」は「征帆一片」とあったり、「秋色」は「愁色」とあったりします。

  日本晁卿辞帝都 片帆百里繞蓬壺 明月不帰沈碧海 白雲秋色満蒼梧

  にほんのてうけいていとをじす へんぱんひやくりほうこをめぐり

  めいげつはかへらずへきかいにしづむ はくうんしうしよくそうごにみつ

なお、安倍仲麿の和歌はこの一首だけが知られておりますが、漢詩の方も一作だけ伝わっているそうです。ウィキペディアを見ると、『全唐詩』732巻に収められていて、タイトルは「銜命還国作」(めいをふくんでくににかへるにつくる)と題された詩で、作者は安倍仲麿の中国名である「朝衡(晃衡)」ということになります。

  銜命将辞国 非才忝侍臣 天中恋明主 海外憶慈親 伏奏違金闕 騑驂去玉津

  蓬莱郷路遠 若木故園隣 西望懐恩日 東帰感義辰 平生一宝劔 留贈結交人

  めいをふくんでまさにくにをじす ひさいにしてじしんをかたじけなうす

  てんちゆうにめいしゆをこひ かいがいにじしんをおもふ

     ふくそうしてきんけつをさり ひさんしてぎよくしんをさる 

  ほうらいへのきやうろはとほくも じやくぼくはこえんのとなり

  せいぼうしておんをなつかしむひ とうきしてぎにかんずるとき

  へいぜいのいちほうけん とどめてかうをむすびしひとにおくる

平仮名の読みは、私が勝手に書き下したものなので、誤りはご容赦ください。なお、小高敏郎・犬養廉共著『小倉百人一首新釈』(白楊社1954年)には、「啣命使本国」(めいをふくみてほんごくにつかひす)とあって、「ふくむ」が異字体になっておりまして、そちらは十句しかなく、ウィキペディアと比べると四句目と八句目が欠けてるんですが、「違」が「達」だったりしますが内容はほぼ同じであります。小高敏郎氏の紹介が不十分なのかどうか、私などには判断が付きません。

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