岩波文庫『百人一首』を読む(6)  大伴家持

 6 かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞふけにける 中納言家持


【訳】鵲が翼を連ねて天の川に渡している橋――そこに置く霜が真白なのを見ると、夜が更けたのだな。

【出典】新古今集・巻六・冬・620

        (題しらず)


【解釈の要点】

①『日本国語大辞典』や『岩波古語辞典』では、古典文学に出て来るカササギを、カラス科の鵲とサギ科の笠鷺に分ける。鵲は中国や朝鮮に分布し、日本では佐賀平野に限られて棲む天然記念物。鵲は推古天皇の時代新羅からもたらされた。『播磨国風土記』には、鵲が韓国の烏と呼ばれていると記す。笠鷺はコサギかアオサギで、『源氏物語』浮舟の巻の宇治川の描写に出て来る。

②万葉集にはかささぎは詠まれていない。新古今集の撰者たちが、三十六人集の『家持集』から選んだとしても、この歌の作者を家持とは見なせない。

③下河辺長流の『三奥抄』は、『淮南子』に「七月七日夜、烏鵲填河、成橋度織女」とあることを指摘する。中国の彦星・織姫の古伝承に基づく歌は、この歌以外にも見出される。『古今六帖』第五「ひとり寝」には、人麿作として「鵲のはねにしもふりさむきよをひとりやわがねん君まちかねて」の歌があるが、『三奥抄』はこれに基づいて家持の歌が詠まれたとする。

④契沖の『改観抄』は『三奥抄』を踏襲するが、『大和物語』125段の壬生忠岑が詠んだ「かささぎの渡せるはしの霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ」などに注目する。さらに、『日本書紀』や漢詩の引用もある。

⑤賀茂真淵『宇比麻奈備』は、万葉集にないので家持の歌ではないと断じ、忠岑の歌との関連を指摘する。

⑥香川景樹『百首異見』は、初二句を霜を言うための序と指摘し、家持集の第五句「よはふけにけり」は新古今集に採る際に改悪されたという。

⑦『大和物語』は通説では天暦5年(951)成立とされるが、125段は延喜元年(901)頃から語られた内容である。『家持集』の成立は11世紀中ごろくらいまでだが、古い部分もあるので、忠岑の歌と『家持集』の歌の先後関係は判断できない。

⑧『日本国語大辞典』や『岩波古語辞典』は、家持の歌とされる「かささぎの渡せる橋」を宮中の階の比喩とするが、貴族の意識はその通りだろう。


【蛇足】

さて今回も、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。省略したところもありますので、ご注意願います。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回も訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。

解釈に関しては、『百人一首必携』の内容を全面的に書き換えておりまして、現代の辞書における二種類のカササギについての言及も、長流・契沖・真淵・景樹などのこの歌を巡る注釈の変遷も、新たに書き下ろされております。では、『百人一首必携』には何が書かれていたかというと、百人一首2番4番につづいて6番も白い色がテーマであることを指摘し、定家の歌に白が詠まれていることを指摘する石田吉貞氏の論を紹介した上で、晩年の定家が白を歌に詠むことを非難し、その結果「白き」が制詞となった経緯を綴っています。そのことを、頓阿が『井蛙抄』で解説しており、家持の歌を秀歌として持ち上げていることにも触れております。また、『百人一首必携』の末尾では、「かささぎの渡せる橋」を地上の階と見るよりも、天空の烏鵲の橋と見る方を支持しておりました。

ところで、久保田淳氏には、ほるぷ出版から出ている「日本の文学 古典編」シリーズの中の『百人一首 秀歌撰』(1987年)という解説本もありまして、それをみると、たとえば、『三奥抄』が引用の際に『淮南子』と誤った「七月七日夜、烏鵲填河、成橋度織女」の一節の出典を『白孔六帖』と改めていたり、『大和物語』125段の忠岑の歌の「かささぎの渡せる橋」というのは、宮中の御階ではなく一般の邸宅の階段であると指摘していたりします。たぶん、忠岑の場合は、訪問者の泉の大将定国を彦星になぞらえ、訪問を受ける左大臣藤原時平を織姫になぞらえて、急な訪問を七夕伝説を持ち出すことによってとりなしたのでありましょう。


  泉の大将、故左のおほいどのにまうでたまへりけり。

  ほかにて酒などまゐり、酔ひて、夜いたく更けてゆくりもなく物したまへり。

  おとどおどろき給て、「いづくに物したまへる便りにかあらむ」など

  きこえ給て、御格子あげさわぐに、壬生忠岑御供にあり。

  御階のもとに、まつともしながらひざまづきて、御消息申す。

  「かささぎの渡せるはしの霜の上を夜半にふみわけことさらにこそ 

  となむ宣ふ」と申す。

  あるじの大臣いとあはれにおかしとおぼして、その夜、夜一夜大御酒まゐり、

  あそび給て、大将も物かづき、忠岑も禄たまはりなどしけり。

     (『大和物語』125段)


面白いのは、応永13年奥書の宗祇の『百人一首抄』でありまして、また今回も拙いながらも現代語訳して示して見ますと、宗祇は次のようなことをこの家持作とされる歌について述べています。


  この「かささぎの橋」の事は、七夕の(織姫・彦星が逢瀬する時の)状況とは

  違う状況でしょう。こうした(歌の)講釈は、聞かなければとてつもなく

  理解不能の内容ですが、(その講釈を)聞いてみるとあまりにも簡単容易に

  理解が出来るので、歌人としての信頼度も薄くなってしまうものです。

  ですから、これを文章にはいたしません。

  この(家持作とされる)歌の勘所は、冬も深まって月も昇らず雲も晴れた夜、

  霜は天空に満ち溢れて、(空気も)冷えに冷えた深夜などに目を覚まして、

  この歌を思い浮かべるなら、その感動は限りないものに違いないと

  (先師から教えを受けました)。


ここで気になるのは、「七夕の(織姫・彦星が逢瀬する時の)状況とは違う状況でしょう」という部分で、原文は「七夕にいへる儀には相違せるにや」という表現なんですが、これは「七夕」を前提とした読み方があって、それをわざわざ否定しているという思わせぶりなのであります。七夕というのは、勿論初秋の七月七日の行事でありますけれども、家持作とされるこの歌は冬の歌でありますから、何か匂わせているわけです。そして、「これを文章にはいたしません」(原文は「かきあらはし侍らず」)と言っているのは、口頭では伝えたということなんでしょうか。実は近代の注釈書の中に、この歌は彦星が織姫のもとから帰る時の歌だ(犬養廉氏説)というものや、彦星が織姫の元に行こうとする時の歌だ(桑田明氏説)というのがありまして、両者とも秘伝とは関係なくそれぞれが考えた説ですが、宗祇の口伝の正解がそのあたりという気がいたします。詠作主体を、伝説上の人物にするというのは、面白い考え方だと思うのですが、いかがでありましょう。


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