岩波文庫『百人一首』を読む(3) 柿本人麿

3 足曳の山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝ん 柿本人麿


【訳】山鳥の尾の、長く垂れた尾――そのように長い長い夜をたったひとりで寝るのだろうか。

【出典】拾遺集・巻十三・恋三・778

    (題しらず)人丸


【解釈の要点】

①万葉集での原文は「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨将宿」で、巻十一の寄物陳思のうち2802番の作者未詳の歌「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を」の異伝として載る。2799から2807までは鳥の歌で、鳥の組曲を読むような面白さがある。

②拾遺集では、777番から782番まで、すべて枕詞「足引の」で始まる歌群で、これは山の組曲といってよい。

③「足曳の」は「足引の」に同じ。「山鳥」はキジ科キジ目の鳥で日本特産種。雌雄が山の峰を隔てて寝るといわれる。「しだり尾」は長く垂れ下がった尾。「ながながし」は、いかにも長い。「かも」は疑問の係助詞。

④拾遺集以外に、『古今六帖』、清誉本『人麿集』下などに載るが、契沖や賀茂真淵・香川景樹などは人麿の作を疑うが、定家や後鳥羽院・藤原家隆は柿本人麿の歌と信じ秀歌として認めていた。後鳥羽院は、この歌を本歌取りした「桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな」を『時代不同歌合』に自撰している。

⑤万葉集に詠まれた歌を背景として、『枕草子』では「山鳥、友を恋ひてなくに、鏡を見すればなぐさむらん、心わかし、いとあはれなり。谷隔てたる程など、こころぐるし」などと語られるに至る。恋歌で歌われるのにふさわしい鳥である。



【蛇足】

 さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。

解釈に関しては①②と⑤が『百人一首必携』と共通していて、③の単語の説明が書き加えられ、さらに④において、近世の国学者はこの歌が人麿の歌であることを否定していたという指摘をした上で、定家の時代にはこの歌が人麿の歌として享受されていたことが新たに述べられています。近世においては、万葉集を参照して百人一首の歌を検討しますので、天智天皇の歌と同様にこの歌においても、万葉集までさかのぼると作者に問題があることが分るわけです。新古今集の時代には、勅撰集を重要視していたので、天智天皇の歌も人麿の歌も、勅撰集における作者表記を信用していたということになります。『百人一首必携』は、すべての歌について1ページの割り当てだったので、作者の問題は割愛し、山鳥の歌の背景を解説することに注力していたようですが、『岩波文庫』ではそうした制限が少なかったので、人麿作とするのに問題があるということまで触れる余裕があったのでしょう。

ところで、今回の解説で面白いと感じたのは、単語の解説が加わっておりますけれども、「足曳の」を枕詞として紹介したり、上三句を序詞として紹介したりはしていないのであります。訳を見ると、「足曳の」の部分は訳出していませんので、枕詞として無視するという処理が施され、上三句は「ながながし」の比喩をあらわすように訳出していて、これで序詞としての扱いだと分るようになっています。このあとの歌では枕詞や序という解説がありますので、今回たまたま修辞技巧の説明について抜けているようにも見えるんですが、もう少し深い理由が存在しそうです。

通常、序詞によって導かれる言葉というのは、掛詞になっていることが多いような気がしますが、この歌に関しては、「ながながし」が、物理的な尾の長いことと、時間的な夜の長いことを表現しておりまして、微妙な二重の意味を背負っているわけです。序詞の末尾の「の」を、学校なんかで習う「のように」という比喩をあらわす訳で処理すると、「しだり尾のようにながい夜」という妙な表現になるわけで、みんなそういうふうに習いますので仕方ないんですが、本当はよくないことなのでしょう。さらに序詞の「の」というのは現代語にありませんので、「のように」という解釈が本当に正しいと言えるのかどうか、判定が難しいことでしょう。この「の」を主格で訳してしまうと、「しだり尾が長い」となりまして、実はそれでいいのかもしれないのであります。それとは別に「長い夜をひとりで寝るのか」と「長い」を繰り返して訳すというか、二度訳せばいいのかもということです。

ところで、『百人一首で文法談義』(和泉書院、2021年)という本の中で、著者の小田勝氏は「山鳥の尾の」の部分に関して、「山鳥の雄の」とする説があることを指摘し、定家の歌の中に「尾」ではなくて「雄」として本歌取りした歌を紹介しています。これを勝手に敷衍すると、この歌は山鳥の生態を述べた次のような歌として理解することも出来るのではないかと思うんですがいかがでしょうか。そうなると、三句目末の「の」は、もはや序詞の「の」ではなくて、単なる主格の「の」になることでしょう。


  山鳥のしだり尾の雄が、長い夜をひとりで寝るのか。(粗忽試訳)


直訳なら二句目と三句目は「山鳥の雄のしだり尾が」となりますが、同格を処理して分かりやすくして見ました。そして、この直訳の山鳥の生態の後に、「山鳥同様に私も一人でこの長い夜を寝るのか」と付け加えれば、恋の歌として成立するかもしれません。なお、『拾遺愚草』にある定家の歌は、次の歌です。


  憂かりける山鳥のをのひとり寝よ 秋ぞ契りし長き夜にとも(2328)


 

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