岩波文庫『百人一首』を読む(1) 天智天皇
1 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ 天智天皇
【訳】秋の田の仮小屋、その小屋の屋根を葺いた苫の葺き目が粗いので、わたしの袖はしとどに露に濡れている。
【出典】後撰集・巻六・秋中・302
題しらず 天智天皇御製
【解釈の要点】
①「かりほ」は作者としては「仮庵」の意であったことは、万葉集や後撰集の他の歌から明らか。藤原俊成の歌には「刈穂」と詠んだ例もあり、定家は「仮庵」と「刈穂」の掛詞と解していたか。
②「苫」は菅や茅などの草を編んだ薦。建物の屋根などを葺くのに用いた。
③この農夫の辛苦を嘆いた歌を天智天皇御製とするのは、後撰集以外には『古今六帖』が挙げられる。
④下河辺長流や契沖は天智天皇御製とするが、賀茂真淵は天智天皇の歌ではないと断じ、香川景樹も真淵に賛意を表している。
⑤定家は「朝倉や木の丸殿にわがをれば名のりをしつつ行くはたが子ぞ」という神楽歌も天智天皇の歌と認定している。
⑥定家の歌論書における秀歌例にはこの歌が挙げられており、後鳥羽院や藤原家隆もこの歌を八代集の秀歌と認めている。
⑦鉄野昌弘は、天智天皇は平安時代の天皇の祖にあたることを指摘し、この歌について新嘗祭を主宰する天皇の立場では、農民の労苦を歌うのことがふさわしいと述べている。
【蛇足】
さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにしてゆきたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。
今回は訳には変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に解釈については、この歌では変更する必要がなかったということです。考えてみると、この歌は客観的な状況を述べることに徹した歌でありまして、「徹夜の田守が辛い」とか「家に残して来た妻が恋しい」とか、そういう詠作主体の心情が述べられていないのであります。久保田淳氏の訳は言外の余情に触れずに、詠まれた言葉を訳出しています。しかし、直訳というのではなく、「苫」について「屋根を葺いた」という説明を加えています。また、末尾の「つつ」について「しとどに~ている」と訳出していて、程度の甚だしさを表現したものとして解釈したことが分ります。久保田氏は、ほるぷ出版『百人一首秀歌選』(1987年)では「洩れてくる露にひどく濡れている」とも訳していますが、これも程度の甚だしさを言う表現です。
解釈に関しては、今回④⑥⑦が加筆されていて、定家が活躍した新古今時代にこの歌がどのように評価されていたのかという点を明らかにし、天智天皇の御製かどうかという議論の経緯をまとめつつ、新嘗祭を主宰する天皇の歌という見方を紹介しています。古注釈などでは、既に晩秋となって苫が朽ち果てて露に濡れるのだとして、王道の衰微を述べたという説もあるんですが、そちらには与せずに、農民の労苦を思いやったという説を推していると考えられます。ただ、この歌が新嘗祭と関連するのかというと、かなり強引な気もいたします。秋の田の庵に身を置いて鳥獣から実りを守るというのは、古注の注釈者は辛くて苦しいことだと解したようですが、それが毎年収穫期に繰り返されることなら、辛苦を感じるというよりも淡々とこなすノルマでありまして、それよりも家にいる妻が恋しいとか、ここを乗り切れば無事に正月を迎えられるという期待だとかそんなことの方が大きかったかもしれません。近代の注釈は、天皇が田んぼの庵に行くはずがないの一点張りで、この歌を貶しまして、それをいなすためには新嘗祭の主催者たる天皇という指摘が必要なのかもしれません。
ところで、この後撰集で天智天皇の御製とされた歌でありますが、原歌とされたのは、
秋田刈る仮廬を作りわが居れば 衣手寒く露ぞおきける(万葉集・巻十・2174)
の歌で、「かりほ」を探るとこの歌に突き当たるわけで、「秋田」「かりほ」「衣手」「露」という道具立てが一致しますから、古来指摘されてきたのも納得が行くわけです。これを、
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
と比較すると、「かるかりほ」の部分の「かり」という音の重複が、「かりほのいほの」の部分の「庵」の重複と似ておりまして、「寒く」という直接的な感覚表現がない代わりに「苫をあらみ」という寒さの原因を探っていたりするのであります。「秋田刈る」とか「衣手寒く」という説明的な表現を極力避けている点も目に付きますが、「秋の田」から「かりほの庵」、さらに「衣手」から「露」へと次第に視野が狭められてクローズアップして行く手法も目に付くのであります。「つつ」は、諸注がほぼ一致して詠嘆的な意味で訳しますが、やはり本来接続助詞ですから、下に何か補ったらいいのだろうと思うのであります。一案を示すと、
……露にぬれつつ(夜もすがら田を守るとて居るに、我を思ふ妹を我も思ふぞ)
というようなことで、夫婦愛というか家族愛が出て来るような気がいたします。万葉集の巻十当りを眺めていると、農民がその労働を辛苦と捉えている歌なんかないわけで、むしろ生活の一齣として、恋人の事を思っている時間として詠んでいたりするんじゃないでしょうか。虐げられている農民の生活というような発想は、為政者の側から出て来る話でありまして、当の農民の方は為政者の存在なんか意識もせずに、日々の生活の中で喜怒哀楽を感じて、それを歌に詠んでいたかもしれないのであります。注釈をする人というのは、それが天智天皇の歌だとされたなら、天皇の歌として解釈する努力をしますが、注釈者の時代の天皇像に引きずられて余計なことを考えるのでありましょう。後撰集や『古今六帖』の撰者たちが、「これって天智天皇の御製だったよね」と書き付けた時に、はたして「農民の辛苦を思いやってお詠みあそばした」と考えたかどうか、かなり怪しい事のように感じます。歌の主旨が「辛苦」だと思い込み、さらに天皇は秋の田の仮廬の中で一夜を過ごすことはあり得ないという思い込みも加わって、いつの間にか定説化したとは言えないでしょうか。万葉集や、古今・後撰・拾遺の三代集のころにこうした歌を詠んでいた人たちの生活が想像できないことが、理解の違いを生んでいるかもしれないと、指摘しておきたいと思います。
天智天皇の歌とされた「秋の田の」の歌が、実は収穫期に実りを確保するための必要な農事の一齣なら、仮廬に籠る夜には袖の寒さに恋人や妻、家族と過ごす時の袖の暖かさを思うことでしょう。そして、天智天皇が秋の田の仮廬に野宿した日がないわけでもないなら、この歌は理解可能な歌になることでしょう。野宿したことがなくても、秋の田の仮廬を旅の途上で目にすれば、想像力豊かに詠むことも出来るでしょう。歌は生活実感だけを詠むというのは、近代の思い込みかもしれません。
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