超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(99) 後鳥羽院

人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふ故に物思ふ身は        後鳥羽院

            (続後撰集、雑中、1199)(建暦二年、12月20日、廿首御会)


〔釈義〕

(或時は無性に)人がいとしくもある、また、(或時は無性に)人が恨めしくもある。味気なく心に染まぬことだと、今の世のさま、そしてこの世のさまを思う(と、世を厭うて一日も早く遁世すべき筈だのに、反対に)その故に、却って(憂世に執着して)、味気なくつまらぬことにまあ、あれこれと物を思い悩むわが身となっては。(我ながら、何ともあさましいことだ。)


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、続後撰集に「題しらず」として載せられているが、建暦二年十二月廿首御会(五人百首)の述懐の歌五首中の第三歌としてある。他の四首は、(1)人心うらみわびぬる袖の上を哀れとや思ふ山の端の月、(2)いかにせん三十あまりの初霜をうち拂ふ程になりにけるかな、(4)うき世厭ふ思ひは年ぞ積りぬる富士の煙の夕暮の空、(5)かくしつつ背かん世まで忘るなよ天照る影の有明の月。

② 建暦二年は承久の乱の前約九年であり、鎌倉幕府との間の軋轢が漸く激しくなりかかった頃である。同時詠の歌の「うき世」「背かん世」から、この歌の「世」が今の時世の意味を持つと同時に、塵世すなわち俗世の意味や、現世すなわちこの人間世界の意味をももっている。

③ 初・二句の二つの「も」は並立の意味をあらわすのではなく、ここは「人もをし、また人もうらめし」の意で二つの命題が対立し、「も」の位置をずらして「人がいとしくもある、また、人がうらめしくもある」とすることもできる。二つの命題の「人」は、同一の個人の場合もあれば別人の場合もあり、また人間すべてでもある。要するに時と場合によって好悪・愛憎の情が定めなく動くことをいう。

④ 拾遺愚草9246「あじきなく物思ふ人の袖の上に有明の月の夜を重ねては」では、「あぢきなく」は「物思ふ」と「……夜を重ね」とに共通に係る。この歌の「あぢきなく」も「世を思ふ」「物思ふ」の両方に係ると思われる。「あぢきなく物思ふ」は、「(物を)思ふことがつまらぬことだ」「つまらぬことに(物を)思ふ」の意ととれる。

⑤ 三句以下では「味気ないことだとこの憂世を思う故に、味気なくも物を思い悩むわが身は」のいとなり、そこから初・二句の「人もいとしい、また人も恨めしい」という気持ちに落着くことになる。一首はいわゆる倒置の構成をとる。この歌は、幕府の専横に対する憤激を主要な起因として、この世を憂世と観じ、厭世の心を起された後鳥羽院が、憂悶の中に煩悩熾盛のわが心のさまを内観・反省された御詠と考えられる。

⑥ 述懐五首を通じて読む時、当時の政情下における院の御憂悶の程が推測できる。(1)の歌は信頼する人に裏切られた詠であろう。(2)によれば院は三十余歳で早くも白髪を見、(4)厭世の思いは既に年を積み、(5)やがては世を背くことを考えておられる。(1)「山の端の月」や(5)「有明の月」は菩提への道の導きの月かとも思われる。(4)「富士の煙の夕暮の空」は、幽暗さを増す世の中に厭世の心情の燻り燃え続けるさまを示す。

⑦ 四句の「故に」は、世を味気なく思う批判からは、早く遁世すべきであるのに、却って煩悩に流されていることを意識したもので、逆接の気持を含み「だのにその故に」の意味をあらわす。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、朝廷と幕府の対立する政情の下に、現世の味気なさを知られた後鳥羽院が、厭世の思想を懐きながら却って現世に執着している御自身の姿を反省された御詠である。普通には、幕府の専横を憤られ思うに任せぬ悲しみを歌われたと解しているが、「故に」に逆接の意味を含むことを解し得ぬ誤りである。

② 後鳥羽院の寵幸を得ていた松虫・鈴虫の二人の官女が、法然上人門下の鹿ケ谷念仏会に参じて発心し、剃髪して尼となった。この事が院の逆鱗に触れ、二人の僧が斬刑に処せられ、法然たちは遠島に処せられた。「人もをし人も恨めし」の「人」に、この松虫・鈴虫があてはまる。この事件が院の煩悩に起因したものであっても、やがてこの歌に詠まれたような苦い反省を味わわれたことと思われる。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の後鳥羽院の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、当該の歌が建暦二年(1212)の五人百首で詠まれた述懐五首の中の歌であることを指摘して、分析しております。承久の乱の九年前の段階での歌として、鎌倉幕府との軋轢を前提として読み解き、また五首の他の歌から、厭世観や菩提への心情を汲み取るべきだと主張しています。この著者に特有の考え方ですが、三句目の「あぢきなく」は、四句目の「世を思ふ」と五句目の「物思ふ」の両方に係ると明言しておりまして、さらに「故に」は逆接を含む例であると著者は考えておりまして、このあたりは通説とは相違しています。一般には、「あぢきなく」は四句目の「世を思ふ」に係るとするのが通説でありますが、これに対して五句目の「もの思ふ」に係るとする説もありまして対立しますが、著者の立場は特異なものとなっています。「故に」も、逆接の意を含むのは万葉集の例でありまして、通説は原因・理由となっていることが大半です。


著者は、この歌を倒置法の歌と指摘し、三句目以下が先行し初・二句に連なることを指摘していますけれども、この考えを貫徹すると、「あぢきなく」は四句目や五句目に係るのではなく、倒置して文末に位置する初句と二句ではないかと、ここで提案しておきます。旧注釈が、「世を思ふ」に係るとするものと、「物思ふ」に係るとするものとで対立するということは、どちらも恣意的に考えているだけで、実は決め手を欠いていたということでありましょう。「あぢきなく」というのは、形容詞の副詞的用法で文頭に置かれたものだという指摘が今までなかったことに驚かされるんですが、近年の注釈書を見ても倒置法に対する理解が甘いままなのではないかと思います。


あぢきなく、世を思ふ故に物思ふ身は、人もをし。人も恨めし。(倒置修正)


それから、不思議なことなのでありますが、著者は〔鑑賞〕において、この歌は建永元年(1206)12月の松虫・鈴虫の出家事件が背景ではないかと指摘しています。この指摘と、承久の乱の九年前の鎌倉幕府との軋轢を背景とするという説は相容れませんので、一首の歌を巡って、著者の中で混乱が生じていたようです。なお、この事件をきっかけに、法然は翌年に讃岐へと流されるという憂き目にあっております。法然は、建暦二年(1212)1月25日に80歳でなくなっておりますけれども、「人もをし」の歌が詠まれた五人百首はその年建暦二年の12月に成立したものですから、九年後の承久の乱なんかよりも、こちらの方が述懐五首の歌の背景としては蓋然性が高いかもしれません。松虫・鈴虫の二人は尾道の光明坊という寺で余生を過ごしたそうですから、後鳥羽院がそのことを十分踏まえた上で歌に詠む可能性だってあったと言えそうです。著者は、九年も先の承久の乱のことを旧注釈に引かれて言い出さないで、最初から女官の出家事件を背景とした歌群として紹介したほうがよかったかもしれません。


〔蛇足の蛇足〕

著者は特異な解釈をしておりましたので、この歌について本来の後鳥羽院の表現に即した訳を、以前取り上げた北原白秋の評釈の解釈から抽出しまして、その特色を考えてみたいと思うのですが、白秋は実はほとんど元の歌の表現を無視していたので、直訳的なものから白秋の意図を探る事に意味がありませんでした。それでも、工夫して探ってみたところ、白秋の理解はこんなことでした。


多くの人を惜しくも思ふ。多くの人を恨めしくも思ふ。甲斐もなく、天下の政治を思うので、心にまかせず悶えてゐる朕は。


四句目の「世を思ふ」を、白秋は「いろいろこの世の事を思つて」と訳しているんですが、これでは意味が不明ですから、「この世の事」を「天下の政治」に置き換えて見ました。また、五句目の「物思ふ身は」という表現に合わせて、「朕は悶えている」の語順を入れ換え、「心にまかせず」を補って「物思ふ」に近づけて見ました。白秋は、三句目の「あぢきなく」について、「皇室の威光が衰へて、天下の政治は心にまかせぬ事ばかりで、そんなことを如何様に思ふとも甲斐のない事ではあるが」と具体化しておりまして、明らかに承久の乱を起こした心情を推測して、「あぢきなく」を鎌倉幕府への不満、政局への閉塞感を表明したものと考えていたようです。この理解は注釈書に多く見えるものです。後鳥羽院の歌を初句切れ、二句切れとして、三句目以降が倒置されているという前提に立ちまして、この白秋の訳から抽出した表現を、倒置を解除すると、次のようになるでしょうか。


甲斐もなく、天下の政治を思うので、心にまかせず悶えてゐる朕は、多くの人を惜しくも思ふ。多くの人を恨めしくも思ふ。(白秋の理解)


なるほど、こういう解釈が白秋の理解だとするなら、「心中に燃えるやうな悲憤の涙が流れてゐる」とするのも、ある程度分かる気がいたします。我が子に皇位を譲って上皇となり、今や院政を敷いて帝王として君臨しているはずですが、征夷大将軍を戴く鎌倉幕府を北条氏が切り盛りしまして、実は政治の実権は鎌倉が握っておりますので、人事だろうが荘園からの収入だろうが、そんなものは心にまかせないわけで、悩む甲斐もなく悶えるしかない立場なのであります。院に忠誠を誓いながら幕府に退けられる人々がおりますから、それを惜しいと思うわけです。そして、武力を背景に無理難題を押し付けて来る北条氏やその手先を、許せないとして恨めしく思うというのであります。分かったような気がいたしますが、本当にそういう内容の歌なのでありましょうか。


江戸時代の終りに王政復古が成就しまして、天皇が統治するという古代の政治システムが復活したのであります。古今伝授への反発から端を発した古典研究を「国学」と言うのですけれども、『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などを読解し始めた国学者は、次第に国粋主義的な傾向を強めまして、これが討幕の下支えをしていたように思います。帝王を押さえて征夷大将軍が天下を掌握した悪しき伝統は鎌倉幕府から始まりましたので、それに反抗して隠岐に流された後鳥羽院や後醍醐天皇は、明治・大正・昭和初期から見たら、悪と戦う善玉であります。白秋はそういう時代の空気に乗っておりますから、後鳥羽院の『百人一首』の歌を見て、北条氏の世の中に悲憤慷慨して身悶えする帝王の姿を感知したのは仕方ないのかもしれません。今回取り上げている著書の筆者桑田明氏も、そうした流れの中で「人もおし」の歌を解しているのは間違いないことでしょう。


天下の事はみな鎌倉のはからひにて、朝廷の衰へゆくを心外に思召して、いかでもとの御世にとなげかせ給へど、さる大御勢もありえねば、いふかひなきこの代のありさまを、いろいろと思ひ給ふ御心の内には、賢良の臣を挙げ用ひんと思へども、そのれもかなはねば、あたら良臣をと、それも惜しく、又邪曲無道を以てほしきままに、悪政を行ふ事と思へば、その臣下どもも恨めしくかたがたに、心外に思召す

   (佐佐木信綱『百人一首講義』)


この信綱の解釈を下敷きにしていると思うならば、白秋の解釈が出て来ることも充分理解できるわけでありまして、後鳥羽院への同情というか思慕の念は強烈に見えます。そこからすると、後鳥羽院と大喧嘩して『後鳥羽院御口伝』でののしられた藤原定家は、ある意味朝廷の裏切り者、奸臣の最たるもののような気がしまして、その定家がこんな歌を選ぶという方向性が分からなくなったりすることでしょう。現代では、後鳥羽院を善玉として扱うことはないと思いますので、微妙に信綱や白秋の解釈は色褪せるような気がいたします。桑田明氏の〔釈義〕も同じであります。それに比べると、『百人一首一夕話』の尾崎雅嘉の解釈は、淡白でありまして、信綱や白秋はこういう訳も見ていたと思うんですが、歯止めとしては効かなかったようです。


今の世の有様にては、人ををしくも思ひまた人を恨めしくも思ふ事ぞ。かやうに思ふも無益なる事ながら、世の中の事をとやかくやと思ふ故に物思ひをする我が身なれば

   (尾崎雅嘉『百人一首一夕話』)


〔蛇足のさき〕

『続後撰集』巻第十七・雑中 1202番

     題知らず      後鳥羽院御製

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は


後鳥羽院の歌も、源実朝の歌と同じでありまして、何かこう正面から味わったり口ずさんだりしにくいものがあるのであります。やっぱり痛ましい感じがぬぐえないのでありまして、だから後鳥羽院の歌の善し悪しを考えるという気分にならないわけです。近代日本の日本史、あるいは江戸時代以前の古代・中世史の扱いのぶれみたいな物が、学校の教科書にまとわりついていて、何だか靄が掛かるのであります。おそらく、教わった私たちは戦後世代も相当進んであっけらかんとしていたんですが、教えていた方は、自分の両親より年配でしたから、お国のために死を覚悟していた世代で、我々を教えにくかったことでありましょう。


後鳥羽院に関することで私が印象的なのは、後鳥羽天皇宸翰御手印置文というものであります。 「宸翰」というのは、天皇の御直筆というような意味のはずですが、ウィキペディアによると、「置文」のほうは遺言とほぼ同意ということなのであります。暦仁2年(1239)、隠岐に流されていた後鳥羽院が崩御を覚悟して、亡くなる13日前に書いた遺言状なのでありますが、私はこれを京都国立博物館の展示で見たことがございます。文面には後鳥羽院の手形が最後に押してあるんですけれども、ちょっとなまなましいのであります。見たところは鮮血のようでありまして、なにを手に塗りつけたのか、気になるほどの鮮明さなのであります。いまは、水無瀬神宮にあるようですが、手形の指のしなやかさ、大きさが何かを物語ってはいないでしょうか。


この歌は、出典が『続後撰集』雑中巻の巻軸歌(末尾の歌)でありまして、1202番に入っているのであります。次の順徳院の歌も同様で、藤原為家さんが撰者となった『続後撰集』から採用されていることから、ひょっとして為家さんが『百人一首』を撰んだという邪推も出来るわけです。為家さんというのは、最初の奥さんが宇都宮頼綱という鎌倉幕府のえらい方のお嬢さんでありまして、晩年に阿仏尼さんと同棲事件を起こしているんであります。頼綱の依頼で定家さんが作ったのが『百人秀歌』である可能性は高く、それをマイナーチェンジして作ったのが『百人一首』である場合、入れ替えた歌が『続後撰集』にあるということが問題になるわけです。一般には、『新勅撰集』を定家さんが作った時に、幕府の目を恐れて、後鳥羽院や順徳院の歌をやむなく除いた結果、除かれた歌を『続後撰集』に入れたのではないかと推定して、本来『新勅撰集』に入っていたはずだと考えるわけです。


『百人一首』の歌が、すべて勅撰集にあるものという限定の意味するところが大事なんでありますね。


ある程度、公的な場で披露することを前提にしているということなんでしょうか。天皇の下命で撰ぶ勅撰集の権威を改めて天下に披露しようとか、和歌の歴史をある程度公的な水準で作ってみようというような意図があったと言うことなのかもしれません。もし、そうだとすれば、それを素直に受け止めてありがたく頭を下げる人もいるでしょうが、私は裏を考えます。つまり、積み重なった伝統を今さら仰ぎ見ているわけで、そうした歴史の終焉をほんとうは予感していたということでもあります。かえって、危機感にさいなまされての行為のような気がするのです。


ところで、この歌の解釈に関して、非常に疑問を感じる点があります。この歌は、初句切れ、二句切れでありまして、その上倒置法でありますから、えいやっとひっくり返さないといけないわけです。ひょっとして「あぢきなく」できれる、三句切れかもしれないという疑惑を提示しておきたいと思います。なぜなら、帝王が「世を思ふ」「物思ふ」ことが、つまらないことだとは言えないでありましょうから、この「あじきなく」は「人もをし。人も恨めし。」というところに、倒置で掛かるのではないかと思うのです。だって、この時代は『万葉集』の頃ではありませんので、「五七・五七・七」のリズムではなく、「五七五・七七」のリズムでありましょう。そう言うことも見落としている諸注釈という物を「あぢきなし」と思うわけです。仮に二句切れだとしてもかまいませんから、そこでの倒置とみなして検討して見ます。


あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ 身は人もをし 人も恨めし

 (粗忽改作案、二句切れ倒置を修正) 


「身は」のところを、四句目にずらしてみると、まんまと「五七五七七」の歌になりまして、ちゃんと和歌の形式には則したわけですが、こうしてみると、「あじきなく」の懸かりどころが、「世を思ふ」でも「物思ふ」でもなく、一番末尾の対句表現である「人もをし 人も恨めし」であると主張しても良さそうであります。諸説の中には、二つの「人」が別物であるというような「とんでも解釈」まであるんですが、そうではなくて、この人というのは、常識で考えれば自分以外の他人のことであり、治天の君に対する臣下並びに人民を包括する可能性が高いでしょう。それを言い換えれば、世の中と言うことであります。対句に示されているのは、人(臣下・人民)をいとおしんだり恨んだり、相反する複雑な感情を抱いてしまうと言ってるんですから、こうした不安定な心情を、後鳥羽院自身が「あぢきなく」感じているはずなのです。「うれしくも~」とか「いみじくも~」という例を考えてみれば分かるように、「あぢきなく」というのが、最も末尾の部分に響いていく副詞的用法のはずなのに、それを無視しているのは、倒置に対する理解の甘さが生み出していると見ていいでしょう。やりましたね、この年まで考えなかった歌ですから、虚心坦懐に大手柄を挙げたようです。「世の中を思う故に、悩む我が身は、つまらなくも周囲を慈しんだり、恨めしく思ったり、揺れてしまう事よ、ああ情けない」というような、まさしく帝王ぶりの述懐なのであります。もう一度言いますが、「世を思ふ」ことが「あぢきなし」というのはたぶん駄目ですね。帝王は「世を思ふ」のがお仕事です。ここは、「世をあぢきなく思ふ」というような構文ではないはずです。改作案の第二を下に示します。


世を思ひ 物思ふ身は あぢきなく 人もいとほし 人も恨めし(粗忽改作案)

世を思ふ ゆゑに我が身は あぢきなく をし恨めしと 人を見るかな(粗忽改作案)


人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

    (『百人一首』第99番・後鳥羽院)


後鳥羽院の歌を眺めますと、「惜し(愛し)」「恨めし」「世」「物思ふ」と言葉が連なるわけで、ごく普通に『新古今集』の頃の歌として見るなら、当然恋の歌の匂いが立ち籠めます。


「世」とか「世の中」というのは、恋愛関係とか夫婦関係とか、二人の間柄を指しますので、これはまったく恋の歌として解することも出来まして、やはりもみもみとした謎かけのような歌でもあるのであります。これを仮に贈答歌の歌であると考えると、「人」というのは二人称で「あなた・汝」ということでありまして、恋人のあなたをいとしいと思ったり冷淡だと思ったり、落ち着かない心理が表現されています。だとしたら、これは恋愛心理としては、相当熱の入った状態でありまして、「世をあぢきなく思ふ」どころか、二人の関係を深く強く感じているわけで、添い遂げられるかどうか物思いは尽きないのでありましょう。その結果、相手の何気ない言葉、ちょっとした態度に心が揺れますから、ころころと変わる自分の感情を持ってあまして、「あぢきなく」も「人もをし。人もうらめし。」と思うはずなのです。三句切れかも知れないと考えないと、この歌の解釈はぼやけてしまうんですが、さて、従来の注釈はどうなっているのでありましょう? 二人の関係を「あぢきなく思ふ」なら、もはや悩む必要はなく、相手のことを何とも思わないということになるでしょう。この歌の「世」を絶対「男女の仲」じゃないと指摘する注釈書もあるんですが、さて、そうすると恋の歌の解釈に行き詰まるのは確実でありますし、『百人一首』全体の歌の解釈で難渋するのは必至でありましょう。


もう一度繰り返しますが、後鳥羽院の「人もをし」の歌は、三句切れ倒置法の歌であります。そして、初句ならびに二句目に対して、三句目が倒置されているわけです。四五三一二という句の順番で解釈するのが一番分かりやすいということです。


世を思ふゆゑに物思ふ(我が)身は、あぢきなく(も)『人もをし。人も恨めし』(と思ふぞ)


というのが、倒置による強調を修正した、普通の散文調の表現でしょう。恋の風情を借りた、帝王による述懐の歌と考えるべきでしょう。


もともとは「述懐」の歌だというのですが、「述懐」が帝王と廷臣との関係で作られるなら、それは容易に男女間の「恋愛」の歌にも転換するのは当然なんですね。そう考えてわざと「恋愛」すなわち「恋」の歌として読み解くと、「あぢきなく」の掛かり所は明らかであります。そして、恋の歌と考えて見ると、初句と二句目の「人」というのは、二人称の「あなた」でありまして、同一の人に対して「をし」「恨めし」と相反する感情を抱くということが分かります。ならば、鎌倉幕府に対しても、その中枢にいる北条氏に対しても、そして京都にいる親幕派の貴族たちに対しても、時と場合に拠って愛憎が揺れたというのが、この歌の意味するところなのではないかと思います。みなさん、ご飯をちゃんと食べて考えていたんでしょうか?


今朕の御前に控えているそなた、心して朕の本音を聞くがよい。天下というものを帝王であるという立場から朕はあれこれと考えるが、それゆえ、物思いにふけることが多いのだ。そういう朕の立場では、何とも味気なくつまらないことに、そなたのことも時には愛おしく思うぞ。そしてまた、そなたのことを場合によっては憎く思うぞ。

    (粗忽謹訳 後鳥羽院に代わりてその御真意を)


人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

        (『百人一首』第99番・後鳥羽院)


10回くらい粗忽の謹訳を読んでから、後鳥羽院の元の歌を読むと、これが正しいと感じる方もいることでしょう。してやったり、ということでございます。 

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