超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(100) 順徳院

ももしきや古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり         順徳院

       (続後撰、雑下、1202)(順徳院御集)


〔釈義〕

おお、ももしきの皇居よ。(今は大層荒れて見る影もないありさまだが、)その中に(、朽ちながらも変らぬ影を留めて)古い馴染となって残る軒端に、同じく古い馴染となって残る、葉も老いた忍草、その馴染の軒端の忍草にでさえも、(それが壮麗だった殿閣の古びたのに生えたのだと思うと、)やはり(懐かしい)昔がここにはたっぷりと余ってあるのだし、その忍草に通ずる偲ぶことにおいてでも、やはりここにはあり余って、昔の事が次々に浮んで来て偲び尽せない、そういった(二重の意味においてあり余ってあるところの、)ここ皇居の昔だったことだ。(ああ、衰微の中に残る往昔の面影に、栄光の昔時がたまらなく懐かしく恋しい。)


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、続後撰集雑下の三首目に「題しらず」として載っているが、この巻の最初から五首目までは懐旧の歌である。

② この歌は、順徳院御集の建保四年七・八月の頃の二百首和歌の中に入っており、承久の乱に先立つこと五年の御作である。

③ 「ももしき」は原義「百石城」と考えられ、「大宮」「内」等の枕詞として使われていたのが、それ一語で皇居・宮中を意味して使われるようになった。

④ この歌で「しのぶ」には忍草と「偲ぶ」意とを懸ける外に「忍ぶ(=堪え忍ぶ)」意をも懸けてあるという説があるが、「憂きを堪え忍ぶにも猶あまりある昔」となって、昔が非常に憂いことになるが、これは歌意に相反する。

⑤ 古歌の例を見ると、軒端の忍草は自分に同化ないし親近化され、或いは自分を比喩するものとして使われている。

⑥ 古歌の例を見ると、「古き」は単に年代の古いことを意味するのみではなく、「古い馴染である」ことを意味する。なお、「古き」は「軒端」にも「しのぶ」にも係るもので、「古きしのぶ」には秋となって葉も老いた忍草であることをも意味させている。

⑦ 「昔」は経験した過去の事だとすると、通説となっている「昔」が延喜・天暦の盛時をさすという解が成立しなくなるが、経験する主体は単に作者のみに限らず、そこに登場するものであってもよい。「昔」はももしきの皇居の経験した過去と見ると、延喜・天暦の盛時を意味する。

⑧ 「も猶」の「も」は「でも」に当り、「しのぶ」に懸けた二つの意味に対応して「古き軒端の忍草にでも、やはり昔(の名残)があまりあることだ」と「偲ぶことにおいてでも、やはり昔の事が余りある様子で忍び尽せないことだ」といった二つの意味を兼ねる。

⑨ 初句の「ももしきや」は、独立して「ああ、皇居よ!」といった意識を持ちつつ憶持の気持が伴ったものとなる。皇居の衰微を悲しみ往時を懐かしむ気持が既に意識の底にあり、それが或時に偶然軒端の忍草に触目したことによって、荒廃の感と懐旧の情を生起させた。

⑩ 順徳院御集中には、軒端の忍草にわが身との親近性を感じる歌や、「ふるき梢」を詠み込んで左近の桜に親近感を示した歌、「雲の上の月」が皇居の遠い往昔の名残を宿すものとして懐かしまれている歌がある。


〔鑑賞〕の要旨

① 軒端の忍草は大抵恋の歌の素材であったが、この歌では懐旧の歌に使い、それを往昔の盛時の名残として見るのである。ここには、前人未到の着想の斬新さがある。

② 栄光の往昔を懐思するうらには現在の衰微を嘆き、幕府の専横に対する鬱勃たる憤心も動いていると思われるのに、あくまでも静かに過去の追懐に徹している。院のやさしいお人柄が窺がえるとともに、至純な歌心を見ることができる。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の順徳院の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、古歌の例を検討して、軒端の忍草が詠作主体に同化・親近化されたものであると結論付けています。さらに、「古き」が「軒端」だけでなく「しのぶ」にも係るのだと著者が繰り返しこの著書の中で述べた主張を繰り出しまして、この「しのぶ」は老いた忍草であると指摘していますが、これは無理があるようです。また、忍草は恋の歌に使われる素材なのに、順徳院は懐旧の情を示すものとして使った点については、着想が斬新だと評価しています。〔鑑賞〕のところで、この歌の背景に幕府の専横に対する鬱憤があるようだと指摘していますが、歌そのものは懐旧の情に徹していて、順徳院の人柄を誉めておりますが、これは幕府への反発が込められているという通説に妥協しているだけで、著者はひょっとすると幕府に対する感情をあまり汲み取れなかったということかもしれません。後鳥羽院の歌においても、崇徳院の歌においても、その後の上皇の運命に引っ掛けて大げさに歌の内容を拡大解釈することがあるんですが、はたして建保四年において二十歳未満だった順徳院が、幕府に鬱憤を懐いていたと言えるのかどうか、なんとなく通説に無理があるような気がいたします。それから、著者は「軒端の忍草」から朝廷の衰微というのを前提にして論じておりまして、これも通説通りということですが、歴史と伝統を感じさせる古い都に大満足していて、歌道の盛んな文化の都である現時点から、延喜・天暦の昔を懐かしむというような歌として解する余地は感じなかったんでしょうか。


建保期の歌壇動向を見ると、この若い天皇は大人気でありまして、専門歌人たちに囲まれて和歌の催しにも積極的だったように見えますから、そこからしたら衰微した朝廷などという発想はなかったのではないかと思います。どこをどうみると、この歌から憤懣などというものが読み取れるのか、非常に不思議です。


〔蛇足の蛇足〕

この歌は、『順徳院御集』によって建保四年(1216)順徳院20歳のころに詠まれた歌だと指摘されていますので、承久三年(1221)の承久の乱の5年前ですが、果たして「皇威が衰えた」という認識があったのかにわかに分かりません。この建保四年には、閏六月に『百番歌合』という催しが順徳院の元で開かれ、定家は「来ぬ人を」(『百人一首』97番)の歌なんかを提出しております。八月にも22日24日と連日のように順徳院を中心に歌合を開いていまして、どうも20歳の天皇が和歌の面白さに目覚めて詠作に励み、歌人たちを集めて興じていたのであります。


内裏の御殿よ、その古き軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、偲ぶにしてもにもやはり偲びきれない昔であるなあ。(粗忽試訳)


念のため、「しのぶ」の掛詞を、「しのぶ草」と「(昔を)偲ぶ」と二重にして解釈してみましたが、なんとなく、諸注釈の言うような衰微のニュアンスではなくて、「歴史と伝統によって長く盛んであった時代時代が」しのぶ草によって偲ばれて、というような20歳の青年天皇の前向きな気分が感じられるんですが、それではだめなんでしょうか。


内裏の御殿の古くなりて、衰へ頽れたる軒に垣衣草の生えぬるまでなりたる世なれば、偲びてもいよいよあまりあまりて、なほ慕はしきは、昔盛にありし帝の御代の事なり

   (佐佐木信綱『百人一首講義』)


前に取り上げた北原白秋なども、この信綱の影響下でこの歌を考えているようですが、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』も同じ方向ですし、近代の注釈書もその範囲を超えないようであります。そこでご提案なんでありますけれども、四句目のはじめに出て来る「猶」という副詞を、「身に」という表現に差し替えたら、この歌の印象は劇的に変わるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


百敷や 古き軒端の しのぶにも 【身に】あまりある 昔なりけり(粗忽改案)


内裏の御殿よ、その古き軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、栄えある歴史と伝統を偲ぶにしても、【身に】余りあるすばらしい昔であるなあ。(粗忽試訳)


諸注釈は、今が衰えているから、栄光の昔を偲んでも偲びきれない、というような落ちぶれたという自己認識なんですが、若干二十歳の上皇が名だたる歌人たちに囲まれて歌を詠んで楽しんでいる日々ということを考えると、嬉しくてしょうがない、「身に余る」歴史と伝統に震えるくらいの気持ちだったんじゃないでしょうか。建保四年の『百番歌合』からは定家の「来ぬ人を」の歌をはじめとしてたくさんの歌がのちの『新勅撰和歌集』に入集したそうですから、ひょっとすると第九番目の勅撰集は、戦乱が生じなければこの順徳院の下命で撰ぶことがあってもおかしくなかったんであります。そう考えると、建保四年の段階で、歴史と伝統の重さがよく理解できて、それをありがたく享受している帝王がちょっと謙遜して「身に余る」と歌に詠んだなら、定家をはじめとする廷臣は今後の和歌の道の将来を安堵したかもしれません。というようなことは、実は誰も思いつかず言わないのですが、それでいいんでしょうか?


だいたい、「往時を偲ぶ」というような時に、過去はうら寂れていたりしてもいいと思いますけれども、今現在の発話者の境遇は割と盤石なんじゃないでしょうか。今がそこそこ安泰だからこそ、「あまりある昔」というのが意味があるような気がいたしますがいかがでしょう。もしご賛同いただけましたら、身に余る光栄でございます。


〔蛇足の先〕

『続後撰集』巻第十八・雑下 1211番

     題知らず        順徳院御製

ももしきや 古き軒端の 忍ぶにも なほ余りある 昔なりけり


順徳院の歌が『百人一首』のしんがりです。「しんがり」を漢字表記すると「殿」なんですが、今この表記を「しんがり」と読ませるのは無理がありそうですね。この方は、仁治三年(1242)に崩御されたのであります。佐渡院とも言いまして、後鳥羽院が隠岐に流されたように、こちらは佐渡に流されて現地で亡くなられたそうです。実は、藤原定家さんはその前年、仁治二年(1241)に亡くなっておりますが。何の根拠もなく思うのですが、『百人一首』を贈るのにふさわしいのは、この順徳院という『百人一首』の最後を飾る帝王ではないのか、という気がいたします。前にどこかで、左近の桜を藤原定家さんが伐りに行く話がありまして、その時許したのが順徳院でありまして、そういう点では巡り合わせのよい二人でありますから、この方にプレゼントするなら、『百人一首』の構成はふさわしいでありましょう。それ以外にもらって喜ぶ人の顔が浮かばないのであります。いや、顔はもともと浮かばないので、喜ぶ人の名前が浮かばないと言い直しておきたいと思います。『百人一首』をもらって喜ぶのは、順徳院ただお一人のはずであります。


どうやら『百人一首』の末尾三首については、その歌人の人名表記が問題のようです。藤原家隆が従二位になったのが、文暦二年(1235)9月10日のことでありまして、これが嘉禎元年と改められます。嘉禎三年(1237)4月9日に家隆さんは従二位のまま亡くなりますけれども、この家隆さんが従二位の間に、『百人一首』が成立したという可能性が指摘されております。それ以前だと、三位でなければならないし、故人であったなら配列がもう少し前でないといけないようなのです。


ただし、そうなると問題なのが、後鳥羽院・順徳院という天皇の諡号でありまして、後鳥羽院と決定したのは仁治三年(1242)、順徳院の方が決定したは建長元年(1249)ですから、このそれぞれの諡号を藤原定家さんは知るよしもないわけです。なぜなら、前にも述べたようにすでに仁治二年(1241)8月20日に亡くなっているわけでありまして、誰かが死後に歌人名表記を二人の上皇に関しては改めたということなのであります。ともかくすっきりしない問題が残ると言うことだけは指摘されております。


だから、『百人一首』は定家が撰んだんじゃないと密かに考える人は多いのでありまして、そうなると百人の顔ぶれがおかしいとか、それぞれの代表作にしては物足りないとか、そういう話になって収拾がつきません。しかしながら、それながら、『百人秀歌』から『百人一首』を作るとして、三人抜いて二人加えたんだけれど、四首落として三首加えるというような操作を、定家以外の誰がするのかという問題があるでしょう。配列はもっと大胆に入れ替えられておりまして、伝統を重んじる歌道家の子孫がやりおおせるような変更ではないと思うのですが、どうなんでありましょうか。本人なら、微調整も大幅修正も意のままでありましょう。


ももしきや 古き軒端の 忍ぶにも なほ余りある 昔なりけり

    (『百人一首』第100番・順徳院)


「ももしき」というのが、皇居を指すというのが、なかなか難しいのであります。初句の末尾の「や」というのは、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」などという歌が思う浮かびますが、「や」の前後が緊密に結びついていたりするのであります。「ももしきの古き軒端の忍ぶ」が、「昔」の実景として浮かぶような仕掛けなんですけれども、当然「忍ぶ」が、シダ植物の「シノブ」と、過去を追憶する「忍ぶ」の掛詞となって、歌の主旨は懐旧にかられた述懐ということなのであります。「忍ぶにもなほ余りある昔」というのは、いくら思いを寄せても足りないくらいの感慨深い過去ということで、実は何をそんなに思っているのか、はっきりしないのであります。よって、上の句の表現を生かして、昔の御代、古代の聖主の時代という解釈に至るようです。順徳院の家集によれば、弱冠二十歳の時の作品であると井上宗雄先生が指摘してますが、だとすればこの帝王は帝王教育を受ける中で、中国の下降史観を勉強なさったと言うことで、先人は高くそびえ、後代の者はなかなか及ばないというような発想が表現されていると言うことでしょう。それほど特殊な考えや、当時の政治状況の反映など関係がなさそうでありまして、お勉強のできる方が、上手に歌をまとめたように思います。


とりあえず『百人一首』100首全部、今回は桑田明氏の著作に導かれて読みました。かつて読んだ北原白秋の注釈に導かれた勢いで、最後まで読めてしまったようです。


まだまだ言い足りないこともあるのでありますが、自分の解釈だけを取り上げたら、とてもとても続かないはずでありますが、共感してみたり、反発してみたり、自分の分からないところ、足りないところを、むしろ取り柄にしまして古典中の古典である『百人一首』を、今回は桑田明さんという先学の手を借りていじり回してみたら、案外面白い物でありました。桑田明氏は否定していましたが、最後の順徳院の歌もこれを恋の歌に見なすことは出来るわけでありまして、「忍ぶ」は思いを寄せるでも人目を避けるでも、恋の情調をかもします。二人の昔は、余りあるほど幸福な日々だったねえと、過ぎ去った恋を慈しむんでありますね。それから、「余り」は「軒端」の縁語だよって、角川文庫ビギナーズクラシックスが指摘してまして、おそらく「軒端の忍ぶ」は、軒先から余っているように見えますから、これはそういう修辞がちゃんと入っているようです。


さて、『百人一首』を再度読み通してみての感想は、今回もなるほどなかなかいいという微温的な気分であります。


たぶん、世間の大方の方は、名作しか読んだことが無いのであります。やはりこれは名歌揃いの秀歌撰でありますから、ホテルのバイキングのような物なんであります。今回もこの感想は変りありません。どれもおいしいのでありますが、やはり、ローストビーフとカニと、スイーツが人気というような具合でありまして、実は平凡なエビチリも、コンソメスープも普通よりはずっとおいしいのであります。下手な古歌を我慢して読むような経験は、普通はありませんから、結局『百人一首』のなかでの好き嫌い、うまい下手を論じてしまいそうであります。少なくとも、絶対に秀歌とは認められないというような歌はありませんでした。昔、藤原定家さんの若い時の歌を先輩や師匠と輪読かなんかしましたときには、解釈の途方に暮れるようなおかしな歌ばかりで、何が言いたいのかさっぱり分からないものがたくさんあったのであります。それに比べたら、実に充実しておりまして、たしかにこれらの歌がとりあえず名歌であると言えるでしょう。


百人の ふるき昔の 歌見ても なほ余力ある 我が身なりけり(粗忽)


何度となく大手柄と自慢しましたけれども、そうした中で、やっぱり違うかなあと反省しているのは、西行さんの「かこち顔なる我が涙かな」であります。これはやっぱり、昔のままでいいんではないか、と思ったりしているんですが、いやいや待てよ、他にどんな証拠の歌があろうとも、涙が顔を持っているというのは無理ではないか、などと揺れているのであります。ということは、他のは本当に大手柄かも知れませんね。お勉強で困って検索している人がたまにいるんでありますが、今はまだ役に立ちませんよと言いたいのであります。30年、50年したら、あるいは定説になったりすると面白いことでありますね。もちろん、これもあれもすべて妄想であります。今回桑田明氏の考察を参考にした中で、最も面白いと思ったのは、持統天皇の歌の「衣干すてふ」の部分の解釈でありまして、「白妙の衣」は春霞でありまして、それはもう天の香具山は身にまとっていないのでありましょう。ともかく、分厚い注釈書に導かれて、長い長い旅でありました。以上が2024年を費やし、2025年になって完了した今回の試みのまとめです。 


〔蛇足のさきのさき〕

以前住んでいた家の庭に「しのぶ草」が生えておりまして、ほっておくと鬱蒼としてすごいので、年に何度か刈り取りました。生命力が強くて、毎年復活して地面を蔽いましたが、あれが「しのぶ草」だと実はあまり認識していなくて、どうしてこんなところにシダがはびこっているんだろうと思っていたくらいです。


とここまで書いていて、そうそう、順徳院の歌に出て来る「しのぶ草」は「のきしのぶ」というシダ科はシダ科でも、イラストにすると海藻みたいに見えるものだったと思い出しました。鬱蒼と生える方のシノブグサではなくて、岩とか苔のところに生えるせいぜい20センチになるかどうかとうようなものでした。それも以前住んでいた家の日当りの悪い塀の下にありまして、ユキノシタという植物と何となく一緒に生えている状態だったのです。

 

注釈書でも間違っているのがありますから(笑)、ご注意を。

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