超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(80) 待賢門院堀川
長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ 待賢門院堀川
(千載、恋三、801)(久安百首)
〔釈義〕
(長いのが命である女の髪、どうぞすらりと)長く延びてほしいと願う私の心も知らずに、黒髪がすっかり乱れてくしゃくしゃになって……。(あなたは私への)愛をいつまでも長くもとうとのお心(だとおっしゃるけれどそれ)も(本当にそうだか、私には)よくわかりませぬ。(私はただもう、)すっかり乱れたこの黒髪のように、あなたとはじめての逢瀬を持った今朝は(殊にせつなく、これっきり捨てられるのではなかろうかといった不安に駆られて)、千々に思い乱れるばかりでございます。
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、千載集の詞書には「百首の歌奉りける時、恋の心を詠める」とあり、久安百首には初句が「ながからぬ」とある。諸家の解には、初・二句を連用形で下に続くとするものと、二句切れとするものがある。前者は「そんな状態で」の意味で、後者は「それで」のような順接の気持で、三句以下に続くとしているのが多い。中には、「末長く変らないお心かも知らないけれど」のように逆接で続くとしているものもある。
② 「長き心」の用例を見ると、「長く続く愛情」の意であることが確実となる。これによって堀川の歌の「長からむ心」の意味も、「長く存続せむ愛情」の意である。次に、「心も知らず」の用例を見て見ると、この句で切れる例もあるが、「ず」が連用形で下に続く例もある。堀川の歌が連用形なら、それは順接や逆接の意味であるべきではなく、「心も知らずに」といった意味であるべきだ。
③ 初句を「長からぬ」とする初案である久安百首においては、相手の愛情が長くは保たぬことを明言しているので、歌意は、相手の移り気をも問題にせずにただもう恋しさに心乱れて切ないといった趣になる。「長からむ心」は、相手が長く自分を愛してくれるであろうに、その愛情をも知らずに不安に心乱れて物を思うといった趣になろう。多くの解が「長く愛しようという心の有無もわからずに」とるが、こうとれば三句以下はやはり行末の不安に心乱れるという趣になる。しかし、初・二句と三句以下が内容において順接的につながるなら、二句は「心も知らで」とあるべきで、この解は妥当とはいえない。
④ 二句切れの「人はいさ心も知らず故里は花ぞ昔の香に匂ひける」(古今集42・百人一首35・紀貫之)を参考にして、「人はいさ」を初・二句に冠し、「我は」を三句以下に冠してみると、歌意がよく通じる。そして、この歌も、「忘れじの行末までは難ければ今日を限りの命ともがな」(新古今集1149・百人一首54・道綱母)の歌と同様に男より贈られた後朝の歌への答歌と見て通じる。この時、初・二句と三句以下との続き柄は、「それに対して私は」となる。
⑤ 「長からむ」「黒髪」「乱れて」が縁語であり、「乱れ」が「黒髪の乱れ」と「乱れて物を思ふ」との懸詞であることは明かであるが、この歌では、「長からむ」と「黒髪」の間に意味のつながりがある。「長く延びているようにしようと思う私の心も知らず、黒髪の乱れて」という意味続きであろう。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、恋の歌として後朝の返歌の体をとっており、長く愛情を変えまいと誓う男の言葉に偽りはなくとも、男の愛をわが身一つにつなぎとめることは出来ない女の宿命の悲しさである。最初の逢瀬の後の、男の愛の証しを得た喜びと、待つ恋の苦しみと入り混じって、ただ千々に心が乱れるのである。
② 黒髪そのものが女性美の象徴であるが、この歌は「黒髪の乱れも知らず打臥せばまづ掻きやりし人ぞ恋しき」(和泉式部集40322)の歌を踏まえている。乱れた心を黒髪の乱れに象徴させるのも効果的であり、官能的な妖艶な雰囲気を漂わせていて美しい。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の待賢門院堀川の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、「長き心」を古歌の例から「長く続く愛情」であると分析し、「長からむ心」の意味も、「長く存続せむ愛情」の意であると結論付けています。さらに、「心もしらず」「心も知らで」などの古歌の例を検討して、「ず」が連用形で下に続く場合には順接や逆接と見るのはふさわしくないと類推して、紀貫之の「人はいさ」の歌と同じようにこの歌は二句切れであり、三句目以下には「それに対して私は」と続くのだと主張しています。紀貫之の歌を手掛かりに、二句切れを主張するというのは少々強引ですが、著者が示唆するように、初・二句がここで句切れをしていないというのであれば、二句目は「心も知らで」とか「心も知らねど」「心も知らねば」などと表現することも出来たはずでありまして、一定の説得力はあるように感じます。
なお、著者が〔義趣討究〕の末尾で述べているのは、「長からむ」が縁語のつながりを越えて意味を持っているのではないかということですが、〔釈義〕をいくら眺めて見ても、歌の趣が豊かになるというようには感じられません。少々無理な解釈だと思います。著者は、序詞であるとか縁語であるとか、さらに掛詞というような言語遊戯を認めない方向の解釈をしばしば志向していますので、今回の意見もその一環と考えてよさそうです。
〔蛇足の蛇足〕
前に取り上げた北原白秋の評釈では、句意のところで、「即ち昨夜はじめて男と逢つたが」としていますが、『千載集』巻第十三・恋三 801番の詞書を見ると、「百首の歌奉りける時、恋の歌を詠める」とあって、初めての逢瀬かどうかは明らかではありません。白秋のように考える古注釈もありますので、享受する側の好みの問題になるようです。今回取り上げた桑田明氏の場合も、〔釈義〕のところで「はじめての逢瀬」としています。なお、著者も指摘していますが、これは『久安百首』で詠まれた歌で、初句は「長からぬ」とあって、やはり修正もしくは添削の跡が知られています。
『千載集』巻第十三・恋三 801番
百首の歌奉りける時、恋の歌を詠める 待賢門院堀河
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
割と有名な女流歌人なんですけれども、これと言ったエピソードが浮かばないのであります。歌の方は、和泉式部の歌と似たところがありまして、本歌取りかも知れませんが、近代歌人の与謝野晶子の有名な歌にも通じるところがありまして、女性の命とも言うべき黒髪の歌としては、手堅くまとまっている感じであります。ただし、縁語の処理と言いますか、修辞技巧を裁くことが出来ないと、実は意味不明でもありますね。今ちらっと注釈書の一つを見たら、いろんな説があるとありまして、なかなか手強いのだそうであります。簡単にしてしまうと、「汝の長き心も我は知らず、乱れて今朝は物を思ふ」ということではないでしょうか。「黒髪の」という一語が入ると、いきなり官能的な歌になるのであります。「長き黒髪が、乱れに乱れて」というような映像が浮かんでしまいますね。こう言うのを、縁語と称するんであります。
黒髪の 乱れも知らず うちふせば まづかきやりし 人ぞ恋しき
(『後拾遺集』巻第十三・恋三 755番 和泉式部)
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
(『百人一首』第80番・待賢門院堀河)
黒髪の 千すぢの髪の みだれ髪 かつおもひみだれ おもひみだるる
(与謝野晶子『みだれ髪』)
手許にある、与謝野晶子歌集を見ましたら、「千すぢの髪の」という歌は漏れておりました。これは与謝野晶子さんの自選歌集らしいのですが、選りすぐりには漏れたということでしょうけれど、一瞬ひやりといたしました。近代の短歌を熱心に読んだことが無いので、またまた新しい課題が見えて参りましたね。時代的には、和泉式部が最も古くて、堀河の歌がありまして、700年くらい後に与謝野晶子さんの歌が出て参ります。堀河という人は、鳥羽院の后で有名な待賢門院に仕えた女房でありますが、白河院に詠んだ歌を取られてしまった話と、妹と連歌を交わした話があるだけで、説話の盛んな時代に生きた人なんですが、私生活で話題を振りまくことはなかったようであります。「長からむ」の歌も、相手は永遠の愛を誓っているわけで、それなのに夜が明けると不安になって物を思うというのですから、典型的な恋愛の症状でありまして、恋が成就したからと言って、安心安全、お気楽になるわけではないという普遍の真理を詠んだわけです。ただ、これを二句切れとすると、微妙に揺らぎますね。相手の愛情を疑う表現にもなるわけです。「今朝は乱れて」いるんですけれども、「昨夜は乱れず」相手を信じていたんでありましょう。にわかに判断の付かない問題であるような気がいたします。
さて、このところますますへそ曲がりの度が嵩じておりますので、思いのたけを記してみることにいたしましょう。まとまるかどうか分かりません。「まとまらむ心も知らず」というようなことです。この歌は、千載集では恋の三に入っていまして、どうも「初逢恋」などではなく、恋の相当進行した状況だと撰者は考えていた節があります。撰者はもちろん藤原俊成ですが、千載集の選進を定家が手助けしたのは有名な話であります。
堀河の歌は『久安百首』の歌でありますが、崇徳院や顕輔の歌と同じで、改作の跡があるということが指摘されています。初句が「長からぬ」なんだそうで、これだと恋の先行きはいきなり不透明ということになりますから、下の句で「乱れて今朝は物をこそ思へ」と悩むのが当然の展開となります。『久安百首』には深く藤原俊成が関わったので、こうした改作は俊成が関与した可能性は高いのでありましょう。ついでに、余計なことを言うと「黒髪の」の「の」を比喩の用法として「のように」と訳す向きもあるんですが、注釈者によってはこの「の」を主格で「が」としっかり訳しまして「黒髪が乱れているように」と下に「ように」を補ったりいたします。上に示したように、「黒髪が乱れに乱れて」と訳しておいて、あとは「ように」という比喩を表す表現を補わずに済ますという手もある事でしょう。
行く末の 心も知らず 黒髪を 乱して今朝は 物をしぞ思ふ(粗忽)
分かりやすくするとこんなことかもしれませんが、堀河の歌は、本当にこんなことを言いたいのか、何とも自信がありません。ひょっとしてなんでありますが、「長からむ心」と言うのが、恋の相手のことなんかじゃなかったらどうなんでしょう。「(恋の相手に対する)長からむ心も(我はいさ)知らず」ということで、不本意な相手と一晩明かした後で、この恋を始末する方法を探っている歌だとしたら、それでも成立しそうでありますね。そうすると、『久安百首』の最初の形が、「長からぬ心も知らず」だったことの意味が分かるんじゃないでしょうか。「長からぬ心」というのは、自分のことを正直に言っているとしたら、解釈がまるで従来とは違って来るんであります。
相手に対して永遠の愛を誓うような気持なんて私は気にしていなくて、それなのに共寝して(二人の)黒髪が乱れて、今朝は「どうしよう、本気でもなかったのに」と物思いをすることだ。
添ひ遂ぐる 心もあらず 黒髪は 乱れて今朝の 物思ひかな(粗忽)
相手の気持ちが分かるとか、相手の気持ちを知りたい、というのはなるほど少年少女の恋愛なら納得なんですが、さていい大人になって、相手の気持ちをあれこれ考慮して恋愛するのかどうか。それよりも自分の気持ちをつらつら考えて、自分は相手に対してどういう気持ちでいるのか、今後どんな気持ちを持つのか、と言う点に注目することもあるのではないかと思います。深い気持ちもなく事に及んで、案外愛が芽生えそうというような大人の恋の歌を想定するのは無謀なんでありましょうか?
人はいさ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ(粗忽謹製、貫之風)
みづからの 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ(粗忽謹製、臍曲風)
〔蛇足の蛇足の蛇足〕
実は、一晩寝まして、ふとこの待賢門院堀川の歌に対する取り組み方が、自分としては淡白過ぎて、気になったのであります。紀貫之の「人はいさ」の歌に関しては、実は二句切れ説をくつがえして、「故里は」のところに「旧る」を掛けているのではないかということを思いついて提示したのを、うっかり忘れておりました。だとすると、紀貫之の歌の枠組みを利用したから二句切れだというような説に、うっかり与していては駄目ではないかと反省いたしました。とは言っても、何も思いつきませんので、念のため、待賢門院堀川の五句目の「こそ~已然形」という係り結びに着目して、少し悪あがきをしてみたいと思います。「こそ~已然形」は文末では係り結びという語法ですが、文中にあると逆接確定条件という表現になりますので、待賢門院堀川の歌を、倒置させて確認いたします。それに少々、手を加えて参ります。
黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ(ど) 長からむ 心も知らず(倒置を修正)
黒髪の 乱れて今朝は 眺むれど いさ長からむ 心も知らず(倒置を修正し五七五七七に調整)
黒髪が乱れているように今朝の私はあなたとの関係について物思いにふけるけれど、私の黒髪が長いようには、あなたとの末長い関係を望む気持などあるのかないのか、さあどうだか自分でもよく分かりません。何だか申し訳ないわ。(修正粗忽版の解釈)
こうしてみると、「黒髪の」という枕詞が「乱れて」「長から」を導いていることになりまして、「長からむ心」が恋の相手の気持というよりも、詠作主体の気持を表現している方が素直な解釈になることでしょう。だとすれば、もともと待賢門院堀川の初・二句「長からむ心もしらず」という表現は相手の気持ちではなくて、自分の気持を言っている可能性が高いのかもしれません。「こそ~已然形」は前提条件でありまして、詠作主体の訴えたいのは「長からむ心も知らず」の方でありまして、もしかすると大人の恋、すなわち互いに不倫であったら、これは「この恋を続けようという気長な気持も互いに分からない」という解釈に落ち着くかも知れません。もちろん、「あなたに私との関係を末長く続けようという気持ちがあるかどうかも分かりません」という解釈でも、別に構わないのであります。
黒髪の 乱れて今朝は 眺むれど かたみに長き 心も知らず(粗忽謹製)
※「かたみに」は、お互いに、という意。
従来の注釈は、倒置法に対する見当が甘いというか、まったく考慮に入れないようなので、こちらもぼんやりと対処してしまいがちですが、「こそ~已然形」のような語法が使われているのに、そこは検討しないでやり過ごしてあるというのは、非常に不思議なことかもしれません。近年出た本で文法的な側面を強調するものも、この点には何も触れていませんので、やはり100首もの歌を扱うというのは、根気が必要で、その根気が継続できなくなるということは生じるということなのであります。
さて、ここまで書いて昼寝を致しましたが、何だか眠りに落ちないのでありまして、気になることがあるのに、それに蓋をして稿を閉じようとしていること気が付きました。桑田明氏が指摘するように、待賢門院堀川の歌の二句目の末尾「ず」を巡って諸註は議論百出であります。終止形なのか連用形なのか、順接で下の句に続くのか、はたまた逆接なのか、みんなここで迷っておりまして、いかにも単純な歌なのに解決が付かないということは、誰もが見落としていることがあるということです。この待賢門院堀川の歌を、桑田明氏は紀貫之の「人はいさ」の歌を手掛かりにして解読したのでありますが、実はその歌の三句目「故里は」のところに掛詞があると私は指摘しまして、得意げにそれを披露いたしました。実は、桑田明氏が分析したものをみると、「心もしらず」の二句切れの歌は少なくて、せいぜい紀貫之の「人はいさ」の歌がある程度なのです。だったら、紀貫之の歌も二句切れではないのだと考えた延長上で、待賢門院堀川の歌の「ず」も連用形で、「黒髪の」に掛詞があると考えるのが筋というものではないかと思い至りました。そこで昼寝が覚めてしまったというわけです。では、「黒髪の」に存在する掛詞は何かと考えると、これはもう、カ変動詞「来(く)」の終止形である「来(く)」しか考えようがないのであります。ただ、この掛詞を認めると、久安百首の初案「長からぬ」がますます妥当性を帯びるように感じるのは、私の思い込みでしょうか? それとも、作者の堀川はこういう歌を詠んだのでありましょうか?
長からむ 心も知らず(来。)黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
私の黒髪が長いようには、あなたとの末長い関係を望む気持などあるのかないのか、さあどうだか自分でもよく分かりませんが、あなたはせっせと通っていらっしゃる。黒髪が乱れているように今朝の私はあなたとの関係について物思いにふけるけれど、何だか申し訳ないわ。(粗忽の新解釈)
『百人一首』を使っての遊びも、残すところ五分の一、よくぞここまでやってこれました。
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