超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(77) 崇徳院

瀬を速み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ         崇徳院

      (詞花、恋上、228)(久安百首)


〔釈義〕

(緩い流れには、流れを妨げる岩もないか、あってもそれを緩かに繞って水はすぐ合流するので、岩に流れが阻られるという程でもないのだが、流れの急な速瀬には、流れの中に多く岩が横たわっており、それらに激しく水が当ると岩もまた激しい抵抗を見せてこれを阻るので、流れて来た滝川の水はそこで分れてしまう。しかし分れて流れて行く末には、川水はまた合流するものである。御身と私とは、あたかも速瀬の滝水の宿命を負うものよ。)瀬の流れが急激なために、岩に塞かれる滝川の水が二つに分れてしまうように、二人は共に添い行こうとしても、悲しい宿命を負った二人の一途の愛の激しさ故に、周囲はそれを許しておかず、これまた激しく妨げるので、ついに二人の仲は引裂かれてしまう。でも速瀬の滝川の水が岩に塞かれても末にはまた合流するように、二人の仲も、今引裂かれはしても、結局はまた逢って結ばれることが出来るであろう、いやいや、無理にでも何とかして、将来きっとまた逢って添い遂げることにしようとだ、思うことよ!


〔釈義〕の要旨

瀬の流れが急激なために、岩に塞かれる滝川の水が二つに分れてしまうように、二人の仲も、今引裂かれはしても、結局はまた逢って結ばれることが出来るであろう、いやいや、無理にでも、将来逢って添い遂げることにしようと思うことよ!


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、詞花集に「題しらず」として載る。釈義上に問題点が二つある。第一に「われて」が「破れて=別れて」のほかに「わりなく」「無理に」のような意味を兼ねるのか否かということと、第二に「瀬を速み」がどの語句に係るのかということである。

② 「われて」の用例を検討すると、「われて(物)思ふ」の用法であり、これは「心が千々に破れ砕けて思い乱れる」の意と見てよく、伊勢物語69段の「三日といふ夜、男、われてあはむといふ」などの「われて」は、「わりなく」「強いて」「無理に」のような意味と見て通じる。「わる(下二)」には「破る(四)」の自動詞として「破った結果になる=破れる」意味の場合が多く、前者の「われて」はそこから来ている。後者の「われて」は、それとは別義の「わる=割切る」の他動詞である。

③ 諸家の註には、「瀬を速み」がどこに係るか明瞭にしないものや、「岩にせかるる」に係るとするもの、「われても末にあはむ」に係るとするものなどが見られるが、瀬の流れの激しさが原因となって結果するものは、「岩にせかるる滝川がわれてしまう」ことである。

④ 百人一首48番歌、源重之の「風を痛み」は、崇徳院の「瀬を速み」の歌と形態がよく似ている。これから見ると、「瀬を速み」も下接する「岩にせかるる」に係る関係も考える必要がある。「瀬を速み」という句を持つ歌を検討しても、同じような結論が得られる。「岩にせかるる」は「瀬を速み」と内面的・因果的つながりがあり、それは意志に関係のない宿命的なものだと意識されるものである。

⑤ この歌は、久安百首には「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれて末にも(イわれても末に)」となっている。ここには恋路の障碍多き悩みと清純でひたすらな恋心とが感じられるが、これは悲恋に耐えようとするいじらしい決意の歌である。然るに詞花集・百人一首の改作では、全く面目を一新した。悲恋の宿命観を帯びて来、恋情は却って高まり、無理にでも何とかして行末に逢おうと決意する趣である。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、清流迸り激湍岩を噛む景である。こうしたすがたは、まさに或未熟にして清純無垢な男女の恋の有様を象徴している。

② 久安百首中の恋の歌としての初案では、細々とした谷川の障碍に行悩むすがたに痛々しい清純な恋の悩みが象徴されたが、改作歌においては、周囲の情況と自身のさがとの相関がスケールの大きな滝川の岩に激突するイメージに膨張した。その陰に、作者崇徳院御自身の境遇・政情に対する不安・鬱屈が増大し、今にも暴発されそうになるお姿が拝される。

③ この歌は、終りの「とぞ思ふ」の部分を除けば、一首は叙景歌と見られるもので、それが比喩・象徴の手法によって、また「われても」という絶妙な懸詞の技法の駆使によって、そのまま激しい恋の抒情歌となっている。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の崇徳院の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、「われて」の部分が、「わりなく」「無理に」のような意味を兼ねる掛詞になっているということを、「われて」の例を分類した上で主張しております。この主張は、著者の独自のものではなく、むしろ古注釈に連綿と受け継がれてきた理解なのですが、実は江戸時代の末期に香川景樹が強く否定しまして、現代の注釈書ではまったくかえりみられなくなっている説なのです。「われて」が滝川の水流に関する描写である以外に、副詞として機能しているのだというのは、一見すると成り立つようにも見えるのですが、「われて」のみなら副詞として使われてもいいと思うのですが、この歌のように「われても」と係助詞「も」を伴うと、何となく成立しないという気がいたします。微妙なことですから、強弁することはできませんが、「われて」の掛詞など考えず、川の水流を恋人との情況の比喩と捉える方が趣は上なのではないでしょうか。


また著者は、「瀬を速み」の係り所を考察して、強く「われても」に係るのだと主張した後で、直下の「せかるる」にも掛かるのだと述べているのですが、そう詠むことでこの歌の宿命観のようなものを読み取れるのだと述べるのですが、こうなると見解そのものが難解さを通り越して理解不能なものになっているようです。なぜ滝川の瀬の流れが速いと岩にせかれることが宿命的だと感じられるのか、私などにはまったくその理屈が分からないのであります。流れが速いという滝川の様子は、「岩に塞かるる」「われても末に逢ふ」ということの理由として述べられているにすぎず、「瀬が速い」「岩に塞かるる」「われても末に逢ふ」という表現を、この歌の享受者が恋のどういう比喩として受け止めるかという問題のような気がします。流れが速いと岩のところで二つに分れるわけで、「瀬を速み」は「岩に塞かるる」「われて」の両方に関係しているというだけだと思うのであります。崇徳院の晩年の悲劇を前提に、この歌をひどく劇的なものに見たいという圧力がかつてあったようですから、そうした流れかもしれません。


〔蛇足の蛇足〕

『詞花集』巻第七・恋上 228番

    題知らず           新院御製

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

                ※新院は、崇徳院のこと。


これは、三島由紀夫の小説を原作とした映画『春の雪』(監督・行定勲)に出て来る歌でありまして、しかしながら原作の小説中には実は出て来ない歌ですから、あれこれ詮索したことがありました。面白いのは、急流であるとか、流れがあとで合流するだとか、なんとなく注釈書が大河の流れのようなものを想定しているのに対して、どうもそうではないようで、岩場を流れるしょぼい流れを想定する必要があると言うことを、探り当てました。そういうことを指摘する向きもありまして、そちらのほうが理にかなっていると思います。江戸末期の香川景樹が気が付いて、佐佐木信綱経由で白秋も理解を深めていたようです。


問題点はいくつかありますが、焦点は「われても」の解釈になるでしょう。普通に説明すると、序詞という技法が使われていまして、「瀬を速み岩にせかるる滝川の」は、「われても」を導く序詞ということになりまして、これがイントロでありますから、歌の内容は「われても末に逢はむとぞ思ふ」がメインのボーカル部分となるのです。ただこれは、滝川に関連する言葉をわざと使っての「割れて」「合はむ」という表現ですから、恋の歌として理解するためには、解釈上飛躍が必要なんですね。だから、世間の注釈の多くは、ここから「別れてもいつかは再会したいと思う」というような、永遠の別れを想定し、それに対して再会を希求するという、非常に芝居臭い大げさなものになるわけですね。


そこで問題にしたいのは、四句目のところに出て来る「末」という言葉がちゃんと吟味されてきたのかどうかということです。言い換えると、「末」という言葉が、時間的な流れの中で、どのようなニュアンスで使われるか、これまで注釈者が理解できていなかった可能性があるということです。つまり、この歌の「末」が「遠い将来」「不確定の未来」を指すのかどうかと言うようなことですが、辞書を見るとそんな方向の解説しか無いんですけれども、どうも違うようだと気が付きました。この言葉というのは、「本」と「末」とペアにすることが多くて、始まりがあって終わりがすぐに来るような時の、その終わりを「末」と言うようです。つまり、「有限の結末」「既定の結果」を示すもので、「遠い」とか「不確定」ではないのでしょう。


辞書というのは、人が作っているのであって、完璧な辞書などと言うものは存在し得ないはずです。まだまだ発展途上のところがあるということは、心得ておきたいものです。


考えたら、私は「末っ子」なんだけれども、いつかそのうち生まれるかも知れない子供のことではないですよね。もう生まれないし、作る予定もなくなると、この子が末っ子ですって紹介するんですよ。樹木の「梢」というのも、字を当て代えれば「木末」なわけで、樹木の先っぽの目に付くところを言うわけです。樹木の先っぽは「梢」だけれど、折り取ると「枝」になっちゃうんではないでしょうか。地面に落ちている木の枝を、「梢が落ちている」とは言えないと思います。「行く末が心配だ」という時も、こんな状態では将来が大変だと分かった時に言うわけで、実は確定的な未来をいうのでしょう。「行く末、頑張ってね」とは言わないな。「末は博士か大臣か」というのも、できのいい神童に使うわけで、はなたれ小僧には言わない言葉でしょう。和歌の世界では、上の句の五七五の部分を「本」と言い、それに続く下の句の七七を「末」というわけで、「本」と不即不離の関係にあるものを「末」と呼ぶわけです。丸見えの先っぽ、後のほうが、どうやら「末」ってことでしょうね。だったら、崇徳院の歌も、こんなに愛し合ってるから、何か妨げになる事情があるけれど(お仕事とか、夜明けとか、疲れたとか)、また逢おうねって言っている可能性は高いと思います。


崇徳院の歌は、遠い未来のことではなく、おそらく「今夜も逢おう」とか、「明日も逢おう」というホットな歌でしょう。


もちろんそれを敷衍して、……ふえんしてというのは、広げていってってことですが……転生した来世にも必ずお会いしましょうねという力強い再会を確約する歌として理解するのは、非常に自然で適切な使い方になることでしょう。逢えるかどうかも分からない、というような自信のない解釈をしていたら、序詞の部分が実は読み解けていないという証拠になってしまいますね。そう思って、角川ソフィア文庫『新版百人一首』(島津忠夫さん)とか、ちくま文庫『百人一首』(鈴木日出男さん)を見たら、保元の乱後の境遇に引っかけすぎて、遠い将来の再会を期待する歌になっちゃってますね。これらに対して、講談社文庫『百人一首』(大岡信さん)のは、「ああ、何としてでも、私はあなたと抱き合う」なんて訳してあって、大正解。詩人のほうが、学者さんより読み込んでいたということでしょうか。やっぱり恋の歌ですから、この場合は今日明日の肉体的な接触を前提とした解釈のほうが、序詞にはうまくかみあってしまうでしょう。たいした違いは無いけれどね。同じだからこそ、違う違うと言いつのっているだけで、違いを探せば探すほど、同じような解釈に見えて参りますけれども、この微妙な差を感知していただけますでしょうか。


この歌の焦点は、「われても末に逢はむ」の部分が、永遠の愛を誓う歌なのかどうかと言う点です。崇徳院という天皇は、保元の乱(1156年)に敗れまして、その時が37歳くらいくらいですが、讃岐の国に流されて、8年後の長寛2年8月26日(1164年9月14日)にかの地で亡くなっているんですね。崩御されたということです。死後に怨霊になったとされていまして、西行法師がそれを鎮めに乗り込んだなんて話があったような気がします。ともかく壮絶な人生ですから。怨霊の歌だと思って見ると、おどろおどろしいんですね。今手元にある『私の百人一首』(新潮選書)という本を見ると、これは白州正子さんの本なんでありますが、そこには「崇徳院の悲劇の一生を想う時、恋の歌に寄せて、『世に逢うこと』を切望されたのではあるまいか。緊迫した詞の烈しさに、私はそういうものを感じる」と言ってまして、純粋な恋の歌じゃないんだと主張しています。歴史的なその後の顛末から見て、ずっと前に詠まれた歌を解釈するという、荒業なんですが、ご本人は自覚があったのでしょうか。それもこれも、「末」という詞を、曖昧な未来を指す詞として、「いづれそのうち」などと理解しているところから生じるのではないでしょうか。「末」っていう言葉は、歴然とした結果みたいなものですからね、クーデターを起こした末に失敗した、のように因果関係があるんですね。滝川なら、すぐに合流いたします。流刑に処せられたけど、出来たら将来再会したいという解釈は、実は滑っていると申し上げました。


ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の われてすゑにも あはんとぞおもふ (久安百首・恋)


百人一首の歌は、実は元々が『久安百首』という崇徳院が主催した歌の催しに、自分で提出した歌です。この百首というのは、一人の歌人が出題にしたがって、季節の歌や恋の歌をまとめて百首詠んで、それを集めたもので、完成したのは久安6年(1150)のことですが、翌年に作った詞花集のための素材提供の催しのつもりだったのでしょう。つまり、崇徳院の歌だけで百首もあります。その中に恋の歌が二十首ありますが、そのひとつに過ぎないのが「われても」の歌です。もちろん、実体験の中で詠んだ歌ではありません。詠み方としては、いろんな恋の歌を構想する中で、川を比喩にして詠んでみようかと思いつき、山奥の谷川を想像して詠んでみた、ということです。


誰が改作したのか不明ですが、百人一首と同じ形に修正して、あるいは添削してもらって、それで詞花集に入れたというわけです。このもとの形を見ると、いろいろ分かって面白いところがあります。「ゆきなやみ」というのは、もはや恋心を表明する詞ですから、景色とはあんまり関係ありませんよね。川の流れが勢いを失ってちょろちょろ流れますので、いきなりしょぼくなってしまいますから、三句目に「谷川の」とあるのがうなづけます。この歌を見る限り、白州正子さんの言うような「世に逢うこと」を切望するなどという元気のよさはみじんもないわけです。緩やかな谷川の流れを、滝川にすりかえて激情を明白にしたのはもちろんですが、だとしても国家・天下の話には残念ながらならないのではありませんか。


二、三注釈書をめくってみますと、それぞれに有益な情報が載せられています。まず、面白いことを教えてくれたのが、『小倉百人一首新釈』(白楊社・昭和29年・1954年)という注釈書で、これは小高敏郎さんと犬養廉さんの共著ですけれども、上の久安百首の方が百人一首の「瀬を速み」よりも断然いいと言うことを、江戸時代の香川景樹が主張していると指摘しています。その要点は、滝川なんかじゃ水がすぐに落ち合って「末」って詞がおかしいと指摘していると言うんですね。ああ、なるほど、水勢が弱くないと成り立たないという指摘はごもっともでありますね。この辺は想像力の問題ですけれども、二つの形を突き付けたら、「末」という詞に多少の意味を込めるなら、久安百首の方も捨てがたいと言うことですが、香川景樹さんというのは幕末のアジテーターですから、断定するのが上手です。香川景樹(かがわかげき)は、明和5年(1768)から天保14年(1843)まで生きた江戸時代後期の歌人ですが、桂園派という流派をなして、明治時代の主流派の創始者です。犬養廉さんは大正11年(1922)うまれの研究者、シベリアに抑留されていたという経験があるはずです。お兄さんが万葉の犬養孝さんだそうですが、お兄さんは明治40年(1907)生まれと言いますから、年の差のあるご兄弟です。


まとめますと、特に「末に逢はむ」というのを、遠い将来に設定するのは間違いで、岩に阻まれた流れは岩場の下ですぐに一つになりますから、「今夜もよろしくね」というような、なかなか色っぽい歌なのであります。讃岐に流刑にされてしまいましたから、それとひっかけて壮大なロマンを空想してしまいそうですが、それはおそらく誤り。なぜなら、この歌が入っている『詞花集』という第六代勅撰和歌集は、崇徳院が下命して藤原顕輔に編纂させまして、保元の乱の5年も前に成立したものですから、そんなロマンとは無縁なのであります。『詞花集』の成立が、仁平元年(1151)のことで、保元の乱が起きたのが保元元年(1156)なのであります。ですから、「岩」というのは、政治的な敵であるとか流刑だとか、そういうものではなくて、昼間のお仕事とか、夜の宴会とか、その程度の差し障りのことと考えるべきですね。後で来るからね、待っていてね、ということです。 


さらに蛇足を付け加えます。三島由紀夫の小説『春の雪』というのは、三島由紀夫晩年の著作『豊饒の海』四部作の最初の作品ですが、これが映画化されたのが2005年のことです。主人公を妻夫木聡と竹内結子が演じましたが、その中に出て来る百人一首の歌が「瀬を速み」の歌ですけれども、前にも書いた通り原作は別の歌なのであります。制作陣が、あえて原作の歌を差し替えたのには、何か深いわけがあったことでしょう。ところで、誰も指摘しないのですが、「瀬を速み」の歌というのは、ひょっとすると『源氏物語』の中の夕霧と雲居雁の恋愛を示唆するところがあるのではないでしょうか。実は、三島由紀夫の『春の雪』の原作の人物設定というのは、夕霧と雲居雁の関係に非常に似ていまして、女性の方が年上で、その上男子が女子の家に預けられているという設定も、そのまんまなのであります。幼馴染の二人の関係に障害が生じるところもそっくりでありまして、さて、三島由紀夫の『春の雪』に関して、『源氏物語』の影響を語ることがあるのかどうか、耳にしたことはありませんが、探せばあるのかもしれません。ともかく、『源氏物語』の夕霧と雲居雁の恋愛と二人を隔てる障害の存在、そして最終的な恋愛の成就ということを考えると、崇徳院の「瀬を速み」の歌はそのまんまではないでしょうか。上坂信男氏は、この歌に関して、『新版百人一首・耽美の空間』(右文書院・2008年)で女三の宮と柏木の関係を示唆するものだと指摘していますけれども、「末に逢ふ」ということを考えたら、そっちじゃなくてこっちだよと提案したいと思います。『春の雪』の場合は、最後は悲恋に終わりますが、二人の逢瀬を考えると、崇徳院の歌はぴったり嵌り過ぎでありまして、三島由紀夫なら選ばなかったろうなと思います。

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