超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(76) 藤原忠通
わたの原漕ぎいでて見れば久方の雲居にまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣
(詞花、雑下、380)(今鏡五)
〔釈義〕
広々とした大海の原、その中に船を漕出して(陸地を遥かに離れた情況において、周囲を)見渡すと、(絶えず打寄せ打返す荒波に船は揺られているが、沖遠くなるに従い、白波は次第に動きも少くなり、茫洋たるそのはては乳色の空にそのまま融込み、空と海とは境目もなく一体となって、おお何と、)大空に雲の居るさまに紛れて区別のつかない沖辺の白波よ!(身はさながら天空の中を揺られて漂う思いがすることだ!)
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、詞花集の詞書に「新院位におはしましし時、海上遠望ということを詠ませ給ひけるに詠める」とあり、歌意は平明で題意の如く海上の壮大な眺望を詠んだものとされる。
② 諸註は契沖の説を取り入れて、沖に立つ白波など見える筈はないから、実際は水天髣髴という趣であるのを、雲と波で代表させたという合理的解釈をする。杜甫の七言律詩の「春水船如座天上」的に誇張した漢詩的な虚構の把握という見方もある。
③ 杜甫の詩の趣なら、揺蕩する白波がまがう白雲も揺動することになるが、「雲居」とは雲がじっとしていることを意味し、白波も揺蕩していては困る。
④ 水天髣髴と歌意をとる場合、「まがふ」は(1)空の雲居と沖の白波が紛れ合って区別がつかない、(2)沖の白波があたかも空の雲居の如くである、という二つの取り方になる。(1)ならば空には雲が立っていることになるが、(2)ならば空には雲がなくてもよい。「まがふ」にはどちらの用法もある。
⑤ 歌に詠まれる白波ないし沖つ白波は、現実の白波とはちがい、確かにその白さを実感した詠み方もあるが、夕日や月の光を受けて朱色・金色の様があり、夜の暗さの中で白さが感じられない場合もある。
⑥ 忠通の「わたの原」の歌の「沖つ白波」も、沖に白波の見える筈がないということでいぶかる必要などなく、単に沖に立つ海波と解しておけばよい。白波の歌で霞が詠み込まれた歌を検討すると、霞によって空と海が境界を失って混然と一つに融込んだ場面に眼目がある。忠通の歌も、霞を媒介として空と海が連続するのである。天と海とは連続してただ茫洋、沖辺の水波の連なりは天の白雲に紛うのである。天の涯には白雲があってもなくてもよく、あるとしても動かない煙る雲である。遠景としては乳色に煙る茫洋模糊たる水天髣髴の趣である。
⑦ 沖の白波の雲居に紛うことは、近くに立つ荒い波濤と対比されてのことであり、荒波に揺られる身は天上に漂うている感じがするという余情を生じる。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は忠通の家集『田多民治集』によれば、保延元年四月の内裏歌合で詠まれたもので、同じ「海上遠望」の題下に他の人々によってどのような歌が作られたか分からない。三十七年を経た承安二年の広田社歌合で「海上眺望」の題下に詠まれた歌を見ると、忠通の歌に影響を受けた歌が幾つか見つかる。
② 北村季吟の八代集抄には、「玄旨(細川幽斎)云、……歌のさまたけ有て、余情無限」とあるが、この評の意味するところは、運命の巡り合せとして好まざる海上の旅に余儀なくして出た(例えば配流、或いは使命を負うての渡航)のであり、沖を眺め見渡すのは何か慰めになるものを求めようとする行動であろう。漢詩文の例を探してみると、杜甫の岳陽楼詩などには大景に接してわが身の卑小さを思い、万里漂白の愁いを募らせるものがある。この歌では、悲愁も一方にあるものの、大局的には大景に没入し忘我の境に近付き悲愁を薄める結果をもたらしている。
③ この歌は、叙景歌であると同時に抒情歌でもあるが、純客観的な描写の手法をとっている。大海原と一葉の軽舟との対比がこもり、雲と波、空と海の対立・類比があり、永遠にして無限の存在である天地と束の間で有限の存在である人間との対比が潜んでいる。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の藤原忠通の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、契沖以来の沖の白波は見えないので、水天髣髴の様を詠んだのだとする説を検討しております。白波や沖の白波という表現のある古歌を分類し、必ずしも白いということにこだわる必要がないということを主張しまして、この歌に関しては天と海の連続する様を詠んだのであるということを結論としています。さらに、雲はあってもなくてもいいということも言っています。また〔鑑賞〕においては、漢詩文に同様の趣の句を紹介し、杜甫の岳陽楼詩などに見える、卑小な我が身と大海原の対比という趣とは違って、この歌では茫洋たる眺望に忘我の境地が感じられて、悲愁というような感情は薄いのだと言っています。この結論は、北村季吟が引用する幽斎の指摘を補強するものです。
著者の主張でよく分からないのは、この歌の前半の大海原に漕ぎ出した理由を、配所に流されるとか遠くに渡航することを前提にしていると考えまして、単なる叙景歌ではなくて抒情歌なのだと言うところでありまして、なるほど阿倍仲麻呂のように実際に船出して異国に辿り着いているというような境遇なら、これを羈旅の歌のように理解して抒情歌という結論もいいのでしょうけれど、院政期の歌壇で催された歌合の題詠ということを考えると、単なる叙景歌の域を過ぎないのではないかと思ったりいたします。山部赤人の「田子の浦に」の歌では、漕ぎ出した結果富士山を眺望するわけですが、ここはそれを「雲居にまがふ沖つ白波」を眺望するという趣向でありまして、その新しさが命なのではないかと感じます。これを抒情の歌だというのは、かなり無理があるような気がするんですが、いかがなものなのでしょうか。
それよりも、「雲居」にまがふ沖つ「白波」というような取り合わせは、詠まれた時には「空」と「海」の象徴だったのでしょうけれども、時が経ち、いろいろな歴史的な事件をやり過ごした跡では、別のニュアンスが生まれて、人々に微苦笑を与えたかもしれないんですが、そういう解釈はいけないのでありましょうか。「雲居」は、皇居とか天皇を指しまして、「白波」はもちろん盗賊を意味する物であります。月とスッポン、小判と木の葉くらい違うものですが、さて歌合を主催した新院の運命を考えると、ものすごい皮肉の歌に様変わりするように思います。
〔蛇足の蛇足〕
前に取り上げた北原白秋の評釈の訳を、元の和歌の表現に即したところだけを抜き出すと、「海上遥かに漕ぎ出して見ると、沖の白浪も雲のやうに見える」ということになるでしょうか。「まがふ」という表現のニュアンスを示すために、「海が果てもなく広々と続いて、大空と一つになつてゐる」と補足してあります。粉本とすることの多い二書を引用して比較してみましょう。
海上に舟を漕ぎだして、はるかに見わたせば、限なき大空のはてに、浪のたちつづきてひとつに見ゆる(佐佐木信綱『百人一首講義』)
海上へ船を漕ぎだして向こうを見れば、その海が果てもなく遠き故、雲のかかりてある空と一つにまがひて見ゆる沖の白波(尾崎雅嘉『百人一首一夕話』)
古注釈の解釈について、有吉保氏の『百人一首全訳注』(講談社学術文庫)が整理していまして、何と何が「まがふ」のかについて、どうも三つの解釈があるようです。
(1) 「雲」と「波」がひとつに「まがふ」
(2) 「空」と「波」がひとつに「まがふ」
(3) 「空」と「海」がひとつに「まがふ」
白秋の場合は、直訳部分が(1)ですが、補足で(3)を採用しています。信綱の場合は、(2)と判断してよさそうです。なぜかというと、信綱は「雲ゐは、雲のかかりゐるよしにて、やがてただ大空といはんが如し」と判断しているからです。これに対して、雅嘉は(2)ではありますが、「雲のかかりてある空」と言っているので、(1)の要素もあるような解釈です。三者が微妙に違っている点が面白いと思います。元の忠通の歌を改作して、現代語でも分かるようにすると次のようになるでしょうか。
大海原 漕ぎ出して見れば 大空の 雲かと見まがう 沖の白浪(粗忽改変)※下線部が改変したところ
こうして改変してみると、この改変では雲と波が見まがう状態ですから、(1)の説に沿った改変ということになるでしょう。空の彼方の水平線に生じている白い雲、それと見まがうような白波という、青い空と青い海の果てで、白雲と白波が区別がつきにくいということになるでしょう。(2)や(3)は、実は不可ではないかという気がいたします。そもそも、「まがふ」と表現している段階で、実は海の白波と空の雲は区別できているのであります。「見まがうほど似ている」ということは、結局「似てはいるが違うものだと識別できた」ということではないでしょうか。なお、著者の桑田明氏の解釈は、「沖つ白波」が「雲」のように見えるというものでありまして、微妙に有吉氏の分類からもそれているように見えます。
『詞花集』巻第十・雑下 380番
新院位におはしましし時、海上遠望といふことを詠ませ給ひけるに
詠める 法性寺入道前関白太政大臣
わたの原 漕ぎ出て見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波
空約束をしまして、基俊さんから「契りおきし」の歌を突き付けられたのが、今度の歌の作者でありまして、肩書きが長いんですけれども、藤原忠通さんというえらい人であります。この方も歌人ですから、基俊さんの歌をすぐさま理解して、あれこれ願いを叶えようと尽力したことでしょう。息子の光覚僧都は、おそらく維摩会の講師に加えられて、基俊さんは溜飲を下げたのではないでしょうか。この歌は、崇徳院の時代に内裏で催された歌合わせの時に詠んだ歌なのだそうですが、「海上遠望」という題で詠んだそうでありまして、実感でも何でもありません。平安時代の歌の作り方は、だいたい歌会で出された歌題に沿って詠む題詠でありまして、実感よりはそれまで詠まれた歌の中でのお約束事にかなうかどうかなのであります。
しかし、題詠にもかかわらずなのか、それとも題詠だからこそなのか、現代のコマーシャル・フィルムのような鮮やかさでありまして、見事な叙景歌なのであります。ヨットを操る屈強な若者が腕を組んでファイトイッパーツ!とか、初々しいアイドルが額の汗を拭って冷たい飲み物を飲んで初恋の味!とか、そういうCMの夏の部の背景にぴったりですね。歌の内部の季節は分かりませんが、初夏あるいは盛夏、湧き上がる入道雲なんかをバックに、旬の俳優さんや女優さんがヨットやボートで沖にこぎ出すさまが浮かびます。
久方に 漕ぎ出て見れば わたの原 ただ雲と波 ファイト一発(粗忽謹製)
白波を 漕ぎ分け見れば 積乱雲 二人きりなの 初恋の味(粗忽謹製)
ここでも、問題なのは「まがふ(紛ふ)」という動詞でありまして、「雲かと紛う白い波」と言うだけのことですが、遠くの雲と見分けの付かない波という、遠近法の混乱がテーマでありますね。そう言えば、「雲居」には「空・雲」のほかに宮中であるとか天皇という比喩がありますし、「白波」は、盗人のことを指しますね。ピンとキリが、似ているということかもしれません。ともかく、雲かと思ったら波で、波かと思ったら雲だったというような混乱ですが、目が慣れてくれば水平線も分かりますし、紛れたままにはならないことでしょう。空と海が一つに見えるというのは、水平線という存在を知らないことから生じる誤読ではないかと思います。
関白藤原忠通というこの作者は、保元の乱の勝利者でありますが、学者さんであり、詩歌に優れていて、字もうまいというような、優秀な文化人でもあります。時代は院政期という、上皇が最高権力を握った時代なんですが、この人は後白河院の側について勝利を収めた人であります。平安時代半ばと違って、摂関家の大臣も実力がないと駄目な時代ですから、和漢の学問に通じていた人が多いのであります。それが、複数いる上皇の誰かを担いで、同じ藤原氏同士でも熾烈に争うのであります。忠通は崇徳上皇とは敵になりまして、勝った後で讃岐に流したんですね。そうなるとは思わないで新院と呼ばれていた崇徳上皇の御前で詠んだ歌が、『百人一首』に採られた歌であります。冗談を言うと、上皇様かと思ったら、とんだ大盗人だったのね、というようなことなら、とんでもない皮肉として解釈してもいいのかもしれません。少なくとも、定家の頃にはその解釈には気付いていたかもしれないのであります。
気になるのは「わたの原」でありますが、11番参議篁の歌にもありまして、「大海原」を意味する言葉なんですが、何でもその語源はまったく不明なんだそうでありまして、だからなのか現在普通にはこの言葉は通じません。観光船に載っていわき沖の太平洋に出たことがありましたけれども、「わーい、わたの原だ」なんて誰一人口にしなかったと思います。「漕ぎ出(こぎいで)」というのは、「漕ぎ出づ」という動詞ですが、そのまま変化したら「こぎでる」のはずですが、いまは「漕ぎ出す」ということばがありまして、微妙な違和感が存します。「漕いで外海に出てみる」というような感じでしょうか。貴族は自分では船を漕いだりしないでしょうけれども、京都の上級貴族は海が好きでありまして、こういうのが好まれたんですね。
こうしてみると、「漕ぎ出る」とか「まがふ」とか、今でもありそうな動詞が微妙に現代では通じないのであります。 「まがふ」が、実体のある二つの異物が紛れるのか、それとも実体のある物が、その場にない実体のない物に紛れてしまうのか、非常に紛らわしいわけで、著者の桑田明氏の指摘は、案外盲点をついていて面白いものなのであります。
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