超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(73) 大江匡房
高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞たたずもあらなむ 前中納言匡房
(後拾遺、春上、120)
〔釈義〕
(おお、遥かに望めば、)仙山高砂の山上の桜は(、既に咲いている外山に続いて、待ちかねた奥山もとうとう)咲いてしまったことだ。それで、(願わくは心ゆくまでこの山全体の花盛りが見たい。だのに、外山にはまたもや霞が立って残花を見えなくしており、次第にそれが奥山にも及んでゆくのではないかと心配だ。どうぞ、奥山の雲や霞は勿論、)外山の霞だって(ここしばらくは)立たないことででもあってほしいなあ。
〔義趣討究〕
① この歌は、後拾遺集の詞書には、「内のおほいまうちぎみの家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山桜を望むという心をよめる」とある。
② 北村季吟の八代集抄には、「童蒙抄云、高砂とは山の惣名也。本文に石砂長成成山といへり。播磨の高砂にはあらず。……玄旨云、高砂といひ出したる事、高山をさして云也。花の咲たるを、さだかにみんために外山に霞も立つぞといふ也。是遠山を望むといふ心にかなへり。」と試釈している。高砂を単に高山をさすと解し、玄旨(細川幽斎)は外山の霞を擬人化し、霞も尾上の桜を見ようとして立つのを、霞は立ってくれるなと要求している趣になる。
③ 今日の諸家も、高砂を播磨の名所高砂とは見ず、単に高山を指すと解しているが、玄旨のような霞が桜を見ようとするとまでは穿たず、単に霞が立って人の目を妨げるのを禁止する意味にとっている。勅撰集の歌には、花を隠すものには霞の外に雲もあり、匡房の歌でも霞が花を隠す可能性があるようなきがするが、霞が花見をするのも肯定しかねる。また、私家集の歌などを見ると、尾上の花を詠んだ高砂は名所高砂を意味する面がある。
④ 勅撰集や私家集を見ると、「み吉野」「信楽」「葛城」等の山名はそれぞれ連山の総名であり、その中に奥山(奥・深き峯・み山)と外山が含まれる。また、尾上を詠んだ歌を見るとき、「尾上」に冠する「○○(の)」の○○は皆固有名詞としての山名である。匡房の歌の「高砂」は固有名詞であり、それは連山の総名であって、その中に奥山と外山との別が見いだされると解し得る。
⑤ 固有名詞として使われた「高砂」の例を検討すると、いずれも播磨の名所と見得る歌例を見出すことができるが、同じ匡房の歌に「高砂の尾上の鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ」(千載集397)という歌があり、これは唐土の豊山の鐘であり、「高砂」を播磨の名所と判断するのに都合が悪い。
⑥ 「高砂」を語源から考えて見ると砂丘のような意であったが、往時は加古川口の一島嶼であったものが、イメージが美化されてゆくうちに海辺の高山となり、春は桜、秋は紅葉、秋萩にともなって鹿の声も加わり、末も長生の松として仙境の風格を増大させたものである。匡房の豊山の鐘を高砂の鐘とした詠出は、豊山→仙境→高砂という変容をなした表現と見たい。
⑦ 匡房の問題の歌においては、仙山高砂の桜は、外山は勿論奥山の山上も花が咲いた、それで奥山の雲や霞は勿論、外山の霞も立たずにほしいという意である。一方また、奥山の桜が咲いたのに、外山は霞が立って残花を隠しており、次第に霞が奥山に及ぼうかと心配で、どうぞ外山の霞よ立たないでいてほしい、という意味もとれる。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、題詠として遥かに山桜を望む心を具体化するに当り、まず仙山高砂を舞台として選んだ。その上に霞を配することによって、王朝的なおぼろになまめかしい美しさが出て来る。そして、その霞を近景として、遠景の奥山と対照させて構成したのである。
② 「遥かに望む」の「遥か」は、単に空間的の意味だけでなく、時間的な意味、永遠の意味をもって来るであろう。舞台を仙山高砂に選んだことは、こうした永遠の憧れを具体化するのにふさわしい。
③ この歌は、山全体の自然現象の情況も、人の心の動く情況もありありと見えて来て、味わえば味わうほど深みが出て来る。諸家によって長高き歌だと評されているが、同時に有心の歌だと思える。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の大江匡房の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、古来問題となっていた「高砂」が播磨の名所なのか、単なる普通名詞なのかという問題に関して、「高砂の尾上」という表現に着目し、「尾上」の上に来るのは固有名詞の山名であると結論付けています。さらに、匡房の歌に唐土の豊山を詠んだものがあり、そこに「高砂の尾上の鐘の」という表現があることを問題視し、播磨の国の「高砂」との整合性を図るために、著者は加古川口にあった小島から、高砂がイメージ化されて仙山となったのではないかと推察し、唐土の豊山も仙境と捉えて高砂と詠んだのではないかと考えたようです。
富士山や筑波山、香具山、三笠山、三室山、そして有馬山など歌に詠まれた山名というのは、詠者のリアルな体験による現実の姿を詠み込んであるのかというと、実はそうではないわけで、多かれ少なかれ長い歴史の中でイメージ化されたもののはずです。そう考えると、著者が播磨の国の高砂について仙山のイメージ化されたものだという指摘は、むしろ言わずもがな、当然のことを言語化したようにも感じられるわけです。むしろ、これまでの注釈書が、この歌の「高砂の尾上」を普通名詞であると主張することの方が異常でありまして、だったら簡単に「奥山の尾上の」と言えばすむことだったのではないかとすら感じてしまします。著者の主張が果たして正しいのかという判断は留保するとして、普通名詞だとして受け入れるとして、じゃあ現代ではその辺の高い山を「高砂」と呼ばないのは何故なのかと、逆に問い詰めてみたい気がいたします。
それにしても、詞書にある「内のおほいまうちぎみの家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに」という部分について、歌との関連を著者がまったく気に掛けていないのが不思議な気がいたします。つまり、「高砂」が播磨の歌枕か普通名詞かという議論よりも、「高砂の尾上の桜」が酒を提供している内大臣の比喩であり、「外山のかすみ」が酒宴に参列している人々の比喩ではないかというのは、多少なりとも検討する必要があることでしょう。内大臣を持ち上げる意図があれば、おのずから例えに使う歌枕は限定が加わるでしょうから、「高砂の尾上の」というような歌枕が撰ばれたことに意味があったと思うのであります。
〔蛇足の蛇足〕
作者は大江匡衡の曾孫なんだそうでありまして、だとすると赤染衛門の曾孫でもあるのでしょうか。ものすごい学者でありますが、歌人としてもたくさん歌を詠んで、勅撰集にもばりばり入った人なのであります。分からないところはない歌でありますが、これを見て今感動できるかというと、さほどでもないような気がいたします。しかしながら、たとえば北原白秋の評釈を見ると、「自然に向つてのべた美しい歌で少しの厭味もなく軽い調子で歌はれてゐる」と高評価でありまして、自然を見てその美しさをスケッチした点を嫌味がないと褒めているのです。自然を詠んだ歌と言う点がひっかかります。
問題になるのは、五句目すなわち末句の「なむ」でありまして、これはダメ元で相手にお願いする終助詞であります。つまり、桜が咲く頃には、周囲の山々に霞が立ち上りますから、お願いしても駄目なんでありまして、霞のせいでせっかくの桜が見えなくなると言うことなのであります。これは、そういう体験を重ねた人が、この歌を歌いますと気分いいと言いますか、共感する歌なのであります。あくまでも現実が先にあり、それを言葉で押さえているわけで、その押さえ方がうまいと言うことですね。大臣の邸で酒を飲みまして、それから「遙望山桜」という題で詠んだ歌なのだそうですが、適度にアルコールが入って、大胆な歌が飛び出したということでしょうか。これを、四角四面の学者肌の歌だと評する人もいるんですが、さて、どうしてそんなふうに感じてしまうんでしょうか。そっちのほうが四角四面だなと、思ってしまします。
さて、この歌の前三首ついて、妙なことを言って来ましたが、おさらいすると「秋の歌」が実は恋の情趣を裏に含んでいたり、「恋の歌」が実は海岸の風景というか、旅先の歌というか、そういう道具立てであったり、というようなことを指摘しました。この匡房さんの歌は、単純な桜の歌なのでありましょうか。歌われた場を見たら、そうじゃない可能性の方が高いのであります。たぶん。例の『百人一首』61番にあった伊勢大輔の「いにしへの」の歌だって、宮廷の場を舞台に、栄華に酔いしれている権力者の気分を汲んだ歌だったわけですから。
角川ソフィア文庫の『百人一首(全)』(谷知子さん編)が、酒席で主人を寿いでいる歌であるという指摘をしておりまして、それが大手柄なのではないでしょうか。山のてっぺんで咲いている桜というのは、宴の主人である内大臣藤原師通の比喩でありまして、それでいいと思います。ここからは、私の憶測を言うならば、周辺の山々の霞というのが、招かれた大江匡房を含む支持者たちでありまして、「立たずもあらなむ」というのは、帰らないで欲しい、腰を落ち着けて飲もうではありませんか、と呼びかけたのでありましょう。この憶測は、ひょっとすると大手柄でありまして、「桜」を栄花を極めている人にたとえるのは、61番伊勢大輔の「いにしへの」の歌でも感じ取れるわけでありまして、それに家来というか、追従する人たちを加えて嫌みなくまとめたところに手腕があるわけですね。
後拾遺集・巻一春上・120番
内のおほいまうちぎみの家にて、人々酒たうべて歌よみ
侍りけるに、遥かに山桜を望むという心をよめる 大江匡房朝臣
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
師通の 内大臣は のび盛り われら取り巻き 囲んで飲まなむ(粗忽謹製)
まあ、要するに、こんな歌を見て純粋な季節の歌などというのは、注釈する方々の妄想でありましょう。めちゃめちゃお追従の恥ずかしい内容を、春の桜の歌として仕立て上げたわけで、昔神童で、今は実務官僚の秀才であった匡房であれば、これくらいの内容は簡単だったということなんですね。これを「自然に向かってのべた美しい歌」とか「学者の歌」とか、そういうふうに切り捨てるのは非常に不思議です。むしろ、交際術にたけたこなれた人物の宴会芸であるとか、さらには、平安時代後期院政期の、歌を巡るなまなましい現実を垣間見させる歌であるとか、そんなふうに指摘すべきものだと思います。
お暇なら、世間の注釈書というものをご覧いただきたいのですが、宴会芸だとかお追従の歌だとか、そういう指摘はほぼありません。香川景樹の『百首異見』は、これは題詠に過ぎなくて実景じゃないというようなことを江戸時代の終りに言っていたようですが、突っ込みどころはそこじゃないのであります。この歌は、題詠するのをよい機会と捉えて、師通のもとにはせ参じている官僚を、この際派閥化しようと企む歌でありまして、政治的な感覚にたけた人の歌でありましょう。季節の歌は実景を詠むのが一番だなどという評価は、はっきり言ってどうでもよいことではないかとおもうのです。香川景樹ほどの人でも、まさか四季の歌が、権力者におもねるようないかにも宮廷の場の産物であったことを見落とすというところに、江戸時代に発生して近代に辿り着いた国学の限界をまざまざと感じさせるというと、いい過ぎなのでありましょうか。応仁の乱のあたりで王朝文化の命脈は尽きまして、古今伝授などで生き延びようとしていたものが、あっさりと国学の勃興によって葬り去れてしまったという図が浮かぶのであります。その結果、百人一首の歌の多くが意味の分からない歌として認知されまして、分らないのをいいことに変な講釈がはびこってしまったのでありましょう。やれやれ、でございます。
題の遥かに望むといふにかかはりて、実景を忘れられしものか。此の卿の歌にはさしも秀逸の多きを、中にも此の歌を出だせるは撰者のあやまちなり。(香川景樹『百首異見』)
コメント
コメントを投稿