超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(69) 能因法師

嵐ふくみむろの山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり       能因法師

      (後拾遺、秋下、366)


〔釈義〕

(強い山風が吹きおろすままに、山の黄色く紅く色づいた木々の葉が散り乱れ舞い下る。ここはあの神の宿り給うといわれる神奈備の三室の山であるが、さすがに聖地たる三室山のもみじ葉は、やがて山の麓を流れる竜田川に絶えず散り込んでは川面を埋め浮び流れて、いわゆる竜田川の錦を織成している。ああ)強い山風の吹きおろす三室の山の紅葉は、そのまま転じて竜田の川の紅葉の錦だったのだ!


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、後拾遺集の詞書に「永承四年内裏歌合によめる」とあって、作者晩年盛儀に列しての力作であったことがわかる。宗祇は「ありありとよみ出て其身粉骨なり。これまことに上古の正風体なるべし」といい、北村季吟八代集抄にも「師説、此歌は嵐ふく三室の山のといひて、紅葉の散て流くる風情を持せたる、能因の粉骨なるべし」とあって、古人は高く評価していた。

② 「○○は△△なりけり」という言い方の歌例の中に、次の二つの例がある。「山田もる秋の仮庵におく露はいなおほせ鳥の涙なりけり」(古今集306)などを(1)とするとこれらでは、○○が現じた体または幻像であるのに対して、△△は実体である。これに対して、「秋風に散るもみぢ葉は女郎花宿におりしく錦なりけり」(後撰集410)などを(2)とするとこれらでは、「○○はそのまま転じて△△(と見るもの)だったのだ」の意で、○○は実体、△△は幻体である。

③ 一般に「AはBなり」という時、倫理学でいう命題としては、Bは類概念で、「AはB中の一員なり」の意味をあらわすと考えるのが常識だが、本来はそうではないと思われる。「にあり→なり」は「の位置を占めて存在する→に相当する」の意で、「AはBなり」はAとBとの同一性を立言する。(1)の場合は、現じた体ないし幻体からその実体そのものを見出す。(2)の場合は、実体からそのもたらす幻体を全体的に把握する。

④ 「〇〇は△△なりけり」という表現は、発見の驚きをうたったものである。(1)では、二つの意味対象の同一性の観収が歌の生命であるが、(2)では実体と幻体が融合しており、二者間の心の逍遥を楽しむ趣である。

⑤ 能因の「嵐ふく」の歌は、明瞭に(2)に属する。この歌はただ観念的に三室山の紅葉と竜田川の錦との同一性を観じたのではなく、三室山の紅葉の嵐に散る相、散って竜田川に落ち下る相、絶えず隙間なく紅葉を浮べて錦の帯のイメージをもたらしてくれる竜田川の相を、一連の者として大観した感動をうたったものである。

⑥ 内裏歌合においてこの歌に組み合わされた相手方の歌は「散りまがふ嵐の山のもみぢ葉は麓の里の秋にざりける」であったことから、題は「秋山落葉」であったろうか。作者は題意にかなう素材として歌枕の三室山を選び、「竜田川もみぢ葉流る神なびのみむろの山に時雨降るらし」(古今集284)「竜田川紅葉乱れて流るめり渉らば錦中や絶えなむ」(古今集283)「神なびのみむろの山を秋ゆけば錦たちきる心地こそすれ」(古今集296)のような先蹤歌を踏まえ、三室山の紅葉乱飛、竜田川の錦帯清流という二大場面の統一を企図した。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、二句目に「みむろのやまの」とあることによって、マ行連音「みむ」が後続部分の「ま」「もみ」に連なり、ラ行音の「ろ」が初句の「ら」に応ずることで、絶妙の音調をなしている。擬音語として、山の木々の梢のざわめき、落葉の触れあう音を写しているかのような効果も生じる。

② 下の句は、タ行音やカ行音の強く硬質な音続きは、イメージを重厚にして鮮明なものにしている。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の能因法師の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分を今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕では、能因の歌が「もみぢ葉は錦なりけり」という表現ですから、「○○は△△なりけり」という類型を取り上げまして、その中から〇〇を現じた体または幻体、これに対して△△を実体とする歌群と、〇〇に実体が先に来て、後から△△に幻体が出て来る歌群とを抽出しまして、能因法師の歌は後者であると断定しております。なるほど、紅葉というのはこの歌における唯一の実態でありまして、歌の焦点となる物体であります。それに対して、錦というのは本来はカラフルな糸で模様を描き出すことのできた織物でありますから、比喩的な言い方でありまして、著者によればこれが「現じた体」もしくは「幻体」というものなのであります。そして著者の主張は、こうした「実体は幻体なりけり」という表現の場合、二者の間を我々は逍遥するのでありまして、紅葉を錦と認識したり、思い浮かべた錦をなるほど紅葉だったなあと認識し直したりするという仕掛けがこの言い回しの特徴となるそうです。


ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 から紅に 水くくるとは(『百人一首』17番 在原業平)

このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに(『百人一首』24番 菅原道真)

山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり(『百人一首』32番 春道列樹)


能因法師の「嵐吹く」の歌と素材を同じくする歌を、先行する百人一首の歌から取り上げて見ますと、これまでの三首の歌が非常にひねくれた歌だということがよく分かります。業平の歌は、三室山を山姫が秋色に染め上げるということを前提に、竜田川が紅に染め上げられることは聞いたことがないと言っているのであります(前提の部分は、私の私説でございます)。また、道真の歌は紅葉の錦を幣として手向けますとしゃれております(紅葉を幣として手向けるというのは、これも私の勝手な私説でございます)。そして、列樹の歌は、「○○は△△なりけり」という表現構造が能因法師と共通しますが、実体の紅葉が△△に出て来ると言う点で、能因法師と対照的です(しがらみと紅葉を作者が巧妙に入れ替えているはずだということを以前指摘しました)。こうしてみる限り、能因法師は、著者が挙げている割と素朴な先蹤歌や、それに対してかなり癖のある業平・道真・列樹の歌などを充分視野において、山の樹木を飾る紅葉が、水面を彩る落葉となっている点を、一首の中でしっかりと表現したことがわかります。


何となく思いますのは、生活に根差して眼前の素材を定型表現(五七五七七)に詠んでいたのが『万葉集』だとすると、何らかの知的な操作を加えて宮廷生活を潤す遊戯として詠んでいたのが三代集の時代だったというような、雑ではありますがそういう変遷があったと思います。これに対して、季節の歌を出来る限り洗練させて写実的な屏風絵にするとか、さらには脳内で動画として感知されるような映像美に高める方向がありまして、これが結実するのは『新古今集』の時代なのでありましょう。その先駆けになるような特徴が能因法師の歌には感じられまして、これが永承四年(1049)の内裏歌合において、彼の歌が評判を取った理由だと思います。歴史物語の『今鏡』のはじめのあたりに、能因法師のこの時の歌を誉めているのは、百年くらい後の『今鏡』製作者の頃にも、納得の名作だった証しだということなのでしょう。


なお、いつもは〔鑑賞〕に出て来る音調面の分析については、今回は取り上げました。というか、〔鑑賞〕のところに音調面の分析しかなかったので、載せざるを得なかったということです。


〔蛇足の蛇足〕

以前取り上げた北原白秋の『小倉百人一首評釈』の句意のところに、次のような指摘がありまして、驚いたものでした。


宇比麻奈備に「龍田川は龍田の麓に流れ平群郡で高市郡より遥に西北に当りて、川の流さへ異なれば、三室山のもみぢこれに流るべきにあらず、古へも地理によく考へられざりけるにやおぼつかなし」とある。多分内裏の歌合であるから地理の事よりも歌の調子ばかり考へて晴れの舞台を飾つたものであらう。


賀茂真淵は『宇比麻奈備』において、三室山を「大和国高市郡にある山」と説明しておりますが、現在は注釈書の多くに「奈良県生駒郡斑鳩町にある山」と説明されています。「龍田川」も同じ町内を流れる川です。その結果、「三室山」と「龍田川」は同地域であり、『宇比麻奈備』の疑問は臆説として退けてよいと思います。この句意の説明は白秋の粉本である佐佐木信綱『百人一首講義』ならびに、さらにその粉本である尾崎雅嘉『百人一首一夕話』に沿ったものです。なお、平群郡は、明治13年(1880)に発足し、明治30年(1897)に生駒郡となって廃止されました。高市郡は奈良盆地南東部にあった郡で、今の橿原市周辺と考えてよいと思います。奈良盆地北西部の平群郡や生駒郡とは遠くへだったっておりますが、実は高市郡は大和川の上流域に当り、生駒郡は大和川の下流域に当たります(なんとつながってはいるのであります)ので、現代では『宇比麻奈備』の記述全体が矛盾していて誤ったものだと言えるでしょう。実は、昭和30年代の百人一首の注釈書では、三室山を高市郡とする説と平群郡とする説がもみ合っておりまして、能因法師の歌を、嘘っぱちで詠んだ机上の作として罵倒するほうが一般的だったのであります。


その原因を作ったのは、実は江戸時代初めに国学成立のきっかけを作った契沖でありまして、契沖はどうしたことか、この能因法師の歌の三室山を、平群郡からはるかに遠い高市郡の山だと言って、能因法師に対して容赦がなかったのであります。


龍田川は立田山のふもとにながれて平群郡なれば、高市郡よりこと郡をも隔て遥に西北にあたりて河のながれさへことなれば、みむろの山のもみぢこれにながるべきにあらず。いにしへも地理をよく考へられざるや、おぼつかなし。

   (契沖『百人一首改観抄』下)


契沖は、寛永17年(1640)に生まれた江戸時代初期の人物でありまして、母方は肥後熊本の細川家に縁のある人だったりするんですが、父方は近江の国に縁があり、摂津で生まれて大阪周辺で僧侶となりまして、和泉の国で学問を研鑽して、晩年に多くの著作をものした人であります。元禄14年(1701)に62歳で亡くなっておりますから、ほぼ松尾芭蕉の同時代人なのであります。気になるのは、契沖の経歴を見る限り、能因法師の詠んだ三室山や竜田川は生活圏のはずでありまして、ちょっと足を延ばせば検証するくらい簡単だったのに、万葉集に出て来る高市郡の三室山(三諸山)と完全に取り違えているのであります。


三室山は龍田の川上に有り、ともに大和の名所なり。人丸の歌に、

   龍田川 もみぢ葉ながる 神なびの 三室の山に 時雨降るらん

此の歌を本歌として詠めり。能因の歌には、散るともながるとも、言葉はなうして、散りながるる風情あり。景気と所のさまとを思ひあはせて見侍るべし。能因の歌の風、つくろひかざる事なく、眼前の景気心に有る事を、そのままやすく云ひ出せるなり。

   (戸田茂睡『百人一首雑談』元禄五年1692年)


契沖の同時代人であった戸田茂睡は、寛永6年(1629)生まれの人物ですが、徳川家の家督相続に絡んで、親と一緒に駿河から下野の黒羽に移るという辛酸をなめた人物ですが、彼も国学者の一人と言われる人物で、後半生は江戸で過ごし宝永3年(1706)に78歳で亡くなっております。引用した部分を見ると、近畿地方に縁がなかったと思われる戸田茂睡の方が、能因法師の三室山に関しては正確な知識を有していたようであります。実はごく近年発行されている研究書の中にも、契沖説をそのまま鵜呑みにしているらしい記述を発見しまして、びっくりいたしました。


能因法師の歌にある龍田川は、生駒山地から流れ出て、大和の国北部を南流する河川です。これが奈良盆地を東から西へ流れている大和川と合流し、最終的に大阪湾にそそぐ川となります。なお、紅葉の名所とされた龍田川は、大和川と合流してから大阪府と奈良県の境界付近までと指摘されているようです。


それに対して、三室山というのは、奈良県斑鳩町にある山ですが、標高はわずかに82メートルに過ぎません。海抜で82メートルですから、実は周囲との高低差はもっと少ないというか、ちょっとした小山です。龍田川と大和川の合流地点にほど近いところにあるので、白秋が句意のところで紹介している賀茂真淵の『宇比麻奈備』の疑惑は、現在から見ると非常に不思議なものなのです。現在は、紅葉の名所と言うよりも桜の名所のようですが、その丘を「三室山」と認定したのは案外最近なんだそうで、名所などと言うものはそんなものであります。あの白河の関だって、本当はどこにあるか不明で、松平定信がここでいいよと言ったところが現在の白河の関なのであります。定信が白河の関を認定する以前に当地を奥の細道の旅で訪れた松尾芭蕉は、現地の住民に話を聞いてどこだどこだと右往左往していたことが、曾良の旅日記に記されております。


能因法師というと、真っ先に浮かぶのは、この三室山・竜田川の歌ではなくて違う歌であります。それがなんと、所在不明かも知れない白河の関を詠んだ「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」という歌でありまして、こういう有名な歌を採らなかったために、和歌の専門家は『百人一首』の撰歌についてあれこれ考えるようなのでありますが、結論は凡庸な歌をふすまに映えるから選んだとするようですね。たしかに、都と白河(陸奥)では、一枚のふすまに収まりきらないところがありますから、三室山と龍田川に色とりどりの紅葉を描く方が映えますね。「あらし吹く」の歌は、『百人一首』の古注釈では評価が高いのですが、契沖の難癖が効果を発揮して近代になるとまったく人気がなくて、「内容のない作り物の歌だ」とまで断定する向きもあるようです。


和歌というものが、宮廷における晴れの場で披露されるという条件が分からないと、この歌を評価するのは難しいことでしょう。個人の感慨を吐露する近代短歌というような呪縛の中で創作活動をしていたら、「あらし吹く」の歌を評価するような見方は出来ないことかと思います。伝統的な歌枕を歌の中に据えて、『古今集』を範とする言葉遣いの範囲を守り、それでも新しい趣向を取り入れるというような創作ですから、平安後期に差し掛かってこれだけ素朴に見える歌を詠むほうがすごいということになるのでしょう。実は、近代短歌だって歴史が積もれば同じような状況になるわけで、『古今集』や『百人一首』をつまらないというのは簡単ですが、知らないからつまらないだけということは、しばしばあることかと思います。


この能因という人は、歌の詠み方を先生から習った、日本初の人物なんであります。京都の町を車で行く時に車が壊れまして、ふと見るとそこに藤原長能さんのお宅があるもんですから、入っていってお弟子にして下さいと頼んだというのであります。生徒が先で、先生が後なんであります。その藤原長能さんというのは、たしか『蜻蛉日記』の作者藤原倫寧女の弟さんではなかったかと思います。


私たちが和歌を修得する場所というのは、ある意味教室の国語の授業だったりするんであります。近年は、暗記の材料として『百人一首』を小学生などに暗誦させるのが習いですから、表向きは伝統的な文学に触れるとか何とかうまいことは申しますが、実はあとで受験の時に楽させようというような、ある意味不純な、そっちサイドの人から見ればまことに純粋な裏の狙いがあるわけです。平安時代の場合は、やはり秀歌を詠んで歌人と認められたいとか、勅撰和歌集に入集して一目置かれたい、というような目的がありますから、こちらも不純でありますけれども、もちろん立場を換えれば純粋でもあるわけです。能因法師は、そうした社会の中で和歌に熱中することに全力を挙げた歌人ですから、ある意味和歌マニア、熱中人、和歌オタク、これを当時の言葉で言えば「数寄の人(すきのひと)」などと称するものであります。体よく言えば「風流な人」ってことですね。


山のもみじが、川に流れて錦となるというのは単純なんですけれども、現実を知っている貴族たちでありますから、実景を目の当たりにした経験が後押しして感動を生むのでありましょう。ましてや、百首歌などを求められてたくさんの定型和歌を作ろうとした歌人は、首尾呼応したうまさに脱帽するんでありましょうか。まるで『万葉集』のような素朴さが、ある意味『百人一首』に採用された能因の歌の凄みかも知れません。戸田茂睡は、次の本歌と目される歌を人麿の歌だと言っていますが、実際には詠み人知らずの歌でした。能因は、「時雨」を「嵐」に差し替えて、龍田川の紅葉を「錦」だと見立てただけですが、「らし」という推定の助動詞で時雨を想像することで終わっている『古今集』のなんだかぼんやりした歌を、きりりとエッジの効いた風景画にして、そればかりか絢爛豪華な色彩の乱舞する動画的な世界に変換したのは、やはり凄腕なんだと思います。


龍田川 もみぢ葉流る 神なびの 三室の山は 時雨降るらし

   (『古今集』巻第五・秋下 284番 詠み人知らず) 

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