超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(68) 三条天皇

心にもあらで憂世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな       三条院

       (後拾遺、雑一、861)(栄華、玉の村菊)


〔釈義〕

(病気は重いし、世の中の事はすべて思うに任せず、もはやこの憂世に望みはないので、早くあの世へ行きたい。しかし考えてみれば、今までがすべて心にも任せない事ばかりであった私には、これからもまた心に任せぬことが続くであろうと予想される。それで、私はやがて帝位を退くが、退位の後も私は)思うにも任せぬ状態で憂世に生き長らえる事になる(であろうと思われる。そうなる)としたら、(―今夜の月は、何という明さであろう。夜更けて皎々と冴え渡る月、視力の近頃頓に衰えて来た私だが、今まで宮中において見た月色も、今夜のように美しいのは稀だったと感じられる。ああ、間近く宮中を去ろうとする私、そして憂世に生き長らえればやがて目は見えなくなるでもあろう私にとって、今夜ここで見るこの月は、きっと)恋しい思い出(の月)となるにちがいない(、そうした今夜の)夜半の月であることよなあ!


〔釈義〕の要旨

(退位の後)思うにも任せぬ状態で憂世に生き長らえる事になるとしたら、(間近く宮中を去ろうとする私、そして目は見えなくなる私に)恋しい思い出となるにちがいない夜半の月であることよなあ!


〔義趣討究〕の要旨

① 後拾遺集の詞書には「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、月のあかかりけるを御覧じて」とあり、栄華物語には「師走の十余日の月いみじう明きに、上の御局にて、宮の御前に申させ給ふ」とある。諸資料によって、三条帝は御多病で、殊に眼病を患っておられたこと、御譲位は御病気という理由もあったが、実は関白道長の政治的圧迫によるものであったことが明かである。

② 「心にもあらで」を勅撰集の例などを参考にして検討すると、その事態の生起・存在はただ思いがけないという場合もあるが、そこに生起し存在する事態が厭わしいもので、出来得るならば避けたいと願う場合もある。この歌では、憂世に長らえ住む事態は厭わしいと考えられる。

③ 憂世に住み長らえることが厭わしいのは、政治的圧迫を受けられたことが最大で、内裡の二度の焼失や御病苦が重なって、人生・世間に絶望された故であろう。

④ こうした帝にとって、御心の慰めになるものは、月や雪・花といった自然の美しさであったが、やがて御目は見えなくなる。ここに救われようにない悲劇が生じている。当夜の月は、正に帝にとって禁中最後の思い出の月であり、生涯見納めの月でもあった。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌の心は悲愁極まりないが、今夜の明るい月には一点の救いがあり、これを恋慕うことが僅かに心の支えとなって生きて行ける。

② この歌にあらわれた将来の状態は、「恋しかるべき夜半の月」の現在とは対蹠的に索漠たる状態で、そこには月も見られないものであると暗示されており、作者の陥る暗い境涯が髣髴される。また「恋しかるべき夜半の月かな」には、悲惨な情況において回想した過去のよき状態という朧化され美化された世界を、現実の上に重ね合わせて見ることがイメージされる。

③ この歌の詞は、宮中とか譲位とか眼病とかいった具体的な物事を何にも示さずして、それを匂わせ、物語的内容を展開し劇的な場面を見せる、不思議な働きをなしている。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の三条天皇の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、「心にもあらで」という表現を分析して、この世に長らえる事が厭わしいというニュアンスであることを明らかにするとともに、その理由として、政治的圧迫、内裏の二度の焼失、目が見えないという病苦などによる絶望を指摘しています。これらの理由は、歌ではなくて諸資料による情報でありますが、従来から指摘されていたことを確認したものです。また、眼前の夜半の月が、失明の可能性が高い故に、禁中最後の月であり、生涯最後の月だということも指摘しています。〔鑑賞〕においては、将来回想される記憶の中の今夜の月と、眼前の月が重ね合わされているという指摘がありまして、この歌の最も肝心なところを絶妙に解説していると思います。ただ、歌の内容が、三条天皇の生涯を知らないと実はさっぱりわからないという弱点がありますけれども、著者はこの点に関しては肯定的で、特に歌の内容が不明瞭であるというような見方はしておりません。


考えて見ると、上の句は仮定条件によって未来の不本意な余生の予測を表現しておりまして、下の句がその未来から見た現在の月に対する感想でありまして、この歌は一風変わった視点で詠まれていることがわかります。未来の自分はみじめな境遇であり、現在見ている月は恋しいものとして回想されると予測しているわけですが、では、現在の自分の境遇はどうなのかと言えば、これもまたみじめなものであることを匂わせます。つまり、三条天皇の人生は長期低落傾向にあって、沈滞に沈滞を続けてゆくと本人は感じていて、それを少しも疑っていないのであります。だとすると、今眺めている月は、けっして美しいと鑑賞されている好ましいものではないかもしれないのでありまして、過去において皇子とか皇太子だった時代もみじめで、月は味気ないものでありますが、それでも現在から見たらまだましな月であった、などと言うことかもしれません。現代でいうと、これはもう鬱の症状でありまして、三条天皇の人生を栄華物語や大鏡をもとに考察するなら、そういう気の毒な天皇の鬱状態の歌なのでありましょう。


しかしながら、院政期に書かれた大鏡と言うことを考えると、過剰に道長の政治的圧迫を強調するわけで、目の見えない三条天皇が気の毒に見えるように書くわけです。同じようなことは王政復古した後の明治時代以降の近代の研究者は、摂関期の藤原氏が横暴で、皇族はその被害者であるというような叙述が強くなる点については注意が必要かもしれません。栄華物語では実は三条天皇の眼病については全く触れないのでありまして、それは栄華物語の作者が源氏物語の若菜の巻を参考にして、三条天皇の皇女の頼通への降嫁の話を語ったためだということを松村博司氏が指摘しております。三条天皇の眼病については、藤原実資の小右記が詳しく記しておりますので全くの事実なんですが、眼病に触れると道長の政治的な圧迫の話になってしまうので、源氏物語の女三の宮の降嫁の話を下敷きにしたのは理にかなっているそうです。栄華物語作者は、道長の周辺の人物ですから、道長を悪く言わないのであります。


〔蛇足の蛇足〕

著者の桑田明氏は、〔釈義〕のなかで「間近く宮中を去ろうとする私」という一節を補っておりまして、「夜半の月」は「宮中」の月だと考えていたことがわかります。北原白秋も訳出の際に「只今禁中で見る(この月)」「を思い出して」というのも加えてありまして、詞書にある退位前の明月の鑑賞ですから、禁中(内裏・宮中)という指摘は一見妥当なものです。白秋は、さらに「(禁中で月を)再び御覧になる事のあるまい」と補い、「院の御心中を忍び奉れば涙なくては居られませぬ」と深い同情を寄せているわけです。佐佐木信綱『百人一首講義』も、同様の事を次のように述べていますから、白秋はここから影響を受けております。


ふたたび御覧ずまじき禁中の月を、今しもおぼしおかせ給ふ御心をしのび奉るも、いとあはれにかしこくなん。

   (『百人一首講義』)


たぶん、近年の注釈書も同じような見解だと思いますが、気になるのは、神聖にして冒すべからずと思われる天皇に、摂関家の藤原道長が圧迫を加えて退位を迫っているという状況を、近世の国学者や近代の国文学者は事前知識として知っていたということです。それを前提に、火災と病気で精神的にも肉体的にも限界を迎えている三条天皇に同情するわけですから、涙無くしては味わえないし、気の毒で恐れ多いということになります。私もずっと、そう思っておりましたので、退位したり出家したりしたのちの余生における追憶となる宮中の月なのだというのは動かないことでしょう。本当にそれだけなのか、そういう解釈で万全なのか、と世の中の百人一首を愛するすべての人に聞いて見たくなりました。


もし、この歌に疑義を挟むとしたら、栄華物語においては、この歌は中宮の藤原妍子に三条天皇が詠みかけた歌なんですけれども、彼女は返歌をくれなかったのであります。『和歌文学大辞典』というものを見てみたら、藤原妍子は歌の詠める人でありますから、返歌がないのは不思議であります。同時代人の赤染衛門が執筆者なら、どう考えても藤原妍子の返歌を見落とすはずはないので、詠まなかったと考えられます。三条院の置かれた状況は、中宮であった彼女も分かっていたわけで、だったら卒なく同調すればいいわけでありまして、私が藤原妍子ならこう詠みます。彼女がその程度の返歌を詠まなかったなら、三条院の歌には何か返歌をしにくい問題があるということではありませんか。


げにやげに ともにうき世に ながらへば 忘るはずなき 夜半の月かな

    (妍子に代わりて粗忽謹製) ※「忘る(わする)」は四段活用動詞の連体形。


長和4年(1015)12月10日過ぎの明月の晩に、三条天皇が決断を迫られているのは、詞書にもあるように「位などさらむ」という退位でありまして、そうなると上皇となりますが、どこかに上皇御所を設置して内裏を去るということになるわけです。ただし、内裏焼亡の折ですから、今いる邸宅が上皇御所になって、新築なった内裏にはもう戻らないというのが真相ではないかと思います。そうなると、「禁中で見る月」というのはすでに滑っているわけで、正しくは「自分が天皇の位にいて見る月」はこれが最期かもということです。10日過ぎの月というのは、要するに満月ですから、次の満月にはもう退位していて、上皇とは言いながら本人からしてみたらほぼ「ただの人」としてしか月を見られないので、これが見納めだというのでありましょう。


『後拾遺集』巻第十五・雑一 861番

      例ならずおはしまして位などさらむと思し召しけるころ、

      月のあかかりけるを御覧じて     三条院

心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな


三条院という天皇については、大鏡であるとか栄華物語に出てきますから、そういった話を読むと、非常に気の毒な帝王であります。目が見えなかったというのが晩年の悩みの種でありまして、末娘の髪の毛さえ見えない事よと言って嘆くんであります。やがて不本意に退位したという経緯を知っていると、この歌は味わい深いものがあるわけで、メランコリーの極地のような内容であります。将来うかうかと長生きしたら、今夜の月が恋しいだろうなあ、というんですが、その時点ですでに不本意に長生きをしているという自覚があると見るべきでしょう。時々は目が見えることもあったと言うんですから、この時は月が見えたのかも知れませんが、もしかしたらすでに見えなかったかも知れないんですね。「憂き世に」のところは、しばしば「この世に」となっていることもあるんだそうで、『百人一首』というのは本文の異同が案外多いのであります。あんまり本気で暗記しててはいけないのかも知れませんね。思いつきで申し訳ないのですが、ちょっと、いたずらをした歌を掲げて見ます。


意のままに くらゐを去らで ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

   (三条院に代わりて粗忽謹製)

※我が意のままに、退位などしないで、天皇として居座り続けたら、(ますます道長のいじめがエスカレートして)定めて恋しく思うはずの、(まだ平穏無事であった)今宵の明るい月であることよ。


もう一度状況を確認いたします。『後拾遺集』の巻第十五・雑一に載っているんですが、それだと「ご病気でおられて、退位しようと決心なさったころ、明月をご覧になり」というような詞書きなんですね。ところが栄華物語を見ると、師走の月夜に后の一人に詠みかけたことになってるんですが、かわいそうなことに返歌がないのであります。どうして后は返歌をしてくれなかったのか、そこを先ほどから問題視しております。素直に読めば、退位した後に帝王として皇居で見た月を恋しく思うと言うのですから、退位を覚悟して退位後のわびしい暮らしを想像したと言えるでしょう。そこで、上に掲げましたように、「もし仮に退位を拒んで帝位に就き続けたら」という歌であったら、どうなるんでありましょう。ひねくれた解釈は、百害あって一利なしでありまして、次の歌に参りましょう。でも、居座ってると何されるか分からない、というような歌としてとれないこともありません。もっと露骨にすると、次のような本音はないのでしょうか?


心にも あらでくらゐに ながらへば 厭はれ続けて 運の尽きかな(粗忽)

    ※「くらゐ」は「位」と「暗き」の掛詞。「厭はれ」は「いと晴れ」との掛詞。「運の尽き」は「雲の月」との掛詞。「暗き」「いと晴れ」「雲の」は「月」の縁語。


そろそろ、思いついたことを明らかにしたいと思うのですが、よろしいでしょうか。従来の三条院の歌に対する解釈というのは、実は、その後の三条院の退位・出家・崩御という結果に従って導き出されているような気がいたします。つまり、すでに退位を決意していて、今後は不本意な上皇として生き長らえて行くので、もはや満月を見ても心は満たされず、今宵の月が天皇として見る最期の月だという解釈で、ほらやっぱり三条院の予想通りになったんだと誰もが思ったのでありましょう。ここで問題にしたいのは、「憂き世」「この世」という言葉がまだ天皇だった三条院にとって退位後の上皇としての「憂き世」や「この世」だったのかどうか、どうしてそう断定できるのか不思議であります。ひょっとしてなんですけれども、三条院にとっては「憂き世」「この世」は天皇のままでいることを意味していたのではないかと提案いたします。一歩推し進めて、今宵の「夜半の月」というのは、皇位に就き続けることを決意して眺めた月だったら、どういうことになるのでしょう。月を見て何かを決心するなどというのは、古典でよくあることです。最後の仕上げですが、三条院にとって「憂き世にながらへ」ることが今宵の意のままの決断だとすると、「心にもあらで」=不本意なのは、三条院ではなく退位を迫る道長ですから、三条院の歌に余計な補いを試みると、次のようになることでしょう。


(藤原道長めの)心にも あらで(朕が)憂き世に (帝として)ながらへば (思ひ掟てしつる故に)恋しかるべき (今宵の明き)夜半の月かな

※あの憎き藤原道長の意に背いて、朕がこの世に天皇として政治的に生き長らえるならば、「天皇に居座ろう」と決心したがゆえに、定めて恋しく思うはずの今夜の明月であることよ。(三条院に代わりて粗忽謹訳)


こういう内容なら、藤原道長の娘である藤原妍子は、開いた口が塞がらなくて返歌に困るということが生じるのではないでしょうか。藤原妍子から道長に三条院の情報は筒抜けだったはずですから、譲位の意向が天皇の口から洩れるのを今か今かと道長は待っていたはずで、「心にも」の歌が譲位の内容なら、それから一カ月半も時間がかかるはずがないような気がいたします。三種の神器を移すのは藤原氏の得意技ですから、おそらく譲位の意図が漏れたら一日二日で(いや、数時間で)事は動いたはずです。土壇場のところで、三条院は粘りに粘り、玉虫色にどうとでも意味が汲み取れるような歌で、道長を煙に巻いたのではありませんか? 後の出来事から、発信された内容を決め付けてしまうということは、現代でも生じます。そうしたフィルターを一度外して、ありのままに表現を吟味してはいかがでございましょうか。「憂き世にながらへば」を、皇位への執着を示すものというのは、ここだけのお話ですが、もしや的を射ていたら、天下の大手柄でございます。


すべて冗談ですから、良い子はこの説をコピーアンドペーストしたり、SNSに載せたりしてはいけません。なお、「心にもあらで」を三条院の心中としてもかまいません。自分ももう限界で退位すると今の今まで思っていたが、「退位したい本心とは違って」居座ろうと急に思い立ったというなら、まさしく面白いと思います。何やら、2024年10月末の日本の政治と図らずもリンクしてしまったのであります。 

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