超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(65) 相模

恨みわび干さぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ      相模

      (後拾遺、恋四、815)(栄花物語、根合)(新撰朗詠集下、雑)


〔釈義〕

(私の激しく慕う心が当のあの人にはちっとも通じないのが)恨めしくてつらくて、(そのため)涙に濡れ通しで乾く間もないわが袖(であること、それ)だけでも堪え難く悲しいのに、(その上、かなわぬ)恋故に(世の人には憂名まで立てられて、やがて)朽ち廃れてしまうでしょうわが名誉(のことを思うと、これ)こそは全く惜しいことなのです。(愛は得られず、名は朽ちる。私はとても辛くて堪えられません。それでもあの人を諦め切れないのです。私は本当にどうなってゆくのでしょう。)


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、後拾遺集の詞書に「永承六年内裡歌合に」とあり、栄花物語巻三十六には根合の左方の歌として、右方の経俊の歌「下もゆる歎きをだにも知らせばや焼く火の神のしるしばかりに」と番わせられて勝となっている。

② 歌中の「あるものを」については、古来「朽ちてあるを」「朽ちずあるを」の二解があり、また最近には「惜しくあるを」「朽ちなむは惜しくあるを」のようにとる解も出ているが、私見ではいずれも当を得ていないように思われる。

③ 「あり」はよく「そうあり」「その状態であり」の意味に使われ、また「或状態であり」の「或状態で」が自明であるために省略された言い方として使われるが、勅撰集の「○○だに……あるものを……」の形式をとっている歌でも、その自明の状態をあらわす語を省略した言い方だと考えられる。

④ 「来むといひて別るるだにもあるものを知られぬ今朝のましてわびしき」(後撰1341)の例などでは、「あるものを」の前に「わびしく」が省略され、省略された語が下の部分に出て来る。「朝毎に払ふ塵だにあるものを今幾夜とてたゆむなるらむ」(拾遺1341)のような例では省略された語が下の部分から見出せないが、「あるものを」の前に「怠慢で」が省略されていると見られる。「山彦は答ふるだにもあるものを音せぬ人を待つが苦しさ」(続古今1126)のみ、一見「存在するのに」といった意味に取れそうだが、これも「待つ甲斐があるものを」のようになると考えられる。

⑤ これを相模の歌に適用すると、一応「うらみわび干さぬ袖だに(朽ちなむことが)惜しくあるものを、まして恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」といった意味かと考えられよう。しかし、「恨みわび干さぬ袖」と「恋に朽ちなむ名」の比較は「まして」とはいえず、ここは「その上」を適用し、「ある」には「つらく堪え難く」と意味が省略されているとして、「恨みわび干さぬ袖だにつらく堪え難いのに、その上恋に朽ちなむ名こそ惜しけれということまでもあって、尚更つらく堪え難くてどうにもならないのだ」といった意味にとると、歌意はよく通ずる。

⑥ ここの「恨みわぶ」は、「わが慕情の達成しないのをくよくよ悩んでつらく思う」の意であり、栄花物語の記述によればこの時の歌合において相手方の歌が片恋の歌なので、この歌も片恋の歌である。この歌は、男を恋慕っていながら思いは相手に通ぜず、泣き濡れ通しで辛くてたまらぬのだが、あらぬ憂名が立ってわが名は廃れてしまう危惧があり、決着を付けねばならぬがどうにもならぬ、恋情と潔癖・危惧との板挟みを謳っている。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は片恋の歌であり、同時に忍恋の歌である。ただし、相手には情を通じようと焦慮する恋である。前途真っ暗な極限情況に立たされている苦しみである。上の句に見られる女々しさ弱さが、下の句では一転して強さとなる。

② そうした女心に女性自身が振廻されて、恨みわび、泣き濡れて寄り臥す姿、恋に朽ちる憂名を思い柳眉を逆立てて黒髪を振乱す姿には妖艶なイメージが湧く。これと対照的に、女に特別の反応を示さない男の姿も浮かんで来る。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の相模の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、主に「だにあるものを」という表現を追究して、「ある」の前に省略された言葉があるという結論に達して、この歌に関しても「惜しく」を補おうとしています。しかしながら、著者は「惜しく」の補いが歌の内容としっくりこないとして、あとから「つらく堪え難く」が省略されているのだと主張して変更を加えております。「だにあるものを」の勅撰集の例でも、歌の中に補うべき形容詞が見付からずに、著者は無理やり歌の内容を考えて言葉をひねり出したりしておりました。こうした点を考えると、著者の「だにあるものを」の分析と言うのは、おそらく多くの注釈者も試みた方向のはずですが、徒労に終わっているわけで、根本的に間違っているというか、的外れの可能性が高いと思います。


「ある」の具体化にこだわると、著者も指摘していますが、「朽ちてあるを」「朽ちずにあるを」という対立を招いたりするわけで、ここには古典の表現を現代語から見て何か省略されていると考えて、省略を補いさえすれば事足りるという便宜主義の陥穽に見事にはまっていることが予想されます。実は、注釈書の中には、この歌の三句目に関して、現代語訳でも「あるものを」とそのまま解釈しているものがありまして、そうした注釈者は補いなどなくても充分通じると感じていたことが分かります。というか、ただしく表現を理解したら、永承六年(1051)に詠まれた歌の表現がそのまま違和感なく感じられる可能性があるということではないでしょうか。


たとえば、日本語を英訳するとか、外国語に翻訳するのと同じでありまして、言い換えたり言葉を補ったりするのは便宜的な理解の仕方でありまして、それと同じ事が古典を解釈して現代語に置き換える際にも生じているということかもしれません。表現自体を十分吟味しないで、内容を恣意的に理解して、言葉を補ったり適当な言葉で補うと、いかにも意味は通じてしまうわけですが、その結果原文の本当に意味するところが揮発・蒸発してしまいまして、実は別の表現であるとか、誤読を発生しているということは、充分心して覚悟しないといけないことでしょう。著者が、「だにあるものを」の歌を分析する時に、歌の末尾にある形容詞を補えばいいと考えたものの、形容詞が見当たらないと適当にひねり出して見せたのが問題でありまして、さらに相模の歌では歌の末尾から「惜しく」を補いつつも、それが内容的に気に入らないので変更したという手際には、従来の古典解釈の弱点が如実に表れているように感じられます。


なお、近年の注釈書である小田勝氏の『百人一首で文法談義』(和泉書院、2021年刊)も、この歌の「ある」について代用形式という用語で詳しく検討していますが、これは代用形式ではなくて「存在する」意の動詞ではないかという指摘をしています。しかしながら、残念なことに結論としては訳文において「(涙を)乾かさない袖さえ(朽ちずに)あるのに」というふうに処理しておりまして、これだと代用形式の延長上にしかなっていないのですが、小田勝氏は不自然だとは気が付いていないかのようです。ただ、小田勝氏が、康和二年(1100)に催された「源宰相中将家歌合」十九番判詞にある、相模の歌に言及したところを引用して、自説を補強している点には注目すべきでしょう。


近き歌合に、「恋に朽ちなん名こそ惜しけれ」と詠めば、とがにはあらず、……かれは干さぬ袖だに絶えて朽ちざりけるに、わが身のこの事にたへずして朽ち失せなんことを嘆くなり

    (『宰相中将朝臣国信卿家歌合』)


これは隆源の「年をへて恋に朽ちぬる我が身こそ深山がくれのふし木なりけれ」という歌に対する判詞に出て来る解釈ですが、「この解釈が正解というべきでしょう」と小田勝氏は述べておりますから、訳文とほぼ整合するのも頷けます。ただし、この判詞の解釈と言うものは、歌が詠まれて50年程度経過した段階で、早くも誤読が発生したという例として貴重でありまして、それを根拠に結局「ある」の代用形式に従ったのは、もう一度言いますが残念な例だと思います。


では、「あるものを」という表現はどう解釈するのかという点ですが、これはそのまま「あるものを」で現代語でも通用する表現ではないかと思います。あえて言うなら、「(一方には〇〇ということが)あるものを、(もう一方には××ということが)あるものぞかし」という対比表現でありまして、その後半の「あるものぞかし」が省略されているのであります。そして、「××」ということについて、詠作者は悲歎したり、不満を述べたりしているのでありましょう。「だに」の使われていない例を挙げて説明してみましょう。


あづまぢは なこその関も あるものを いかでか春の 超えて来つらむ(後拾遺集3)


東路には「来るな」という名の勿来の関も「あるものを」、東路にその勿来の関を越えて春の到来が「あるものぞかし」、どうして春は勿来の関を越えて来るのだろう、というような意味でありましょう。この場合「××あるものぞかし」は省略されるというか、なくても理解できるのであります。


恨みわび 干さぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ(後拾遺集815  相模)


この私には叶わぬ恋に不満を言ったり嘆いたりして、涙の乾かぬ袖さえ「あるものを」、この叶わぬ恋に落ちてしまう私の評判もまして「あるものぞかし」、その恋で地に落ちる評判が惜しい、というのが相模の歌の意味であるかと思います。ですから、「あるものを」の「ものを」というのは詠嘆風でありまして、そのあとにもう一つ何かが存在する「ものぞかし」というニュアンスでありまして、そのことが納得できれば、「あるものを」という表現は何ら補いなどいらないものなのであります。分かってしまえば、「朽ちてあるを」「朽ちずあるを」「惜しくあるを」「朽ちなむは惜しくあるを」などと対立する必要もなかったことが、分かるのであります。


訳さずに 分かる例だに あるものを 変に補う 訳こそ惜しけれ(粗忽謹製)


〔蛇足の蛇足〕

著者の訳出したものは、いつもながら大量に言葉を補っておりますので、その容姿を元の和歌に即したところだけで示すと次のようになるでしょう。そして、念のためこれをもとに相模の歌を復元すると、次のような歌になることでしょう。


恨めしくてつらくて、涙に濡れ通しで乾く間もないわが袖だけでも堪え難く悲しいのに、恋故に朽ち廃れてしまうでしょうわが名誉こそは全く惜しいことなのです。

    (著者の〔釈義〕の要旨)

恨みわび 干さぬ袖だに 悲しきに 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

    (著者の〔釈義〕から復元)


そういうことが詠みたいなら、相模はそのように表現したのではないでしょうか。「あるものを」という、前提となる何かを提示しつつ、もう一つ前提とは別の重大事態をほのめかすというのが、この「あるものを」という語法の肝だったのだと思います。


『後拾遺集』巻第十四・恋四 815番

    永承六年内裏の歌合に  相模

恨みわび 干さぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ


相模の歌を唱えてみると、すんなり胸に納まるんですが、よく考えてみると、首尾呼応していない歌のような気がいたしますね。三句目の「あるものを」が曲者でありまして、これが「惜しくあるものを」ならば、すんなり解決するんでありましょうか。そういう解釈をする注釈書は多くありますが、さすがにそんな補いは変だと感じます。眉唾ものですよね。涙の塩を袖でぬぐうと、塩分で布地が傷むと言うことが古典常識なのでありまして、振られて朽ちてしまう袖も惜しいが、振られ女だよという評判が立つのはもっと惜しいというようなことなのです。「捨てないで」ってことなのでしょうけれども、さてほんとにそんな意味なのかどうか。


本棚の中のあまたの本と相談してみた結果、案の定、三句目の所が難しいのでありまして、この「あるものを」を、「惜しくあるものを」をするのは近年の注釈書でありまして、そのほかに北原白秋のように「朽ちてあるものを」と解釈する場合と、それに対して「朽ちずあるものを」と反対に解釈するものがあるのであります。そこが面白くもあり、この歌の弱点でもあるのでありましょう。


単語や語法について少し考えますと、「恨み」は、相手に文句を言うことでありまして、「わび」は、どうすることも出来ずに困り切ることで、現代語とはニュアンスが違うのであります。「干さぬ袖」によって「こらえきれずに流れ落ちる涙」を表現しているわけであります。「朽ちなむ名」というのは、「な」が強意の助動詞、「む」が婉曲の助動詞ですから、実は解釈の必要がなくて「朽つる名」、すなわち現代語では「朽ちる名」でありまして、評判が地に落ちるということであります。


この相模の歌は、要するに身分違いの恋愛、道ならぬ恋が暗示され、鑑賞者が子供ではとても教育的ではないとも言えますし、大人になりたい若者が鑑賞者なら本質的には非常に教育的かも知れませんね。平安時代の貴族の生活を考えると、重婚は可能ですが、基本的には婿取りが基本でありまして、自由な恋愛は夢のまた夢であります。それだけに、身分を越えた恋愛、熱烈な愛情表現に飢えていたとも言えるわけです。その代表である、和泉式部と敦道親王の恋愛ですら、実は打算に満ちた演技であったわけですから、現代人も自由な恋愛結婚に対する過剰な期待を誡める時期に来たのかも知れません。そうしないと、結婚できない人、離婚する人だらけということになるでしょう。人様のことですから、とやかく言うのもおかしいんですけれども。


「だに」という単語は副助詞と呼ばれるもので、これが現代語に残っていないという点に注意がいるでしょう。どう訳しても、「だに」本来のニュアンスには届かないはずなのであります。副助詞というのは、微妙なニュアンスを付け加えるわけですから、逆に言うとなくてもいいものでありまして、一回「だに」のような単語を消去して考えるといいのであります。改めてもう一度指摘すると、「朽ちなむ」の「な・む」も、強意の助動詞「ぬ」の未然形に婉曲の助動詞の連体形「む」が付いたものなので、実は消去しても意味は変わりません。さらに、「こそ~已然形」の係り結びも、強意ですからこれも消去できるんですね。「惜しけれ」は形容詞の已然形というだけですから、ここには過去・詠嘆の「けり」なんかありませんから、時制の助動詞は使われておりません。以上を踏まえると、相模の歌は次のように変形できてしまいます。「だに」と「こそ」の位置には、係助詞の「は」を補い、「朽ち」は連体形にするわけです。


恨みわび 干さぬ袖(は) あるものを 恋に朽つる 名(は)惜し


この状態だと「だに」のニュアンスが抜けているので、この場合「だに」は類推用法と呼ばれるものですから、普通は「だに~、まして~」と呼応するものですから、「だに」に代えて「まして」を補って見ることにいたします。白秋のように、「まして」ではなく「その上」を使うのも可能だと思います。そして、ここが一番肝心ですが、「ある」を「惜しくある」の省略だとか、「朽ちてある」や「朽ちずある」の省略だとかという妄説を斥けるために、いたずらをいたします。


恨みわび 干さぬ袖(は) あるものを (まして・その上)恋に朽つる 名(もあるぞかし。それは)惜し


分かる方はもうこれで分かったと思うんですが、この相模の歌というのは失恋した後に残る後遺症を取り上げているわけです。もちろん、惜しいというかもったいないというか残念というか、そういう被害損失を並列して、被害の小さいものの後に、被害の大きいものをならべた一般論という可能性が高いのであります。どうせだから、以上を『枕草子』の「ものは」型に変形すると、次のようになるでしょう。


恋をして人に忘られて後に、残るもの、あまたあるべけれど、恨みわび干さぬ袖。かてて加へて、朽ちなむ名。これらに尽きぬべし。名の朽つることこそ惜しけれ。

   (粗忽捏造、枕草子ふう相模の歌の内容)


「あるものを」の部分は、例えば佐々木信綱氏だとか、石田吉貞氏だとか、そういう方の注釈では、何も手を加えずにそのままなのであります。不思議だなあと思ったのでありますけれども、考えて見れば、「あるものを」というフレーズ自体が忘れ去られつつあるのかもしれません。以上を踏まえて、相模の歌を解釈するうえで、補いをするとすれば、次のようになることでしょう。


(恋をして人に忘られて)恨みわび 干さぬ袖だに あるものを (ましてや)恋に朽ちなむ 名(もあることぞかし。それ)こそ惜しけれ


今風に言えば、「干さぬ袖(が朽ちてしまうの)」は一次的な被害でありまして、これに対して「恋に朽ちなむ名」は二次的な被害ということになるのでありましょう。袖が朽ちるのは人には内緒にできますけれども、世間で話題になり面白おかしく取沙汰されて評判が地に落ちるのは、非常に残念ということでありましょう。何でもかんでもすごく惜しいということにするのは、たぶん間違いか、間抜けな勘違いなのであります。失恋して涙を流して袖が朽ちるのは、実はたいして惜しくはないのかもしれないってことなんでしょうね。


もちろん、「干さぬ袖」は「朽ちなむ袖」と同義でありまして、これを「朽ちなむ名」とためしに入れ替えたら面白そうであります。この場合は、評判なんかどうでもよくて、袖が駄目になるという金銭的損失のみが痛いということになりますが、いかがでしょうか。


忘られて 朽ちなむ名だに あるものを 涙に干さぬ 袖こそ惜しけれ(粗忽謹製)


今回は、実際にはほんの数時間考えて、近年の注釈書の誤りをぎゅっと改めまして、100年くらい前の正常な解釈に戻したのであります。どうでもいいことでありますが、実は昔の注釈書も近年の注釈者は読み解けていないというような問題もありそうですね。「あるものを」というところは、何もいじらなくてもよいというのは、なかなか難しいことかもしれません。つまり、分かりやすくするために、言葉を補ったり、言い換えたりするのは構わないという態度から、本来の表現の意味するところが蒸発してしまうわけです。漫画の実写化とか、小説の映画化なんかで生じている現象と似たようなものかもしれません。


「朽ちず・惜し」 変な訳だに あるものを 故意に朽ちなむ 歌こそ惜しけれ(粗忽謹製)


お後がよろしいようで。ちなみに、この歌を妖艶な歌と解する向きが多いのでありまして、著者の桑田明氏も思い入れたっぷりに鑑賞しておりますが、果たしてそうなのか。「あるものを」という表現をそのまま受け入れると、宮廷女房の恋愛事情をコンパクトに指摘したマニュアルのような歌でありまして、「いくら泣いても構わないけれど、評判が落ちて宮廷で肩身が狭いのは嫌よね」と同僚の女房とひそひそ語らっているような面白さがあるのではないでしょうか。恋愛と言うのはうまく行けば人生の肥やしでありますが、失敗して悪評が立てばその損失は宮廷人にとっては計り知れない痛手となって跳ね返ってくるのであります。現代の芸能界などと全く同じと言うところに、密かに苦笑してしまうのであります。妖艶ではなく、乾いた滑稽な歌だったのでありましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根