超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(61) 伊勢大輔

いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな       伊勢大輔

      (詞花、春、27)(伊勢大輔集21900)


〔釈義〕

(もう)古い昔の(ものとなったあの)奈良の都の(、その盛りであった頃、「咲く花の匂ふが如く」とも謳われて、奈良の都の栄えを象徴するものとされていた)八重桜(は、その後奈良が廃都となって時久しく、心ある人には惜しまれながらも、空しく大宮人にも賞翫されずにひっそりと咲き続けていたのに、それ)が(このたび帝に献上されることになり、)今日、ここ平安京の内裏に参じて、(光栄のあまりにか、八重の花びらを)九重に(増して、色香も豊かに)咲匂うていることよなあ。


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、詞花集の詞書に「一条院の御時、奈良の八重桜を人の奉りけるを、その折御前に侍りければ、その花を題にて歌よめと仰せごとありければ」とあり、伊勢大輔集の詞書に「女院の中宮と申しける時、内におはしまいしに、奈良から僧都の八重桜を進らせたるに、今年の取入れ人は今参りぞとて紫式部のゆづりしに、入道聞かせ給ひて、ただには取入れぬものをと仰せられしかば」とあるのによって作歌事情が明らかである。

② 「ここのへ」には「此処の辺」と「九重の王城」の意味とを兼ねる上に、桜花が八重よりもさらに豊かに九重に咲く意味をもたせている。「いにしへ―今日」「奈良の都―此処の辺(平安京)」「八重―九重」と鮮やかな対照の歌である。

③ 古歌における「いにしへ」の例を見ると、往古に憧れる気持、時代に取り残された悲哀、往古への懐古の情があり、古いものに共感を覚え愛慕の情を懐いている。この歌の「いにしへの」は「奈良の都」の修飾語であり「八重桜」の修飾語である。万葉集の「青丹よし奈良の都は咲く花の匂ふが如く今盛りなり」の咲く花は八重桜である。なお、伊勢大輔には「古にふりゆく身こそあはれなれ昔ながらの橋を見るにも」(後拾遺1075)という歌がある。

④ 作者は八重桜を擬人化しているが、自身を「古にふりゆく身」と観じ、奈良の廃都の八重桜に親近性を感じている。自身にとっても、「今日九重に」晴れの場を与えられてわが本領を発揮することに比せられたのであろう。桜が古りたる八重桜と一体になって感激したあまりの、全力投球の歌だったと思われる。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、興福寺から内裏に献上された八重桜の納受に際しての賀歌である。作者は、八重桜そのものを人格に変じて扱い、古聖代への思慕と現聖代への賛美の情を託した。その八重桜に作者自身の面影までほのかに投影されている。

② この歌では、「青丹よし」の歌に詠まれた平城の殿舎、伽藍や仏像と八重桜の華麗さが交錯し、一転して廃都に八重桜がひとり咲く寂寥の場面、再転して平安京の内裏に八重桜が咲匂うている場面が写し出され、主上・中宮の尊容も拝するといったパノラマが展開される。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の伊勢大輔の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、従来の修辞技巧を確認したうえで、「いにしへ」という言葉の持つニュアンスを追究し、古い物への共感とそれへの愛慕の情が込められていると解説しています。そのうえで、作者は「いにしへの」が「八重桜」をも修飾すると考え、八重桜は擬人化されているのだと断じまして、作者の伊勢大輔が自身をも「古にふりゆく身」と詠んだ歌を根拠に、八重桜を自己の投影した存在としてこの歌を詠んでいると結論付けています。


修辞の部分に関しては、古くから「ここのへ」に「此処の辺」を掛けるという指摘はあるようですが、江戸時代末期の香川景樹は、これを次のように否定しています。


初学に、古といひて今日ここと受けたり、と云へるは非なり。ただけふ九重といへるのみ。九重やがて此処なるを、何ぞわづらはしくいひかくべけん。さてはことわりも重りて、さやかならぬ歌となるなり。(香川景樹『百首異見』)


景樹の指摘はもっともなところがありまして、別に「此処の辺」が加わったからと言って、何ら趣向が増すわけでもなく、掛詞としてよくある上からのつながり、下からのつながりによって二重になるというような工夫があるわけでもありませんので、もともと掛ける意図などなかったかもしれないと思うのであります。「此処の辺」が掛かるのだというのなら、「みやこ」に「見」が掛かるとか、「八重桜」に「咲く」が掛かるとか、「けふ」に「京」が掛かるとか、際限なく掛詞を指摘出来てしまうのではないでしょうか。これとは別に、著者は〔釈義〕において、「光栄のあまりにか、八重の花びらを九重に増して、色香も豊かに咲匂うている」として、「九重に」を「にほひぬる」の修飾語句にしておりますが、これについては香川景樹なども同じ意見のようで、次のように述べています。


もとより八重なるを、九重に匂はせたるが一種の趣にて、花も過分の時を得て、大御前に盛の色をあらはしたる意ばへを、とりもあへずやすらかに述べ出でたり。(香川景樹『百首異見』)


これは、享禄三年(1530)の奥書のある『百人一首抄』などに早くも見える読み方ですが、これもまた考え過ぎのような気がいたします。著者の桑田明氏は、「ここのへに」に対して、宮中の意の「九重に」と、さらに「此処の辺」を掛けたとみなし、さらに「花びらを九重に増して」と三重の意味をもたせようとしていますが、近年の注釈では「九重に」は宮中・内裏の意としてしか解していないのが主流であります。「八重桜」から、数字つながりで「九重」と持ち出してきたことが面白さの要でありまして、ひょっとすると花びらの数かと言う意識が脳裏にのぼるものの、それが打ち消されて、平安京の内裏の意味だと確定するのかもしれません。ちなみに、「奈良」に「七」を込めていると見立てる説がありまして、石田吉貞氏は「なら、やえ、ここのへと数詞の順に並べて修辞としている」(『百人一首評解』有精堂、1956年)と指摘していますが、他にはあまり出ていない説でありまして、今回の著者も採用していません。なお、奈良時代について、注釈書の多くが、天皇七代、七十年の都だったと指摘しまして、なんだか「奈良」に「七」が掛かっていると暗に言っているように感じて笑ってしましました。


それから、この歌が擬人法であるというのでありますけれども、末句にでてくる「にほひ」「にほふ」という動詞を考えて見ても、これは別に擬人法を感じさせるものではなく、梅や桜などに普通に使う言葉ですから、擬人法と言う判断は疑問です。伊勢大輔自身の境遇を反映させた歌だという思いつきから、詠まれた歌が擬人法だという論法になったのかもしれませんけれども、広く認められる説ではなさそうです。それから、詠作の場を考えたら、奈良から持って来た八重桜は、藤原氏出身の彰子を指しているとした方がよさそうでありますけれども、誰もそんな指摘はしていないようです。


〔蛇足の蛇足〕

「九重」が「宮中・内裏」を指す言葉でありまして、当然歌が詠まれてた平安時代半ばでは、天皇がお住まいの京都の真ん中を指すことになります。詞書よりも歌学書『袋草子』の伝える説話の方が状況を詳しく伝えています。桜を献上した人がいて、その桜を新参の伊勢大輔に遣わして、藤原道長が歌を詠めと催促したと言うのであります。歌人として道長の娘彰子に仕えたそうですから、新参女房のお披露目のパフォーマンスと考えていいでしょう。本人は、差し出された硯で墨をすり、檀紙にさらさらと書いたそうでありまして、字もうまかったけれども、「八重」ときて「九重」という数字の語呂合わせが面白かったようであります。だったら「奈良」には「七」が見え隠れし、初句の「いにしへの」だって「一二四」が入っているような気がしてしまいます。その辺は、どこかで見た気がしますので、私の考えというわけではありません。「にほふ」という動詞は、古典では「輝く」とか「照り映える」というように、花の色彩の鮮やかさに使うことがあるのであります。


あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり   (『万葉集』巻三・328番・小野老)


『万葉集』の歌としては、「あをによし」の歌は非常に有名でありますね。こうして並べてみると、なるほどこれが下敷きであるわけですから、本歌取りと言ってもいいわけでありまして、これを紹介しているのが、桑田明氏のほかだと『文法詳解百人一首精釈』(加藤中道館)であります。学習参考書売り場で見かけるシリーズの一冊ですが、注釈や解説の詳しさは他を圧倒していまして、有益な時が多いと思います。すべての注釈書を見る暇はありませんけれども、ちらみするといろんな説があって感心したり驚いたりするのであります。


小野老の歌をベースにしたと考えると、伊勢大輔の機知というか、工夫というものがよく分かると思われます。八重桜といったからと言って、別に花びらが八枚なわけではありません。22枚から79枚と、幅があるそうなのでありますよ。お暇な方は、どうぞウィキペディアをご覧あれ。2011年の引用ですから、現在どういう記述になっているのかは、責任を負えませんので、違っていたらお許しください。ともかく、この「八重」というのは、無数とかたくさんとかいう類の表現なわけであります。そこに「九重」と数字を刻むことによってユーモアが滲みまして、よく考えたら、それは「宮中・内裏」と言う意味が隠れていて、歌としてはそちらが主旨であるということです。


ふるさとと なりにし奈良の 都にも 色は変はらず 花は咲きけり

(『古今集』巻第二・春歌下・90番 「ならの帝の御歌」)


この歌をさりげなく紹介しているのは、尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』でありまして、この江戸時代の注釈書は逸話が豊富なだけではなくて、それぞれの歌人の逸話の場面に関してイラストを用意しまして、視覚的にも楽しめるようになっています。「ならの帝」というのは平城天皇のことです。本歌取りとまでは言えないと思いますが、伊勢大輔の歌の前提となる要素は備えているように見えます。また、『百人一首抄』というのは、『宗祇抄』とも呼ばれるもので、現在では二条為世の見解を頓阿がまとめたものではないかとされ、宗祇がその伝承に関わったとされているものです。『百人一首』に関するもっとも古い注釈書と言われています。引用すると、次のようなことが書かれています。


心は、故郷の桜時にあへる心たぐひなきなり。しかも八重桜とをきてけふ九重といへる当座のことわざに奇特の粉骨也。かやうの事は天性の道と平生のたしなみとのいたす所なり。道にたづさはらん輩はこれを思ふべきなり。(応永十三年1402年奥書『百人一首抄』)


ここに、「平生のたしなみ」という言葉がありまして、伊勢大輔の歌が天分だけではなくて、日頃の精進があってのものだと指摘しているようです。実は、この歌の面白いところは、先行する歌のアイデアを取り入れていることが指摘されております。そういう先行する歌を二首あげて見ましょう。『小倉百人一首新釈』(小高敏郎・犬養廉)が、契沖以来の先学が指摘したものとして紹介していたものです。


折りてみる かひもあるかな 梅の花 今日九重に にほひまさりて (『拾遺集』雑春 1010番 源寛信)

朝まだき 八重咲く菊の 九重に 見ゆるは霜の おけるなりけり   (『後拾遺集』秋下 351番 大蔵卿長房)


「折りてみる」の歌は、おそらく伊勢大輔の歌に先行したものですから、こんな歌を学んで宮中で詠む歌の準備をしていた可能性は高いでしょう。天性にまかせて詠むだけではなく、ちゃんとお勉強もしたということを『百人一首抄』が認めていたということです。「朝まだき」の歌は、後冷泉天皇の時代に活躍した長房の歌ですから、むしろ伊勢大輔の歌を長房が学んだという方がよさそうです。本歌の指摘でも、修辞の指摘でも、実は混乱が見られまして、なかなかどうして解釈が収束する地点が見えない感じがあります。ついでに指摘すると、『伊勢大輔集』ではこの歌に対して返歌がありまして、「九重に匂ふを見れば桜狩り重ねて来たる春かとぞ思ふ」という歌が知られております(末句を「春かとぞ見る」とする伝本も存します)が、返歌の主を中宮とする説(井上宗雄氏)と一条天皇とする説(久保田淳氏)があったりして、面食らうことがいくらでも出て来るのです。

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