超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(60) 小式部内侍
大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立 小式部内侍
(金葉、雑上、586)
〔釈義〕
大江山を越えて行く、そして生野の里も含めて幾つもの野を越えて行く(丹後への)道の、(何とも遥かに)遠いので、(一度は行ってこの脚でじかに踏んで見たいと憧れていながら、)まだ踏んでも見ないのです、(あの名高い)天の橋立を!そしてまた、(お気にかけて下さっているように、その丹後の国府には私の母がいるのですが、やはり何しろ遠い道のりのこととて、お尋ねの母からの)手紙も、まだ見てはいないのです、(あちらで仕立ててくれそうな、あの)海人の走立といった使いによって(もたらされるものを)!(ほんに、京に独り母と離れていてじれっとうございます!)
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、金葉集の詞書によると、大人の戯れに見事一矢酬いた歌として著名である。大江山は鬼退治伝説の丹波・丹後国境の大江山ではなく、山城・丹波国境の大枝山(=老の坂)である。北村季吟の八代集抄には「師説、大江山は丹波路の入り口なり……」とある。「いく」は「行く」と「生野」の「生」と「幾野」の「幾」の三つを懸けていると解される。
② この歌は、「まだふみも見ず」の「ふみ」に「踏み」と「文」を懸け、憧れの天の橋立をまだ踏んでいないということと、待ち焦がれている母の手紙をまだ見ていないということとの二つの意味を持たせている。「文」の意味は、もし詞書がなければ出て来そうにない。この歌にはまだ知られていない何かのしかけがあるのではないか。
③ 「海人馳使ひ」という古語があり、土橋寛氏によれば「海人は漁民。ここは海人部のこと。駈使は宮廷の神事や雑役に駆使される者のこと。駈使丁(はせつかひのよぼろ)ともいう(延喜式)海人部出身の駈使が海人駈使であろう」(岩波古典大系・古代歌謡集)とあり、この海人駈使と「あまのはしだて」がつながりがある。
④ 「あまのはしたて」「あまのはしだて」は、「海人の走立」で、「海人の走り立たせた使い」の意味で海人駈使いと似た意味になる。海人の走立も、飛脚のような仕事をする者として出発させられたものを意味したのであろう。この歌の場合、丹後の漁民が海人の走立として国庁の用に今日まで差立てられることはありそうなことだ。当時は死語となっていたが、歌語として当時の人には理解できたものと考えられる。
⑤ この歌で、末尾の七文字に「天の橋立」の外に「海人の走立」の意味を持たせる時、歌全体に二重の意味が流れて興趣が隔段に増大して来る。「まだ海人の走立の来ずして」の意味をもつことにより、詞書にある「使はまうで来ずや」に明瞭に答えたことになる。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、詞書に示すような場面を離れて鑑賞しても、立派に二通りの意味が流れている。大江山・生野・天の橋立と三つの地名を連ねて長い道中のイメージを描き、まだ見ぬ天の橋立への熱烈な憧れをあらわす一方、同じ道中が海人の走立の旅のイメージとなって、その使いを一日千秋の思いで待ちこがれる心をあらわす。
② もし下の句が「まだふみも見ぬ天の橋立」となっていたら、「天の橋立」「海人の走立」への憧れが主題となる。「まだふみも見ず」と切れることによって、現実の認識とふみ見ることへの渇望が主題となり、問いかけにきっぱりと解答を示したものとなる。
③ この歌は、上の句全部を使って道中の様を描きながら、待ちかねたように「まだふみも見ず」と結論を述べ、その後から「あまのはしだて」と補足する。激して急に決着をつけてしまう心と、激しても丁寧に納まりをつけるたしなみがある。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の小式部内侍の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、従来の修辞技巧を確認したうえで、和歌の末尾の「あまのはしだて」が二重の意味を持つのではないかと、著者なりの飛躍した論法で推理したものです。そういう推理の根拠は、「まだ文も見ず」という和歌の肝心かなめの表現が、詞書に対照させるところからしか意味をなさないので、この歌の外の部分にも、「まだ文も見ず」を支えるような表現を見出したいというようなことなのであります。ただ、著者は見落としているようですが、藤原道綱の母の「なげきつつ」の歌なども詞書を参照しなければ「開くる」という掛詞は発見できないというか、それがなくても歌は成立しますので、そこでそういう追究をしないで、ここで急に詞書が掛詞の一方を支えていることを疑うのは、少々場当たり的な追究の仕方のように見えます。さらにまた、「海人の馳使」「海人の駈使」という古語を持ち出したまでは許せるとしても、そこから「海人の走立」という造後をひねり出して行くのは、相当な無理があると言えるでしょう。少なくても、「はしだて」という言葉に「使者」を意味する用法が存在してはじめて、著者の言うような「あまのはしだて」に説得力が備わるわけで、似たような古語を持ち出して、存在したことのない造語をつかって、掛詞を主張するのは、許されないと思います。
あとで、「大江山」のところに掛詞を主張しようと思っている立場としては、著者の「あまのはしだて」の新説も認めてみたい気もしますが、「有馬山」の歌における「そよ人」という造語の持ち出し方といい、そこには何か構造的な錯誤が存在しているように感じます。縁語や掛詞、枕詞に序詞などを使いながら、主題をそれとなく述べるというような、ある意味遊戯的な和歌の詠作方法というものに対して、著者は納得が行かなかったのかもしれません。
なお、著者は「いく野」には三つの言葉が掛けてあると紹介していますが、おそらく「行く」は掛かっていないと思います。もし、「行く」が掛かっているのだとしたら、たとえば「道」に「未知」が掛かっているとか、「遠ければ」に「徒歩蹴れば」が掛かっていると立論しても構わないのではないかと感じるんでありますが、いかがなものでしょう。
〔蛇足の蛇足〕
丹後の国は、大江山といふけはしい山や生野などといふひろびろとした野の道を越えて遠い道中ですから、まだ天の橋立へはいつてみません――にかけて、まだ母からの書面はまゐりませぬ。(北原白秋『小倉百人一首評釈』)
以前とりあげた北原白秋の評釈には、いくつかの特徴があります。一つには、大江山や生野について、「けはしい山」「ひろびろとした野」というように、地名に丹後への道が遠いことの理由となっていると見ている点で、そのことは句意ではっきりと指摘しています。これは、尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』の「その名さへ大きなる山幾ばくとも知れぬ野といふやうなる所」という解釈からの影響があると見て間違いないと思います。
母の往きて居らるる丹後へ下るには、丹波路の大江山・幾野などといふ所ありて、その名さへ大きなる山幾ばくとも知れぬ野といふやうなる所にて、道の程も遠きによりていまだ便りも文も見侍らずといふ事を、かの丹後にある天の橋立を踏みても見ぬといひなしたるもの(『百人一首一夕話』)
白秋の評釈の二つ目の特徴は、修辞に関するもので、「ふみ」の部分に「踏み」と「文」の掛詞を認めた上に、「天の橋立」を「踏み」の縁語と捉えている点です。これは、通常の注釈書の指摘するところだと思いますから、別に特徴ではないとも言えるでしょう。問題は、訳出部分を見る限り、白秋は「生野」に「行く」を掛けているような理解は示していません。その点は、白秋が粉本とした佐佐木信綱『百人一首講義』と相違しておりますから、白秋には彼なりの修辞に対する判断があったことが分かります。
母の下りて、ゐます丹後の国府は、まづ丹波路の大江山をこえて、生野を経て、天の橋立の近くまで、ゆきいたる道のいと遠き事なれば、かの国へ下りてより、このかたいまだ、書状の往復もせであるものを(『百人一首講義』)
これを見ると、「ゆきいたる道の」というところに、「生野」に掛けた「行く」が反映していますが、白秋の訳出はこの信綱の見方を意図的に避けているように見受けられます。
今回ひとつ思いついたのは、しばしば「生野」に「行く」を掛けるとする考えが出て来るのは、他の歌のせいかもしれないということです。小式部内侍が和泉式部に詠んだ「如何にせむ生くべき方も思ほえず親に先立つ道をしらねば」であるとか、小式部内侍が教通に詠んだ「死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか生きて問ふべき身にしあらねば」などというのが、彼女の代表作とされています。これらの歌の「生く」「生き」が、「行く」「行き」と掛詞になっているために、過剰に「大江山」の歌の「生野」を掛詞とみなした可能性は高いでしょう。受験勉強の対策ということをを考えたら、「大江山」の歌で、ついでに強引にでも「生く」と「行く」の掛詞を叩きこむのが効率がいいからです。「生野」に「行く」が掛けてあるとこれまでの注釈書の多くが言うのだけれど、それは嘘八百でありましょう。
『金葉集』巻第九・雑上 586番
都に歌合のありけるに、小式部内侍歌詠みにとられて侍りけるに、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人は遣はしけむや、使はまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれて立ちけるをひきとどめてよめる 小式部内侍
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
これはほんとに有名な歌でありまして、日本三景の一つである天の橋立をこれで意識したり、これを詠んだ時の説話を学校で読まされたりするものであります。ここで小式部内侍が言いたいことは、「まだ文も見ず」という一言なのでありますが、その一言を言うために、途中の道が遠いから、有名な天の橋立を「まだ踏みもみず」と延々と字句をつないでいるわけで、和歌というものが宮廷でどういう機能を背負っていたか、ぼんやりした頭にも染み渡るわけです。たとえば、からかわれて、「母の文など見はべらず」などと言い返しても意味がないのですが、修辞の効いた歌の中に返事が紛れ込んでいると、その知的な応対が際立つのではないでしょうか。
さて、あれこれ考えて参りますが、最初に私見を述べておきます。つまり、道筋からすると、大江山を越えて、かなり行ってから生野を通過するのであります。「大江山( )行く」としてみて、この道程を満たす助詞というのは、「経由して」という助詞でなければ成立しませんから、平安時代ならば「より」でありまして、『万葉集』の時代なら「ゆ」でありますけれども、とにかくめんどくさい感じなのであります。むしろ、「大江山(や)生野の道」として、並列にしたらすっきりするのではあるまいかと思うのです。一応、通説の「行く」の掛詞は、ここでは却下しておきたいと思います。
「大江山」に関しては、山城と丹波の境にあった山とする説と、丹後と丹波の境にあった山の二説があります。怠け者でありますから、この大江山は丹後の大江山だと思っていたのですが、どうもそうではないようなのであります。丹後ではなく丹波の最も京都に近いところに大江山(大枝山・老の坂)がありまして、ここが丹波・丹後・但馬などへと向かう道の入り口でありまして、その先に丹波の生野(福知山市)があると言うことなのです。この言葉に「多き」を掛けるとする説はありませんが、次の「いく野」に「幾野」を掛けていると見ると、「大江山」「多き山」の掛詞は成立する可能性は高まるかもしれません。「生野」も丹波の地名ですから、上の句の地名は丹波路なのであります。つまり、丹波路の中から、「たくさんの山」とか「幾つもの野」とかというイメージを喚起する地名を選んだのではないでしょうか。白秋が『百人一首一夕話』から影響されたことのもっと先のところを指摘しているつもりです。そうすると、下の句の「天の橋立」も、手が届かないというニュアンスでありまして、首尾一貫、遊び心満載となるのであります。それくらいのことは、みんな気が付いていたでしょう。そうでないなら、大手柄でありましょうか?
今手元にある鴻巣盛広『新訳百人一首精解』を見ましたら、「いく野は幾野即ち幾多の野原の意味をも含ませてある」と頭注で指摘しておりまして、探せば「大江山」に関しても掛詞の指摘が出て来るのかもしれません。そう思って、『小倉百人一首新釈』(小高敏郎・犬養廉)を見たら、語釈の「いく野」のところには、「行くとかけ、また幾多の野、多くの原の意を含ませている」などとありますので、大手柄ではない代わりに、常識を述べたことになりそうです。えへん。それでも、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を除くと、「大江山」まではみなさん気付いてないようです。あれれ、どなたも駄洒落は好きではないのかも。大発見とはこのことでございましょう。もちろん冗談ですが、ひょっとすると1000年の時を超えた手柄で、小式部の内侍から褒めてもらえるかも知れませんね。袖をつかんで御簾の中に引っ張り込まれたらどうしようと思います。
天才歌人の和泉式部を母に持つ小式部内侍は、地名を使った掛詞の可能性を常に考えていたってことでしょうか。だからこそ、とっさの時に京都から丹後への道筋の地名を使って歌が詠めたのだと思います。
それから、前に指摘したんですが、「文」というのはもともと中国語でありまして、漢字音のなまりであります。それと、「踏み」という日本語が掛詞になっているわけです。小式部内侍にそう言う意識があったかどうかは分かりませんが、掛詞を考える時には、音と訓の掛詞という発想は案外大事なんですね。日本には古代に独自の文字がなかったので、「字」とか「文」とか「本」などという基礎語彙が、実は漢字音のまま定着しているわけです。「梅」や「菊」も漢字音由来だったはずです。そういう漢字音の言葉と大和言葉を掛ければ、非常に分かりやすいわけですから、こういうのを通常は「秀句」と呼ぶのでありまして、枕草子には日常会話の中に秀句を使った例はいくらでも出て来るのです。ちなみに、「掛詞」という言葉は新しいものですが、「縁語」というのも新しい言葉でありまして、平安時代だと「詞の寄せ」などと言うのではなかったでしょうか。
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