超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(55) 藤原公任

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ      大納言公任

      (拾遺、雑上、449)(千載、雑上、1032)(公任集22907)


〔釈義〕

(この名高い滝は、既に水が涸れてしまい、)滝の流れる音は絶えてからもう久しくなってしまっているけれど、この滝のすばらしい名声こそは(、これをお造りになった嵯峨院の御風流な名声と一つになって、消えることなく)ずっと流れ伝わって、今もなお有名であることだ。そしてその名声を聞いて生じる名滝のイメージが、現実の有様と重なって、(本の涸れた滝跡にやがて)きれいな水が走り流れて滝の糸となって見え、(静まりかえった環境にそれが流れ落ちて石に当たって立てる)滝つ瀬の音が、今もそこから聞こえて来ることだ。(幻視と幻聴とのなかに、私はしばし入り浸って往時を偲ぶのであった。)


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、初句の「音」が「糸」となっている。

② 拾遺集の詞書には、「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、ふるき滝をよみ侍りける」とあり、千載集の詞書には「さがの大覚寺にまかりてこれかれ歌よみ侍りけるによみ侍りける」とあり、公任集には「大殿のまだ所々におはせし時、人々具して紅葉見ありき給ひしに、嵯峨の滝殿にて」とあって、作歌事情は明らかである。

③ 歌意については、例外なく「現実の滝は絶えて久しいが、滝の名、嵯峨院の風流の名は絶えることなく今も伝わって世に聞こえる」ことを讃えたものと諸註は受け取る。修辞的にはすぐれているが、内容は感動もなく駄作として評判が悪い。しかし、俊成や定家に評価された歌なので、正当な解釈を目指して検討したい。

④  この歌では、「なほ聞えけれ」は「滝の音は」をも承けるのではなかろうか、そして滝の音が幻聴となって今も聞えることを言っているのではないか。試みに下の句を「名こそ流れて滝の音はなほ聞えけれ」の形に直して見れば、歌意はよく通じる。

⑤ 「名こそ流れてなほ聞えけれ」は、名声が今に流れ伝わり世に聞えていることを言っていると共に、同時に、ありありとそのかみの滝の様が思い浮かび、そこには清らかな水が糸筋となって流れ落ち、高い滝つ瀬の音となって聞えて来る幻覚が存在していることを意味している。「名」には、「名声」という外形的意味と、滝や嵯峨院の御風流の情況の「イメージ」という内容的な意味が同時に込められている。

⑥ タ音ないしタ行音の繰り返される五七にとって替って、腰の句以下のナ音の繰り返しが顕われることは、現実の滝の流れる音の中絶にとって替って、幻覚の滝の流れる響きを出したものと見てふさわしい。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、嵯峨院遺愛の滝を題にして詠んだ歌である。普通なら栄枯盛衰・世間無常を嘆ずる悲観的な懐古の情に陥るところを、この滝が造られた時の名声が持続していることを叙して、嵯峨院の御偉業を称えると同時に、現前の滝を往時の盛況に蘇らせ、往時の瀧殿に遊ぶことになる。

② この歌は多くの註者によって駄作のように扱われている。「名」に対して、「流れ」「聞こえ」などといっても、この比喩は作為の跡が目立つのみで、逆に下手な駄洒落としか読者には聞えぬ。 

③ これに対して、「名」は名声であると同時にイメージが裏付けられていると見る時は、「流れ」「聞え」は直接の描写のことばとしてはたらく。この歌は、現実の滝の景況から転じて往時の滝の景況が現前する。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の藤原公任の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、引用されている和歌の例などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、注釈者から否定的な評価を得ているこの歌を、正当に評価しようとして、作者なりの独自の理解を展開しています。その最大のポイントは、「名」という言葉を、単に「名声」というような意味のみの言葉と考えずに、往時の滝や滝を作った嵯峨院の風流をイメージするもので、その結果、従来は「滝の音」の縁語であるとされている「流れて」「聞え」を、縁語ではなく幻覚・幻聴によるとはいいながらも、そのままの描写の言葉として理解できると主張するのであります。もっとも面白いと思われるのは、初句の「滝の音は」が下の句の「流れてなほ聞えけれ」に掛かるとする点でありまして、日本語の曖昧さを最大限に利用しながら、この歌は幻覚・幻聴による滝の流れて聞える歌であると考えるようです。


著者の桑田明氏がなぜこのような主張を持ち出したのかというと、百人一首の注釈書の中にはこの藤原公任の歌を、強く否定したものがあったからで、おそらくその代表格は石田吉貞氏の『百人一首評解』(有精堂、1956年刊)でありまして、そこにはこんな一節もしたためられております。


何も感動のないところに一体詩があり得るか。強引に自分の言語技術だけで作り上げて見ても、そこにでき上るものは、石ころよりも冷たい言葉の集積に過ぎない。有名詩人ほどが、そういう誘惑にひっかかる。一代師範のやるべきことではあるまい。


これに賛同する注釈もありまして、どうやら桑田明氏が百人一首を取り上げようとする時期には、こうした強烈な批判が立ちはだかっていたようで、そこを何とか、駄作ではなくて定家の見識によって撰ばれた秀歌であると証明しなければならなかったようです。その結果、初句を下の句にまで掛けてみるとか、「名」には滝のイメージが含まれるというような奇想天外な説明が繰り広げられまして、縁語として使われた「流れて」が、縁語ではなくて幻覚によって実際に滝が流れているという意味だと説明したわけです。


ところで、この歌に詠まれた滝は「名古曽の滝」として現存しておりまして、その跡を示す石柱と、公任の歌をしたためた説明板が今も立てられております。水は流れてはいないようですから、やはり枯山水のような滝の遺構になっておりますが、それでも千年の時を超えて往時を偲ばせているのであります。だとすると、石田吉貞氏の言う批判は正しいのかもしれませんが、そんな批評とは別にこの歌は名歌として享受されてきたと歴史は証明しているようです。


滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 歌こそ流れて なほ聞えけれ(粗忽謹製)


〔蛇足の蛇足〕

作者は、『百人一首』では大納言公任でありますが、四条大納言とも称された藤原公任でありまして、三船の才で有名な人物です。三船の才は、三舟の才とも言います。平安時代には、三船を池に浮かべて貴族が詩歌管弦の宴を催すことがありましたが、公任は遅れてやってきて、漢詩の舟、和歌の舟、管弦の舟、それぞれからお呼びがかったそうです。要するに、貴族としての教養に欠けたところがなくて、引く手あまた、もてもてだったという名誉の人なのであります。藤原道長の時代の人でありますから、清少納言や紫式部も一目置いた漢詩や和歌に秀でた文化人なのであります。


この公任は、『紫式部日記』にも登場するんですけれども、宴会の席でみんなが酔い乱れたなかを、女房の衣服の袖を触って回るという逸話があったと思います。何をしているのかというと、女房たちがどんな素材の衣裳を身につけているか、もっと言うと高級な素材のものを身につけているのは誰か、探っているのではないか、ということです。だから、紫式部は逃れようとするんであります。彼女は、パトロンから贈られた最高級服地の服を着ていたと言うことです。おそらく、その服地を彼女に与えたのは道長でありますから、才女の活躍の陰に道長がいると踏んで探索しているわけで、それを察知して逃げ回るというような、有能な人同士の静かな闘いなのであります。


歌の内容は、ある意味空疎なんですけれども、これでいいのだと思います。名園の滝が枯れたけれど、今でも評判だね、ということを迷い無く詠んでいるわけです。これは大覚寺というお寺で詠んだ歌ですから、嵯峨上皇が作った滝である(今昔物語集によると百済川成が作庭したと出てきます)というようなことが、指摘されています。これをのちのち「名古曽の滝」と呼んでいて、おそらく現代のいまでも遺跡が残っているのであります。


名は絶えず 久しくなれど 滝の音は なほも流れで 聞こえざりけり(粗忽)


公任さんの歌は、非常に分かりやすい歌であります。それだけに、助詞・助動詞の問題が浮き出るわけですね。「ぬれ」というのは完了の助動詞「ぬ」の已然形でありますが、今はまったく使われていないものでありますから、油断のならないものであります。「た」と訳せば用が済みますが、これを「てしまう」と訳すと味が出まして、その場合は強意の用法とか確述の用法と呼ぶものになるのです。ここだけの話ですが、「てしまう」と訳すくらいなら、訳さない方がいいのでありまして、そうすると意味が変わります。「久しくなったが」に対して「久しくなるが」というのは、微妙ではありますが、意味が変わりますよね。「けれ」は、「こそ」の結びで已然形ですが、係り結びというのは今はありませんので注意が要ります。「けり」は、過去なら「た」と訳しますが、詠嘆なら「なあ」で充分です。そうすると、下の句を係り結びを抜いてしまうと、「名は流れて聞こえけり」となり、「名前は今も伝わって聞こえてくるなあ」となるんでしょうね。


一条朝時代の四納言という言い方がありまして、一条天皇の時代に大納言・中納言だった四人の評判がすこぶる高いのであります。この藤原公任のほか、藤原斉信、藤原行成、源俊賢でありまして、彼らの政務処理の正確さと速さに、若い世代がたじたじしたという話があったはずです。とてもその下で仕事するのはかなわないから、いっそ出家しようなんて話があったと思います。この「一条朝の四納言」という言い方で注意しなければならないのは、その四人の上にリーダーの藤原道長がいたということでありまして、実は五人組なのであります。これと同じ例は「三銃士」でありまして、あれも実は四人組であります。


三船の才の話で、気になるのは、公任が遊宴の場に遅れて行ったということです。遅刻するというのは、通常はアウトでありまして、多くの人に迷惑を掛けて評判を落とすものであります。ただし、有能な人や、特殊な技術を持っている人、とても人気の高い人に限っては、あんまり勇んで会場に一番乗りしてはダメなんじゃないでしょうか。ちょっと遅れて、参加者があらかたそろったあたりで姿を現して、さっと挨拶をかましまして、その場に入ってゆくのがいいと思います。カラオケなんかも、うまいやつが一番乗りしてマイクを握っていたら、みんな逃げちゃいますよね。上手な人はあとからやって来て、頼まれてせがまれてねだられてから十八番を披露するのがいいようですよ。公任はそういう心得もあったのだろうと思います。 

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