超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(47) 恵慶法師

八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり    恵慶法師

    (拾遺集、秋、140)(拾遺抄、92)


〔釈義〕

(庭一面の)雑草の上に葎が幾重にも蔽いかかり(門にまでもまつわり着いて拡がり)繁っているこの住居の、荒涼としてさびしい有様の中に、(どこやら漂う秋の化粧のすがすがしさ、さわやかさ! まこと、)人こそは(こんなさびしい有様にかまけてか)誰も訪れる姿が見えないけれども、さすがに自然の秋は(この荒涼さにも拘らず、所の差別をせずに、ここにも)とうとうやって来たことだ。(ほんとうによくも尋ねて来てくれた、ここに大宇宙の心があるのだなあ、そう思うと、曽ての人間の栄華の跡の空しさに沈み込んでいた愁いも慰められるのである。)


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、拾遺集の詞書に「河原院にて、荒れたる宿に秋来といふ心をよみ侍りけるに」とあり、源融ゆかりの河原院の廃墟で歌会が催された時の作である。

② 八重葎は蔓茎に刺があり、他の雑草の上から這いかかる草である。源氏物語の蓬生によれば、庭の面が見えないほど繁り、軒を這い上り、門を閉じ込めているとある。

③ 北村季吟の八代集抄には細川幽斎(玄旨)が伝える三条西実枝(三光院)の説として、有為転変の人の世の哀感、庭園の哀感、秋の寂寥感による三重の哀感のあるものとして見るべきだとあるが、下の句を見ると、寂しさが軽減される趣である。

④ 古今集にある秋を迎える歌を検討すると、明るく知的な反応を示し「をかし」の趣を追究する歌があるが、その一方で、悲しい物思いに誘われ「あはれ」の情緒を生じた歌がある。拾遺集の秋を迎える歌は「をかし」の趣の歌であり、恵慶法師の歌はその中に見える。後拾遺集以降は、「をかし」の歌と「あはれ」の歌が混在するが、「をかし」を掘り下げて「あはれ」の趣に深まったものが見られる。

⑤ 恵慶法師の歌は、八重葎の繁った廃居の寂しさが秋の訪れによってさびしい度合いを加えたものではなく、荒廃した住居に人々が寄り付かなくなるのと対照的に、忘れることなく訪れて来る自然の秋を「あはれ」といとしむ趣である。

⑥ 「人こそ見えね」と「秋は来にけり」は、人と秋、人情と自然の対比である。また、「八重葎しげれる宿の」と「さびしき」を同格とする説は正しくなく、「八重葎しげれる宿」は実は河原院という対象を固有名詞的に表現したもので、主語として扱うべきものである。「さびしきに」の「に」は普通接続助詞として扱われ、順接・逆接のどちらであるかが問題となるが、これはそういう機能を持つ前のもので、「そうした情況下において」の意である。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、拾遺集の詞書にある事情で作歌されたもので、歌会の場所と時期に合致する内容であり、荒廃した河原院を訪れての実感である。

② 恵慶法師は、紀貫之の「訪ふ人もなき宿なれど来る春は八重葎にも障らざりけり」(新勅撰8)を本歌としているが、本歌とは趣が違う。本歌では、八重葎は枯れ果てた残骸であり、その下から若草が生えて希望の趣がある。この歌は、八重葎が今絶頂の繁りをなし、栄耀栄華を極めた河原院が荒廃しているため寂しさを感じる。詠者は秋気が漂うのに気付いて爽快の感を起し、心の安らぎを覚えている。

③ 堀辰雄は「大和路・信濃路」の「十月」において、唐招提寺を訪れて憂愁の底に沈んでいたが、太陽熱を吸収した大円柱のぬくもりに心を慰められた。この歌でも、有為転変の世相に寂寥感に浸っていたが、秋来の感覚に宇宙あるいは仏の心を感じ取って、人間の心と対比した結果が下の句の表現となった。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の恵慶法師の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、八代集から秋の到来の歌を例示して具体的な検討を加えた部分、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。今回も〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、この歌を三重の寂しさを重ねた歌だとする、三条西実枝や細川幽斎由来の北村季吟の理解に対して、真っ向から異を唱えまして、八代集所載の秋の到来を告げる歌を例示して、これを二つの傾向があると分析して、秋の到来が爽快感を生んでいるという歌だと主張しております。古くは、「こそ~已然形」による逆接強調という文法事項が知られていなかったため、四句目と五句目が対照的な心情を意味することが感知されなかったのかもしれません。概ね、著者の言うような理解の方向で差し支えないものと思います。


著者は、堀辰雄の文章などを参照しつつ、秋の到来の感覚に宇宙の摂理であるとか、仏の心などというものを感得して詠んだ歌だと結論付けております。これはむしろ、科挙制度の中で育まれた漢詩制作上の、人事と自然の対比から学んだものが反映しているのではないでしょうか。源融が営んだ河原院の荒廃というのは、それこそが唐の都の長安の荒廃などを想起させて、人事は儚く移ろいやすいものであるが、自然は悠々として繰り返されているというような感想を抱かせたのだと思います。現代でも、第二次大戦時に造営されて放棄された場所を巡るとか、バブル期に巨額の予算を付けて建造した施設などの廃墟を紹介するというような趣味がありますけれども、この恵慶法師の視線には類するものを感じます。ついでに余計なことを言うならば、著者は「秋は来にけり」によって心の安らぎを覚えるというように、魂の救済的な理解を示していますが、この歌のもっとも重要なのは「人こそ見えね」という荒廃の極まった廃墟へのまなざしでありまして、都の真中に広大な河原院跡が存在し続けることの虚しさといったものを、歴史的な有為転変の結果として受け入れているという歌なのではないでしょうか。


〔蛇足の蛇足〕

前に扱いました北原白秋の『小倉百人一首評釈』では、解釈の末尾に、「これからも一層寂れてゆくことであろう」と付け加えておりますが、これは佐佐木信綱の『百人一首講義』の影響によるものと思われまして、信綱は次のように訳の後に付け加えております。


さるからに、いとどさびしくなりまさることは、余情にこめて、ただ一むきに、よみおろしたるなり。


そう言われてしまうと否定するのも無粋ですが、往時をしのんで現在を歌に詠むわけで、将来の事なんか考えていないように思うんですがいかがでしょうか。それともう一つ、白秋の句意に、「人は昔の人」と解説しているんですが、評釈の訳「人の住んでゐる姿とて目につかぬ」を見る限り、訳の上では現在の住人のようでありまして、なんとなく矛盾が生じております。この「人」に関しては、「主らしき人」すなわち河原の左大臣源融と考える説と、白秋が指摘するように「昔の人」説が対立するようです。おそらく、この「人」はそのどちらでもなく、荒廃した邸を「現在訪れる人」の意のはずです。今回取り上げている桑田明氏も、〔評釈〕を見る限り、こちらの意見です。「見え」は、下二段動詞の「見ゆ」の未然形ですが、「見ゆ」は、「見える」のほかに「姿を見せる・現れる」というような意味がありまして、到来した秋との対比で荒廃した邸には来客はもうないという表現でしょう。


「人こそ見えね」の「人」を、かつての住人源融やその当時の来客たちとするなんて、どうかしていると思うのでありますが、そうとる場合は拾遺集の詞書はろくに参照しないのでありましょう。やはり、「こそ~已然形」の逆接強調の用法が、案外新しい文法の発見事項だったということなのかもしれません。


さて、気を取り直して確認すると、平安時代の京都のランドマークであった、河原の院という邸宅の荒廃した様を詠んだ歌であります。河原の院を造営したのは、『百人一首』の第14番「しのぶもぢずり」の歌を詠んだ河原左大臣源融でありますが、海水を運んできて池に満たし、そこで海辺の如く塩焼きを実現したというのですから、古代のディズニーシー、もしくは水族館なのでありましょうか。これは、平安時代の人で河原の院を見た人なら、納得の歌ではないでしょうか。注釈書を見ると、歌自体が美しいもの、すばらしいものというコメントに接するんですが。うんざりいたします。現代の歌謡曲もそうですが、誰もが思い当たることを、当たり前の言葉でしっかり表現した時に、共鳴すると言いますか、感動が生まれるのであって、この恵慶法師の歌などは、その見事な例かと思います。言葉は平凡ですが、荒れた大邸宅をストレートに、だからこそ巧みに詠んでおります。雑草の生えた寂しい庭ですから、これを美しいとか、すばらしいとか、そう言ってはなりません。廃墟に侵入した人がしばしばあったのでしょう。歌の詠みぶりからすると、今日の訪問者は、恵慶法師だけという建前の歌であります。美しかったのは造営され源融が栄華を誇った時期でありまして、荒廃した今が美しかったら千客万来でありますが、荒れ果てていて八重葎に阻まれ侵入すら難しかったかもしれないのです。和歌なら何でも美しいというのは妄想でしょう。


分からない動詞であるとか、知らない名詞・形容詞が一つもありませんから、あとは古典文法の問題にすぎないわけで、解釈は簡単のはずなんですね。簡単のはずですが、「見え」「見ゆ」をはじめとして実は容易ではないわけです。


島津忠夫氏(角川ソフィア文庫)は、「宿の」の「の」を同格の「の」に取るんですけれども、実はごく普通の日本語文法では、この同格の「の」を認めないと言うことがありますので、ここは主格に取るしかありません。白秋も主格で訳しています。桑田明氏も主格であると分析しています。受験だと、同格の「の」ってあるわけですが、あれはお子様メニューですから、それは使わない方がよろしいようです。その結果、「さびしきに」の「に」は、接続助詞と解釈する事になりまして、理屈っぽい方は理由条件と解釈しますが、普通は逆接確定条件に取ることになるでしょう。桑田明氏は、ここでも独自の見解を取っていて、順接でも逆接でもないと主張しています。ともかく、「八重むぐらの茂っている河原の院が寂しいところに、人は姿を見せないものの、秋は来たことだ」というような内容であります。よろしいでしょうか、同格の「の」はいけません。


型通りに取れば、非常に分かりやすい歌でありますが、本当にそうでありましょうか?


京都で豪華な邸宅が荒廃する、ということは少なからずあったことでしょうけれど、この歌の舞台となった河原の院は、主人の源融の羽振りがよかっただけに、その後の落魄ぶりが目立ったと言うことでしょうか。河原の院には宇多天皇があとで移住するんですが、その天皇の前に源融の幽霊が出たという話がありますね。「我が輩のすみかだから出ていってくれまいか」と融は天皇に言うわけです。つまり、「気楽に侵入してくれるな」と脅したようです。実際は、空き家に侵入して勝手に住み着いた輩がいただけかもしれません。恵慶法師の歌の内容を現実にあることとすると、誰もいないなあとたたずむ恵慶法師は、後から来た客には幽霊に見えることでしょう。幽霊話という物はそういう物で、肝試しの先客が幽霊に見立てられると思うんですが、いかがでしょう。侵入者が侵入者を見付けます。


この歌は実際には、河原の院で催された歌会の席で、「あれたる宿に秋来たる」という題に従ってひねり出した歌のようであります。実は歌人仲間が集まってわいわい楽しんだわけで、あくまで恵慶法師が日ごろの河原の院の様子を歌に表現したものと考えるべきでしょう。


八重葎 茂れる宿の 歌会に 人こそ詠まね 我は出来けり(粗忽謹製)

八重葎 茂れる宿の すさまじさ 秋は来たれど 人は寄り来ず(粗忽謹製)


河原の院の跡というのは、渉成園(しょうせいえん)「枳殻邸」(きこくてい)として現在も京都六条後に残っているそうでありまして、何かの折に塀のそばを通過したことがありまして、しょぼくれた門と小さな紹介の立て札を見て、何だ小さくなって残っていたのか、などと思っていたのですが、いまグーグルで確認したら信じられないくらい巨大な敷地でありまして、自分の至らなさを痛感いたしました。象を撫でてその巨大な脚の一部に触れて、「木の幹みたいだ」と言ったのは、おそらくは私のことであります。今度機会が有りましたら、訪問して、千年以上の歴史というものを体感してみたいと思います。


一つ確認を忘れておりました。この恵慶法師の歌の下の句というのは、漢文の発想が入っているわけでありまして、かつてあれほど詰めかけた客の姿が今となっては一人も見えないのに、今年も秋という季節の到来だけはあった、という人事と自然の対応が一首の眼目なのでありましょうね。漢詩の場合には、それが科挙という国家試験に組み込まれていたわけですから、人事と自然を対比するわけですね。転変しやすい人事というのは、王朝が交代する中国としては非常に重要な視点であったはずで、隆盛を極めた都も、時が移りうち捨てられれば荒廃するものだという感覚が必要であります。これを盛り込まないと、科挙というような試験では零点だったかもしれませんよね。これに対して、悠久の自然を詠むわけです。黄河も揚子江も今も昔も流れている、春夏秋冬も人事と関係なく再来するということを強調いたします。それは、言ってみれば漢民族を支える母なる大地、中国国土というものでありまして、これは不変であるということです。恵慶法師は、そのあたりのお勉強が得意だった可能性は高いと思います。


広大な国土ですが、平安時代に中国へ行った人たちは長安などに集中していたんでありましょうか。日本人同士で集まることがあったのかどうか。実は、日本人が当時現地で詠んだ和歌というのが、実際のところは一首も無いのではないか、という指摘があります。 阿倍仲麻呂のような歌が他にあるなら見て見たいものであります。

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