超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(44) 藤原朝忠
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠
(拾遺、恋一、678)(拾遺抄、恋上、242)(朝忠集19424)(天徳四年内裏歌合35647)
〔釈義〕
(一度は情を見せて契りを交してくれたものを、あれ以来掌を反したように冷淡になって、一向に私を寄せつけぬ人。なぜあんなに冷淡になったのか、なぜ私は嫌われたのかと、薄情なあの人が恨めしく、嫌われるわが身が厭わしくて、身も世もあらず遣瀬ない。あの人を慕いながらまだ許されなかった頃には、嘆いてもこんな辛さはなかった。一度許された時から私はあの人なしには生きられない身に成り変ってしまったのだ。ああ、なまじ)世の中に、恋しい人と逢うことが絶対にないのだったら、却ってまあ、冷淡な人をも嫌われる不束なわが身をも、恨んで苦しむことがないであろうに!
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、拾遺集の詞書に「天暦御時歌合に」とあり、天徳四年内裏歌合にも出ていて、題詠の歌である。
② 北村季吟の八代集抄では、拾遺集では「未逢恋」だが、百人一首では「逢不会恋」とする古人の説を紹介している。さらに、季吟は東常縁の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」とこの歌は同意であるとする説を指摘している。
③ この歌は、古今集の「世の中に」の歌ととともに反実仮想の歌であるが、体験による心の染着ということが反実仮想の詠をなす因と言える。この歌も、逢うことの体験が既に存在して、人をも身をも恨む体験を現在なしていると考えられる。
④ この歌は、「逢不会恋」の歌だとみるべきだが、問題は、わが恋における特殊性をさすのか、世間一般の恋をさすのかということであるが、中古中世の歌においては、特殊的事態と世間一般の観念的事態を重ね合わせていると見るべきだ。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、東常縁のいうように、業平の「世の中に」の歌の影響を受けていて、「逢不会恋」の歌で、一度契った人に顧みられなくなった恨みを主題とする。恋の苦悩を身にしみて知った事態である。
② この歌のイメージは、曽て一度逢見たもののそれ以後訪問も音信も拒否ないし無視され、相手の面影のみちらつき、日夜夜ごとに輾転反側する片恋の人である。そうした人物は貴公子でも女房でもよいが、男子の方がふさわしい。
③ この歌の上の句を「世の中に絶えて逢ふことのなかりせば」とした場合、下の句に物足りなさを感じる。「なかなかに」という副詞を加えることによって、懐疑の余地を残し、説得力を持った。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の藤原朝忠の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。なお、このひとつ前の歌から、それまでと違って類歌を引用することが無くなりまして、今回などは北村季吟の八代集抄の註に沿って検討を加えた内容に終始しています。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、季吟の指摘した点について、拾遺集の排列による「未逢恋」を反実仮想表現の先例である業平の「世の中に」の歌によって否定し、「逢不会恋」の歌であることを、著者独特の「体験による心の染着」というような捉え方で主張しています。さらに、詠作主体を貴公子に想定するほうがよいと結論付けています。
古今集 春上 53
渚院にて桜を見てよめる 在原業平朝臣
世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
反実仮想の歌としては有名な歌でありまして、「ましかば~まし」が文章語であるのに対して、「せば~まし」は音数が少ないことからなのか和歌で使われるように思われます。これを、主旨と言いますか事実に還元すると、次のように変形できるかもしれません。
世の中に かくも桜の 咲き散れば 春の心ぞ のどけからざる
これでも一首としては成立するはずでありまして、こうした事実と言いますか実感に対して、桜がこの世に存在しなかったら、春を迎える我が心は安穏だったろうに、桜のせいで春は安穏の日々ではないことよと言っているわけです。これと同じように、朝忠の歌を変形すると次のようになるでしょうか。
逢ふことの たまさかあれば なかなかに 人をも身をも 恨みてぞある
これもまた一首としては成立するような気がいたしまして、ふと思うのでありますが、「世の中に」の歌は、あの業平が渚の院で詠んだから名歌なのであり、この「逢ふことの絶えてしなくは」の歌も、朝忠が歌合に出詠して詠んだから名歌なのでありましょう。特別な反実仮想表現が無くなった現代から見ると、いかにも「せば~まし」とか「なくは~まし」という表現は雅びですが、詠作当時に雅びだった保証はないような気がします。
なお、いつもなら豊富な類歌を引用する著者が、まったく引用などをしないで済ませているんですが、この朝忠の歌は、三句目の「なかなかに」で検索すると、本歌とまでは言えないまでも朝忠の発想のもとになった歌が見付かります。なぜか、注釈書の類は業平の歌の指摘で満足して、それ以上の追究をした形跡がありません。
万葉集・巻第四・750
(さらに大伴宿禰家持の坂上大嬢に贈れる歌十五首)
思ひ絶え わびにしものを なかなかに 何か苦しく 相見そめけむ
念絶 和備西物尾 中中荷 奈何辛苦 相見始兼
古今集・巻第十二・恋歌二・594
(題しらず 友則)
東路の 小夜の中山 なかなかに なにしか人を 思ひ初めけむ
〔蛇足の蛇足〕
二句目の「なくは」は、古くは「なくば」と濁音で表記するのが普通で、かつては接続助詞の「ば」とされていたものが、近年は係助詞の「は」による仮定条件の用法とされています。また、末句五句目の末尾の「まし」は、いわゆる反実仮想の助動詞で、「~だったろうに、実はそうではない」という語法と説明することがあります。その結果、二句目の「なくは」も反実仮想の条件節となりますので、「もし~なかったなら」と解釈することになるでしょう。
なお、この朝忠とその弟の朝成は、ともに「三条中納言」と称されることがあったため、混同されることがあったようです。ちなみに、朝忠は、康保三年(966)に中納言で没していますが、朝成が権中納言になったのが安和三年(970)、さらに中納言に昇進したのが翌年の天禄二年(971)のことです。『続古事談』には、村上天皇が昇殿して来た朝成を初めて見て、その容姿が魁偉であるため、傍らにいた朝忠に、「あれは誰?」と質問したという話がありまして、同父同母の兄弟なのに、兄の朝忠に弟の朝成がまったく似ていなかったことが分かります。朝忠も朝成も、笙に関してはともに上手だったらしく、『古今著聞集』には兄弟そろって演奏した記録が残っておりますが、歌に関しては朝忠が得意だったようで、歌合などに参加し、屏風歌も詠み、三十六歌仙の一人でありまして、家集に『朝忠集』があって、右近などの女房との贈答歌を収めています。
「朝忠」の読みは、近代では「あさただ」が普通ですが「ともただ」の可能性もあるようです。「朝成」に関しても、「あさひら」と読むのが普通ですが、「ともひら」「あさなり」「ともなり」の可能性もあるでしょう。検索する時には注意が必要だと思います。
語法に関して、少々確認いたします。「たえてしなくは」の「たえて」は副詞で、否定表現に掛かる副詞。「まったく」とか「全然」「絶対に」の意です。「し」は強意の係助詞で、間投助詞と言っても構わないでしょう。解釈の際は無視するのが普通ですが、この場合は逢うことがまったくない、ということをさらに強めています。「なかなかに」は、現代語と違って「かえって」とか「むしろ」というような、条件に対して結果が予期したものとねじれてしまうことを意味しています。逢わなければ、普通は恨むんですが、「逢うことがまったく全然みじんもなかったら、かえってむしろあべこべにあなたのことも自分のことも恨み言を言ったりしなかったろうに」というのが表面の意味ですけれども、実は「なまじ逢ったものだから、あなたも恨めしいし我が身もうらめしい」という後悔の歌というのが正体です。よって、朝忠の歌は表現と違って、言いたい真意の方はかなり恐ろしい内容ということです。変形の別のバージョンを用意しました。
逢ふことの げにありしかば 心より 人をも身をも 恨むことかな(粗忽謹製)
※「げに」、は「本当に」「まことに」の意。
和歌だと思いますから、いろんな先入観にまみれてしまうのですが、43番の敦忠の歌も、そしてこの44番の朝忠の歌も、表現だけを問題にすれば別に恋の歌であると断定する必要はないのであります。人と人とが出会わなければ、深い好悪の感情にとらわれる事はないわけで、一般真理、聖書のありがたい言葉のような気にさえなってくるわけであります。朝忠の歌は、古語が満載ですから、そのあたりの知識をいろいろ知らないと面白くはないのであります。しかし、知っていれば、ごく普通に解釈出来ますから、気負いのない、すらすらと詠んだ歌なのであります。この歌のいいところは「人をも身をも」とあるところで、「あなたをも自分をも」呪っているんでありますね。「恨み」は、実は活用が今とまったく違いますが、意味も「文句を言う・不満を言う」というのが普通ですから、この歌自体が相手に対する呪いの呪文なんであります。逢瀬があったばかりに、あなたを呪うことだ、逢わなければよかったよ、と言っているのでしょう。
ここでも、「人」は二人称がよさそうでありまして、三人称では面白くありません。なお、古注釈には反実仮想の「なくは~まし」の語法が分からなかったために、「関係しなければ、誰の事も恨まずに済む」というような人生訓に理解することもあったようです。よくよく見ると、昭和初期に出た北原白秋の訳なども一般論でありまして、近年になるまであまり反実仮想という表現が分かっていなかった可能性が高いようです。
作者の藤原朝忠という方は、藤原定方という人の子息なんだそうでありまして、親子二代で『百人一首』に入っているんです。撰者である藤原定家が、家業を継承するというような意識があった故の選抜かも知れませんが、和歌を詠むというような営み自体が、集団による遊びでありまして、お父さんが主催すれば、その家のお坊ちゃまが参加すると盛り上がるわけで、ちょっと才気があって、やる気があれば五七五七七くらい、それなりに作ったと言うことかも知れません。でも、藤原定方って誰よ、ということになりますが、この方は三条右大臣という名前で出てきておりまして、23番の歌「逢坂山のさねかづら」の歌を詠んだ人であります。ただし、この親子は、説話の方面や歴史物語では影が薄いのでありまして、子孫が衰退すると次の時代には忘れ去られたことが分かります。
朝忠の兄弟で強烈なのは、前にも触れた朝成という人物で、すさまじい食事の話が伝わっております。佐佐木信綱も『百人一首講義』で紹介したくらいですから、せっかくなので触れておきます。
朝忠の弟の朝成は、兄と違って容貌が魁偉と言いますか、背が高くてはち切れんばかりに太った人だったそうです。その朝成が肥満を気にしまして、身動きもかなわないから、医師に相談したんであります。そのお医者さんが言うには、お茶漬けをお食べなさいと言うことだったのであります。お茶漬けなら食べてるよ、見てくれるかい、というようなことでいつもの食事を見せようとしたのであります。今なら「お茶漬けダイエット」ということになって、受けるかもしれません。干し瓜というのを、おかずにして、鮎鮨と冷たいお茶漬けを食べるんですけれども、ものすごい量の食事をあっという間に平らげたんで、医者が逃げ出したというのです。
ちなみに、容貌も特異なんですが、性格も変わっていて、ライバル視した人物を呪って悪霊になったと言い伝えられているんであります。朝成の三条通の旧宅がどうなったのかというと、今はある建物になっているんですね。私はそこに何度か出入りしましたが、冷房しなくてもひんやりしているんであります。初夏のころに室内にいて、もう冷房ですかって聞いたら、いやこの建物は涼しいんですよって、職員が言ってました。悪霊の屋敷跡だから買い手が付かなかったものを、バブル期に買った会社があるのです。知らないで買ったんでしょうね。京都のど真ん中、六角堂の近くでありますから、事情を知っている近所の人は笑ってみていることでしょう。今で言うところの「事故物件」というやつでございます。三条通のどこかってことで許していただきたいと思いますが、今なら、グーグルの地図などでどんな建物があるか確認できますよ。
そやな、京都の人は、ほんまにいけずやさかい、うまいこと言うて売りはったんやろな。
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