超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(42) 清原元輔
契りきなかたみに袖を絞りつつ末の松山波越さじとは 清原元輔
(後拾遺、恋四、770)(元輔集19335)
〔釈義〕
(あの頃は)固く将来を約束しましたなあ。互いに涙に濡れた袖を絞りながら、(もしも外の人に愛情を移すようなことがあったら、きっと末の松山を波が越えもするだろうといった古人の歌を引合いに出して、その)末の松山を波が越すなどといったことのないようにしましょうと、おおほんとに!(それが、まあ、こんなことになろうとは!なんということでしょうか?!)
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、後拾遺集の詞書によれば代作であり、古今集1093「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」の歌を踏まえて、愛情の不変を誓い合ったが、愛の破綻を嘆き相手の心変わりを難じた歌意である。
② 本歌では「波も越えなむ」と「越ゆ」が用いられているが、この歌では「波越さじとは」と「越す」が用いられている。この本歌から派生した歌を見ると、「越ゆ」「越す」がともに用いられている。「越ゆ」は、何かの上に出るまたはその向こう側に出ることであり、「越す」は障壁・限界となるものによって抑止されることなく通過して出ることを意味する。
③ 元輔の歌において、「波越さじとは」を「波が越さないだろうとは」と訳したり、諸家の註のように「波が越さないつもりだとは」と訳したりすると、「契りきな」に続かない。
④ 「む」や「じ」の用例の中に、「~するようにしよう」「~しないようにしよう」のように訳す必要のある例がある。よって、「じ」には一種の否定意志として、他の行為や現象の防止という意味があると考える。「波越さじとは」には、「波が越さないようにしようとは」の意味であり、これだと「契りきな」に掛かって意味が通じる。
⑤ この歌の「越す」は、松山の障壁をも突破して波が外に出るように、誓い合った枠から押し出て他の人に愛情を移すことを意味すると見られる。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、心変わりした女に対して、男の恨みの気持を述べた歌であるが、変わらぬ愛の誓いである本歌を持ち出して、それと対蹠的な脆い愛の破綻を示している。さらに袖を絞って契ったイメージを加えて、現在の索漠たる状態を印象付けている。
② 上の句に誓いの場面を描写し、本歌の引用を末二句にとどめ、全体を回想の記述にしながら、趣旨はそこから逆転した愛の破綻の嘆きと恨みであり、それを余情に託している点は、破天荒な奇想の歌である。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の清原元輔の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、引用されている和歌の例、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕では、本歌を指摘しつつ、本歌の「越えなむ」が元輔の歌では「越さじ」となっていて、動詞が「越え」から「越す」に変えられている点に注意を促しています。その上で、「じ」の文法的な意味を検討して、これが他の行為や現象の防止という意味に解する必要があることを主張しています。「じ」を単純に打消の推量とすると「越さないだろう」となり、「じ」を単純に打消の意志とすると「越さないつもりだ」となって、初句の「契りきな」との接続に支障がある点をうやむやにしないで、積極的にこの和歌の意図に即した文法事項を探っております。さらに、〔鑑賞〕においては、本歌を下二句に引用しつつ、上の句は過去の愛の誓いの場面であり、その後の愛の破綻や恨みの心情が直接表現されずに、余情として出て来ることを的確に指摘していますが、その点は古注釈などもすでに指摘済みの内容です。
〔蛇足の蛇足〕
元輔さんの歌は初句切れの歌であります。ですから、初句が実は五句目の後に回り込んで、一首が完結するわけです。「浮気はしないと約束したね」と言うんですから、今は裏切られて泣いているんですね。約束の時は、「互いに袖の涙を絞って」という相思相愛、極まる恋情のなかで夢うつつだったわけですが、今は「一人で失恋の涙を袖に流して」いるわけでありまして、夢破れたあとの失恋の悲しみが余情として浮かぶわけであります。
この末の松山は、貞観地震を前提とした歌枕であった可能性は大きいのではないかと思うのです。『奥の細道』の旅では、松尾芭蕉は立ち寄って「末の松山」を見ておりますから、江戸時代でも名所だったと思われます。そして、2011年東日本大震災の折の大津波だと、末の松山を波が越えたみたいでありますから、1000年に一度の大災害に関わる歌枕を元輔が詠み込んでいるわけです。京都の歌人が、遠い陸奥の歌枕を詠む背景には、古代の律令国家を揺るがした大事態が影を落としていると見るべきでしょうね。この点に触れた論考に、河野幸夫氏「歌枕『末の松山』と海底考古学」(『百人一首のなぞ』學燈社・2008年所収)があり、さらに徳原茂美氏「末の松山を越す波」(『百人一首の研究』和泉書院・1015年所収)が詳しく考察しております。徳原氏は、貞観地震と古今集・東歌の関係について、両者が直接結び付くのではなく、貞観地震以前の大地震・大津波の記憶が風化した段階で「君をおきて」の歌が成立していたのではないかと推測しています。
さて、『今昔物語集』本朝世俗部、巻二十八の第六話に、清原元輔さんが登場であります。
賀茂の祭りの使いをつとめた時に、落馬するというハプニングがあったというのです。それも、一条大路の殿上人が見物していた真ん前のことで、ご老体だからみんなはらはらして気の毒がっていたというのですね。ところが、夕日のなかを立ち上がった清原元輔は、はげ頭をぴかぴかさせながら演説をぶち始めたわけです。この時代の貴族というのは、頭髪をとても恥ずかしがって必死に隠すものなんですが、この人は家来が渡そうとする冠を無視して「皆さんに申しあげたいことがある」と仁王立ちしたわけです。頭髪が恥ずかしいくらいですから、禿げ頭はもっと恥ずかしいものだったようで、人前では絶対に見せてはいけないもののようです。にもかかわらず、何をこの人は始めたのか。
すっぽんぽんのお父さんに毛がないわけですから、大爆笑が起きてしまうんですが、笑っている若い貴族の一人一人のところを回りまして、落馬がどうして生じたか、過去の貴族の落馬にどんなのがあったか、詳細に語って聞かせたそうです。「だから笑うでない」と言うんですけれども、はげ頭の言うことですから、みんな笑いが止まらないんであります。いつも笑いを取っていた人です、というような落ちが付いていますから、面白い人だったと言うことなのです。
貴族と言ったって、腰には刀を差して宮中に上がりますし、馬には乗るし、日頃の鍛錬は弓矢の稽古なんであります。つまり、貴族はもともと武人でありまして、政治と軍事は一体のものでありましょう。鎌倉時代に武士の政権ができたというのは、まったくの嘘っぱちでありまして、下級貴族や地方の官僚が武士のような存在だったわけです。平安時代だって、地方で反乱が起きれば中央から制圧に行ったんですから、貴族だって軍事的側面が大きかったのであります。
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