超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(38) 右近
忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな 右近
(拾遺、恋四、870)(六帖、33813、ちかふ)(大和物語84)
〔釈義〕
あなたに忘れられている私の身は、(生きていてもつまらないから、捨てられた激しい悲しみで失せても)惜しいとも思いません。それとは反対に、(私にとって懸替えのない、)私に曽て愛を誓って下さった人の命が、(誓いに背いたことへの神仏の咎めを受けて失われることになるのではないかと思うと、それが)ただもう惜しくもありますことよなあ!(あなたのお命がなくなったのでは、私に唯一つの頼みの綱―あなたの愛がいつか元に戻ることのはかない望み―が切れてしまう、それが何よりも私につらくこたえるのです!)
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、「ず」を終止形として二句切れの歌と見るのが普通で、「誓ひてし」は「人」の行為であり、誓ひに背いたから人の命の失われることが惜しいという意味である。安東次男氏などは、「ず」を連用形として三句切れの歌と見るが、三句目「誓ひてし」の連体形止めは普通使わないものであり、命の失われる「人」の行為の記述がなくなってしまう。
② この歌を二句切れの歌だとした場合、自分を捨てた男への皮肉や恨み言ととるか、恋の純情ないし未練ととるか分かれ、判断は時代の心に即したほうが妥当である。
③ この歌は、古今六帖では「ちかふ」という題に所属する。「誓ふ」は、「神仏の人を救う請願」と「人の何かについての誓約」に分けられ、後者の場合例外なく愛情に関する誓いであり、愛を誓う場合と反対に「恋せじ」「逢はじ」という場合に大別できる。
④ この歌に似た歌を検討すると、誓いに違背する者は神仏の罰を受けて命を召し上げられることを承認するという内容である。薄情な人を拒絶したり、薄情な相手の翻意を求めるもの、警告を発するものがあり、これに対して相手の誤解を解こうとするもの、軽くいなすものがある。
⑤ この歌と近い歌意を持つものを見ると、断ちきれぬ恋情の告白や、誓いを破ってつれなくする愛人への未練を愬え翻意を促しており、皮肉や風刺ではない。
⑥ この歌の二句目の「思はず」を、「辛くも思わない」と解すると皮肉な当てつけの歌になってしまうが、忘れられてショックを受けているわが身を「惜しく思わない」の意とし、誓いをした男がまた自分を愛してくれることを期待してその人の命が惜しいとすると、「惜しく思わぬ」と「惜しくもある」が完全に対照的である。
⑦ この歌は、初・二句に前置き的に自分の事を怨みを含んだ悲しみの気持で述べ、三句以下に本題として相手の事を一気に述べるのであり、「ず」は終止形で、二句切れの歌である。
⑧ この歌の、前半後半が対照的である構成は、35「人はいさ」の歌と類似している。「人はいさ」の歌は、三句目「故里は」に主人公の宿りに対する無条件の愛着が示され、一首全体の基調となった。この歌では、三句目「誓いてし」が一首全体の基調を為し、自分にとって「誓いてし人」が懸替えのない大切な人を意味し、愛人の本意を促す歌となっている。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、怨情を露骨に出さず、その人の命を惜しむという愛情を愬えているが、主観的な語を使っていない。初・二句と三句以下は、「忘らるる」と「誓ひてし」、「身」と「人の命」、「思はず」と「惜しくもある」が完全に対照的である。
② この歌は、初・二句で絶望に悶える女房の姿が浮かび、三句目以下、垣間見の場面、神かけて愛を誓い合った場面、男があらぬ女と睦んでいる場面、もとの女の嫉妬に狂おしくなる姿、男が忽ちに神罰を受けて頓死する場面、もとの女が嘆き悲しむ場面が展開される。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の近江の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、引用されている和歌の例、さらに音調面の分析などがありましたが、それらを今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、この歌を二句切れの歌とみなして、その前半と後半の対照的な構造を明らかにしていますが、歌の例を分析して、男女が「誓ふ」歌には命を懸けて神仏に愛情を誓うものであることを突き止め、さらに愛人の命が失われることを「惜しい」と訴えるものだということを主張しています。よって、この歌は、著者の読解によれば、皮肉の歌ではなく愛情を示した歌ということになるでしょう。
なお、安東次男氏『百人一首』(新潮文庫、1976年刊)のこの歌に対する、注釈の内容を簡単に紹介しておきます。
歌意 捨てられることなど考えもしないで、愛を誓ったけれど、いっしょに誓ったあの方が罰に当たって死にでもしたら、ほんとにおかわいそう。
① この歌は大和物語に見えるが、大和物語は続けて右近と権中納言敦忠との恋を描いているから、物語の作者はこの歌の相手を敦忠だと見ている。
② 二句切れの歌と解するのが通説だが、誓ったのはこの歌の作者だと見るもう一つの文脈を排除できない。連体形「し」を終止に用いて詠嘆を表す語法は源氏物語などにもある。
③ 男への恨みには違いないが、怨念の歌とは違い、また男がこうむる神罰を心配している献身的態度でもない。男など信じなくなった女が、自分も一途であったと振り返る心と、この男だけは今猶信じたいと思う女心を、「ちかひてし」でたくみに掛けた歌だろう。
③の末尾にあるように、近江の歌の三句目は、詠作主体が「ちかひてし」と、相手の男が「ちかひてし」の二重表現であるというのが、安東次男氏の主張で、その結果、歌意にあるように、「愛を誓ったけれど、いっしょに誓ったあの方が」というように、三句目を二度訳しております。
本来は宮廷女房が裏切った相手を皮肉る歌だったものが、中世以降の注釈書では相手を心配する愛情のこもった歌とみなされてきたようで、著者の桑田明氏は通説を補強する方向で考察を深めています。安東次男氏は、二句切れを否定して三句切れに傾き、さらに三句目が二重であるという見解を主張していることはあきらかです。「ず」が終止形に見えないという点からすると、この考え方は面白いと思いますが、女房の恋愛事情を考えた時に、「忘らるる身をば思はず誓ひてし」という表現が妥当ではないように感じます。
〔蛇足の蛇足〕
佐佐木信綱『百人一首講義』では、次のように述べています。
此歌真淵翁は、女ながらををしきまことの心をもちたる歌にて、奈良朝の風ありと、いたくめでられ、一説にはさにあらず、こは忘れられたるを腹立ちて、俗に言ふふてくされてよめる心なりといへり、いづれか正しからむ、合せ記して後人の考をまつ。
つまり、賀茂真淵はこの歌を「雄雄しい」と捉えるものの、他の説では「ふてくされてよめる」歌だと評されていたため、信綱は判断を保留したわけです。北原白秋は相手を配慮する「可憐な」乙女心の歌として昭和5年発行の『小倉百人一首評釈』では解説しています。若い女性向けの雑誌の付録として企画された注釈書だったので、読者に配慮した解釈を提示したのでしょう。しかし、白秋は信綱の叙述を引用しておりまして、含みを持たせていました。どうやら、「雄雄しい」とか「ふてくされ」というような解釈を引き写したのは、白秋の二度の離婚経験から思い当たる点があったのかもしれません。
問題は二句切れの歌と見るか、三句切れの歌と見るかという点に絞られるでしょう。そういう紛れが生じるのは、二句目末尾の「ず」という打消の助動詞が連用形にも終止形にも取れてしまうという弱点が存在するからです。ここは、五七・五七・七というリズムの歌であったと考えることで解釈は定まるかと思います。つまり、「ず」を終止形と捉えて、「忘らるる(我が)身をば(惜しくは)思はず。(されど、我に永遠の愛を命にかけて)誓ひてし(汝と言ふ)人の命の(絶えなんとするが)惜しくもあるかな」と補えば、この歌は分かりやすくなります。桑田明氏や北原白秋の評釈も、ほぼそうなっています。さらに、「も」の働きを考えると、「人の命の惜しくもあらず」という本音が見えまして、真淵の「雄雄しい」という見解や、一節の「ふてくされ」という指摘が的を射ている感じがいたします。
『大和物語』第84段
おとこの、忘れじとよろづのことをかけてちかひけれど、
わすれにけるのちにいひやりける
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
返しは、え聞かず。
右近の歌が出て来る『大和物語』を引用しましたが、この恋愛の経緯を見たら、解釈に紛れるところはほとんどないのであります。「よろづのことをかけてちかひ」というところに、「命を懸けて誓ひ」というニュアンスを読み取れば充分でありましょう。また、「ず」を連用形にして「忘らるる身をば思はず誓ひ」とする場合には、「誓ひ」の主語を作者自身とするようですが、それは、恋愛の歌としては不可ではないでしょうか。恋愛というのは、振られるリスクがあるほど燃えるわけで、身分違いの恋なら「忘らるる身を」覚悟しながらするものであります。よって、「誓ひ」の主語は相手であり、それは『大和物語』の本文がびしっと書き示している通りと見るべきなのであります。
要するに、さんざん命を懸けて愛しますと誓った男に対して、あなた死んじゃうのね、惜しいわよ、ほんとはあなたの命なんか惜しくないけどね、と突き放してみたのでしょう。だから、相手の返事はなかったわけです。この歌を、「惜しくもあるかな」という表現を真に受けて、「女の恋心の悲しさ」とか「未練断ちがたい女の愛の告白」などという理解もあるようですが、係助詞の「も」の働きから「惜しくもあらず」というニュアンスを汲み取って、宮廷女房のしたたかさを感得するべきじゃないのかと思います。
忘らるる 身は惜しけれど 誓ひてし 人の命は 惜しからぬかな(粗忽)
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