超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(9) 小野小町

花の色は移りにけりないたづらにわが身世に経るながめせし間に     小野小町

    (古今、春下、113)(小町集19569)


〔釈義〕

花の色つやは徒にすっかり移りあせてしまったことよなあ。そしてまたそのように、私の花の顔の色つやも、徒にすっかりあせ衰えてしまったことよなあ。何の甲斐もないのに、わが身は恋の成行に悶えてあれこれと言う、そうした営みが無駄であることの物思いを、これまた何の効もないのにして来たその間に。一方ではまた、何の役にもたたず徒に降る長雨が続いたその間に。(ああ、何としよう。もうどうにもならないのだ。)


〔義趣討究〕の要旨

① 「世にふる」の「ふる」は、「経る」がふさわしく、「ままならぬ恋の成行に苦しみ対処しながら生きる」という意味である。「故る」ではく、また「男女関係を経験する」「男女関係を継続する」という意の「経る」でもない。

② 「いたづらに」がどこを修飾するかは、まず、この歌の倒置を考える必要がある。三句切れで「いたづらに」が初二句と倒置するとする見方がある。二句切れで、「いたずらに」以下が倒置するとする見方がある。

③ 「いたづらに」は「わが身世に経る」に掛かるとともに、「ながめせし」にも掛かるが、さらに「移りにけり」にも掛かる。こうした表現を「相通表現」と呼んで前著で考察した。

④ この歌は古今には春の部に載っているが、内容は花に寄せる述懐の歌である。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、重い心の世界と鬱陶しい自然の世界が、同時にというより連続して意識され、桜花の移ろいのみか、我が容色の衰えを名がいていることも知る。

② 古今集の仮名序や真名序と照らし合わせることで、この歌は女らしい弱い歌だといわれている。それを否定する見解もあるが、貫之の歌などに比較すると、古今集序の批評は当たっている。

③ ことばの音楽的な美しさも内容にふさわしい。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の小野小町の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、豊富な和歌の引用があったものを、今回も乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、それらが緊密に関連していて、著者の主張は非常に鮮明でありましょう。


有吉保氏の『百人一首全訳注』(講談社学術文庫)によりますと、中世から近世にかけての古注釈では、「世にふる」の解釈が、「老いを嘆く」とするようなものもありまして、実は「世に故る」という理解を示していたようです。著者の〔義趣討究〕では、そのあたりを意識して、「世に故る」で詠まれた歌、「世に経る」で詠まれた歌、それぞれを数多く並べて分析しております。「世に経る」にも、「恋愛関係を経験する」という意味の歌もありまして、複雑ではありますけれども、著者は結局「あれこれ苦しみながらも生きる」というような穏当な見解を示しております。


「いたづらに」がどこを修飾するのかという問題に関しては、これも古くから問題になっていたようですが、近代でも注釈者の間では意見がバラバラです。著者は猿丸大夫の「紅葉踏み分け」と類似の問題として取り上げておりまして、複数の表現に掛かって行く「相通表現」ということを主張しております。しかしながら、「いたづらに」というのは副詞または形容動詞の副詞的用法でありまして、動詞表現に掛かってゆくのは当然ですが、「うつりにけり」「ふる」「ながめせし」のすべてに掛かるのだというのは、少々物足りない気がいたします。念のため、「いたづらに」という主観的な副詞を一旦外して、この歌を倒置を修正した表現に戻してみると、つぎのようになるでしょう。古今集の配列を意識するなら、表面は花の歌でありますが、当然ながら裏面は述懐の歌でありますから、二重になります。


〇表   夜に降る長雨(の)間に、花の色は、移りにけりな。 

〇裏   わが身(は)、世に経る眺め(を)せし間に、 花の(ごときわが容姿の)色は、移りにけりな。


こうしてみると、花の色が褪せたこと、それに比喩されて鮮明になる容色の衰え、この二つが詠作主体にとっての痛恨の出来事でありまして、その前提となる「降る長雨」や「世に経る眺め」自体は、それが生じている時には別に痛恨事ではないわけです。雨が降るという自然現象も、人が世の中で生きてゆくために物思いすることも、それ自体は何も悲惨ではないのでありまして、ただそうした時間の経過によってもたらされた落花であるとか老衰が残念なのでありましょう。だとすれば、「いたづらに」が修飾すべき表現は、最終的な痛恨の出来事であると結論付けてもいいかも知れません。「いたづらに移り」と読み取れば、充分なのであります。余計なことを言うなら、夜に長雨が降ったとしても、翌日花が無事であったら、別に長雨が降ることを「いたづらに」降るとは関知しないことでしょう。同じように、人が世に経る時にあれこれと眺めに沈むとしても、それが報われて立身出世につながったり結婚に辿り着いて幸福になるならば、別にそれまでの過程を「いたづらに世に経る」とは認識しないのであります。結局、「いたづらに」が修飾するのは、生じてしまった痛恨の出来事に対してでありまして、その途中経過をなんとなく「無駄だ・虚しい」と拡大解釈するのは勝手ですが、もうすこし冷静に表現を眺める必要がある事でしょう。


    野球部は 敗れにけりな いたづらに 見逃し三振 ボール振る間に(粗忽)


敗れたなら、途中経過の見逃し三振も、とんでもないボール球に手を出して三振したのもすべて無駄で虚しいことのようですが、最終回の攻撃で主将でエースで四番の大谷君がサヨナラホームランを打ったら、別に途中の三振の山は無駄も虚しいもないことでしょう。解釈というものを、最終的なその和歌の主題にのみ囚われて個々の表現レベルまで主題と同じ味付けで鑑賞するなら、奇妙な解釈で染まるはずです。たとえば、猿丸大夫の「奥山に」の歌であるならば、「奥山」も「もみぢ」も「踏み分け」ている行為も、すべて悲しいものとなるのでしょうけれど、あれはあくまで「鹿鳴」が悲しいのであります。「鹿鳴」がなかったら、別に悲しくない秋だって存在するんですが、そういう認識でいいでしょうか。


  悲しき奥山に、悲しきもみぢを、悲しく踏み分けて、悲しく鳴く悲しき鹿の悲しき声を悲しく聞く悲しき時ぞ、悲しき秋は悲しき。


  いたづらなる花のいたづらなる色は、うつりにけりな、いたづらに。いたづらなるわが身、いたづらなる世にいたづらに経る、いたづらなるながめせしいたづらなる間に。


これだけ指摘したら、「いたづらに」が上にも下にも右にも左にも、あっちにも向こうにも掛かるということの愚かさは関知していただけましょうか。ちなみに、これは著者の「相通表現」を揶揄しているのではありません。桑田明氏は丁寧に説明を尽くして説を立てているわけで、その立論の過程を明らかにしていて好感が持てます。問題は、八方美人の解説を平気でしている近年の注釈書でありまして、めんどうだから、あるいはかっこいいから「いたづらに」はいろいろ掛かるのだと言っているように見えることに、疑問を呈して見ました。


〔蛇足の蛇足〕

小町の歌は古今集の春の歌でありますから、そこに「うつり」「世に」「経る」「ながめ」という恋をモチーフとする言葉を持ち込んで、縁語仕立てとしたおしゃれな歌にしたわけです。表向きは、桜が夜の雨が降り続いて、盛りの時期をむなしく雨天にさらしたことを歌っている春の歌でございます。ただし、恋に生きる女性の姿が浮かんでしまいまして、この歌が本当に春の歌として詠まれたものかどうかは分からなくなります。古今集の詞書をみると「題知らず」ですから、本来詠作事情が判明しない歌なのであります。


平安時代なら、地下の娘で宮廷女房などになった美しい女性が、さらに和歌に堪能であったら、男性貴族にモテモテだったわけです。そうした女性の悩みが、実は主題ではないかと考えるのがもっとも手軽な解釈かと思います。宮廷女房で貴族の愛人になった場合を「召う人」(めしうど)と称したりするんですが、こういう女性は、相手の奥様すなわち北の方の迫害にあったり、自身の親兄弟からあれこれ非難されたりと気が休まらなかったはずです。そうした悩みを抱えていると、雨が降ったら愛人は来なかったりいたしますので、物思いにふけって、ついつい自分の容姿の衰えを嘆くわけです。正式の奥様に比べたら、その境遇は不安定そのものでありまして、これまで重ねた努力というか気苦労というか物思いも、それはそれで楽しかったり自慢だったりしたはずですが、出来した容姿の衰えを残酷な結果として意識したら、それを人生の痛恨事として胸を騒がすのであります。そういう人生の機微を見事に一首の歌に忍ばせたわけでありまして、さすがに小野小町は名人なのであります。もう一度指摘しますが、「わが身世に経る眺め」は結果がよければ、別に無駄でも虚しくもなく、むしろ必然的な営みの一齣でございましょう。 

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