超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(7) 安倍仲麿
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 安倍仲麿
(古今、羇旅、406)(六帖31130、天の原)(和漢朗詠集上)
〔釈義〕
(光の射し出るのを感じて、)大空をふり仰いで遥かに(東の方を)眺めやると、(なるほど、今しも月の出だ。夜も更けようとして、黒々とした世界の一角の水平線〔稜線〕が、今ありありと顕われて、その上に姿を見せ、徐かに昇ってゆく美しい二十日の月。じっと見ているうちに、水平線〔稜線〕はいつかやさしい山の稜線に変ってゆき、そこには、おお、春日の三笠山の姿が!はっとして目を凝らすと、三笠山は消えてもとの東支那海の水平線〔異郷の山野の稜線〕となる。そうだ、春日の三笠山に出る月を眺めてはその美しさに心打たれたのは、既に幾十年も昔のこと、それから気の遠くなるような、波濤万里の大洋を渡航して来たこの唐土〔異郷〕に、今もこうしてこの身はいるのだ。それが、今夜は、数十年の時間と万里の空間を超えて、一度にあの少年時代の故山が蘇って来るのか?!今夜の月は、)曽て(故郷)春日の三笠山に出た、あの(昔懐かしい)月なのかまあ?!
〔釈義〕のうち和歌表現に即した部分
大空をふり仰いで遥かに眺めやると、曽て春日の三笠山に出た、あの月なのかまあ?!
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は歌意はあきらかで、古今集の詞書や土佐日記の記事によって作歌事情は明らかである。
② 乗船する港の送別の宴で詠まれた歌だが、土佐日記では初句が「青海原」となっていて、海辺の詠が明瞭だが、古今集では「天の原」となっている。「天の原」は天空の事である。
③ この歌に懸詞があるかと考えたが、「春日なる三笠山」などにも懸言葉は見出せない。
④ 「ふりさけ見る」は、漫然と見ることではなく、何かを期待して見ることである。詞書や記事にある一月廿日の送別の宴席で、特別の心境があり月の出に望郷の心がかきたてられたのである。
⑤ 海辺での作か、陸上の作か、いずれであっても遠い故郷の三笠山の月を見た少年の日の幻影を追って感慨に浸った歌である。
⑥ 仲麿が海辺で作ったとも、陸上で作ったとも考えることのできる歌で、さらに仲麿以外の作者が詠んだものとも考えられる。
〔鑑賞〕の要旨
① 「天の原」という天空と対立する地上があり、天空と地上は夜の中で融合して、さし出て来た月と対照される。
② 夜の暗さは異郷をさすらった人生の暗さを象徴し、月は希望と慰めの灯火である。
③ 音調面は美しい。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の持統天皇の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったものを、今回も乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回は〔釈義〕が異様に長い補いをしているにもかかわらず、〔義趣討究〕で検討している内容とあまり連動していないところが気になります。例えば、現実の水平線を補いで出しながら、その補足として〔稜線〕を出しますけれども、土佐日記の「青海原」というのは古今集の詞書を受けて紀貫之が改作したと推定されており、紀貫之が過剰に添削しなければ、問題にもならなかったことかと思います。「天の原」とあるからと言って、それが陸上というか内陸で詠まれたというほど気にする異同ではないような気がいたします。
また、春日の三笠山が出て来るのは、遣唐使が出発する際に三笠山で航路の無事を祈るという習慣があったと言われておりまして、おそらく日本を出る時に安全祈願をした三笠山を仲麿が強く意識したということなのでしょう。まさしく仲麿の出発時期である『続日本紀』の養老元年(717)の記事が注釈書に指摘されております。一緒に唐に渡った吉備真備はその後日本に戻りましたが、仲麿は名を朝衡と改めて玄宗皇帝に仕えました。帰国しようとして送別会が開かれたというなら、意識されるのは遣唐使として派遣される前後の日本での送別会だったということです。
〔蛇足の蛇足〕
ところで、世の中の注釈書なんかに出てこないんですが、安倍仲麿に関しては、『江談抄』という説話集にとんでもないことが書いてありまして、実は仲麿は餓死しまして、後で留学してきた吉備真備の夢に出てきたというのであります。結局日本に帰れなくなってしまったというのだけでも壮絶すぎる気の毒な話でありますけれども、そのあとの飢え死にしたという話はあまり世間では取沙汰しないものなのでありましょう。
それから、これには佐佐木信綱『百人一首講義』も触れているいい話があります。帰国しようと仲麿の乗った船が難破したというのは唐の人たちにもすぐに伝わりまして、なんとまああの李白が仲麿の死を悼んだ漢詩を作っていたそうです。あの李白が、なんと日本人を心から悼んでいたのでありますよ。そんな大切なことはぜひとも若いうちに知りたかったなあと思うのでありますけれども、あまり世間では教えてくれないものなのであります。それにしても中国の唐の時代と言うのはあけっぴろげに開放されていた時代だったんでありましょうか、日本人がそのまま中国に居着くことが出来たのであります。
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