超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(6) 大伴家持
鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 中納言家持
(新古今、冬、620)(家持集16090)
〔釈義〕
(眠れぬままに牀を起って外に出てみると、そこには鵲が二羽ずつ翼を拡げて寄り合い飛石のように連なって天の川に橋渡ししているが、その鵲たちの体、つまり)鵲の作り渡した橋の上におく霜の(、月のない夜目にもはっきりと)白いのをみると、夜はだ、(もう)更けてしまっているのだったこと(ああ、また今夜も眠れずに夜を明かすことになる)。
〔義趣討究〕の要旨
① 「鵲の渡せる橋」には、宮中の御橋(御階)説、天の川説、地上の橋説などがあるが、これらは空想の世界の鵲橋を現実のものとして扱っている。これに対して、織女が天上にあって鵲橋に霜白くおくを見て世の更けたのに驚く、という空想の世界の歌意と見直したい。
② 古歌をみると、織女は鵲橋を渡って彦星の許に行くのを詠んだり、鵲橋は二星の交会の場として詠まれたり、日本の男の妻問の習俗に従い彦星が鵲橋を渡ったりすると詠まれている。
③ 古歌に詠まれた「鵲の渡せる橋」は、鵲が寄り合って羽翼をすり合わせることであり、雌雄の鵲が出会うことであり、八雲御抄には「かささぎの橋は七月七日二鵲橋を為す」と述べられている。
④ 古歌の「鵲の渡せる橋」は、途絶えるものであるが、それは雌雄の行会が絶えるのではなくて、二羽一組の鵲の単位が減る事によって生じる。七夕を迎えると二鵲の組数が殖えて渡河が可能になり、それ以降数を減らすが、秋を経て冬になるまで鵲の橋は継続する。
⑤ 七夕を過ぎて鵲橋が途絶えると、二星は逢えなくなるので、織女は独り寝をすることになるので、夜を寒いと訴え、霜が降りたことを嘆いたりする。こうした典拠が漢籍にあると思われるが、今はわからない。
⑥ 古歌に詠まれた鵲には、月を渡すための「鵲の雲の梯」がある。また鵲が雌雄同行の鳥なので裏に鵲の姿を鋳た鏡が作られたが、月面を鵲の鏡と見立てることもあって、月との関係が深い。家持の歌は、月を前提とはしていないので、「鵲の梯」ではなく、「鵲の橋」である。
⑦ 「夜ぞ更けにける」という表現を古歌に探ると、普通ではない事態を認識し、それに対して諦観し、情動に堪える趣に使われるので、家持の歌においては、彦星に分かれて独り寝する織女が、眠れぬ夜に外を見て、鵲の頭や翼に置く霜を見て嘆息する趣と考えられる。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は家持集に入っているが、五句目に「夜はふけにけり」となっている。
② 歌の内容から、平安時代中期以降のものだと指摘されている。
③ 織女の閨怨を主題にして詠んだものであるが、怨情を直接あらわさず、深夜の戸外の情況を描いているので、一見すると自然観照の歌や、旅情の歌と見えるが、場所を天の河原とし、詠作主体を織女とすることで、詩情が生じる。
④ カ行音とサ行音の交錯は寒々と冷える感じがするし、シ音の継続には、鵲の羽翼の連なりが象徴されている感じがする。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の大伴家持の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、豊富な和歌の引用があったものを、乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、それらが緊密に関連していて、著者の主張は非常に鮮明でありまして、かつ、実は刊行当時の『百人一首』の注釈書とは大きく対立しておりまして、さらに重要なのはその見解が非常に的を射ていると感じられます。
この項目のために桑田明氏は60首にも及ぶ和歌を引用しておりまして、その結果「鵲の橋」をめぐる理解は圧倒的に進むように思われました。鵲の橋が、地上からながめるという視点にしばられたものではなくて、むしろ七夕の二星・彦星と織女の逢瀬に関係する空想上の存在として意味があるわけです。また、二星が年に一度逢瀬できるのは、それに向けて鵲のつがいが殖えるからだという指摘があり、七夕を過ぎるとその数が減り、減りはするものの秋を経て冬まで鵲の橋が存在するという点は、非常に重要です。そして、末句の「夜ぞふけにける」という表現を吟味して、逢瀬を断たれた織女を詠作主体に据えることによって、鵲の橋に置く霜の意味するところが明らかになりましたので、これはもうお手柄ではないでしょうか。この歌は、百人一首中の秘歌とされて来たそうですが、歌の場面が天上で、詠作主体が織女、そして鵲の橋はあくまでも七夕に二星を再会させる橋、というような道具立てが揃って初めて意味をなしますので、そういう読み方が秘伝だった可能性は高いかもしれません。伝説上の人物の視点から歌を詠むというのは、これはかなり高度でありまして、果たして万人が理解して受け入れるのかどうか、難しい気がいたします。もちろん、大伴家持作とされる歌で、詠作主体が織女というのは、秘伝のままにしておいた方がいいのかもしれません。
割と最近の注釈書の類を見ても、この桑田明氏の見解を引用するものは見当たりませんし、「鵲の橋」に関する分析に関しても、広く行き渡っているようには見えないのでありますけれども、これは一体どういうことなのか、不思議に思います。私も今回の解説を見るまでは、地上にいる男性の視点による歌だと思っておりましたが、脱帽して敬意を表したいと思います。
〔蛇足の蛇足〕
大和物語の125段には、泉の大将藤原定国が左大臣藤原時平を訪問した時に、突然の訪問の挨拶を壬生忠岑に頼みまして、詠んだ歌が次の歌です。
かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半に踏み分けことさらにこそ
時平邸は、もちろん宮中ではありませんから、「かささぎの橋=宮中の御階」説はこのことでも崩れますが、旧注釈書では結構これを根拠にして宮中御階説が有力でありまして、白秋さんもこうした見解を採用していました。中国の七夕伝説に「かささぎの橋」が出て来て織女が渡る物らしいのですが、これだと季節が合わないというので、みんなあたふたするのであります。天上の橋が使えないなら、大和物語を根拠に高貴な人の邸の階段を言うのだろうと、飛躍してしまったわけですね。桑田明氏の「鵲の橋」に関する分析は丁寧でありまして、昔の歌人たちがどのように七夕伝説を享受し、それを歌にしたのかが分かったりいたします。
「カササギ」はカラス科の鳥ですから解釈が混迷しまして、ついには漢詩・漢文の典拠を捜索するといういうようなことになったのかもしれません。どうやら、日本の歌人たちの間で七夕の伝説がもてはやされて歌が詠まれたために、一首や二首の歌を見ただけでは、要領を得なかったようです。そして、『百人一首』に採用されて解釈が複雑になってしまっているので、『新古今集』における解釈もあおりを食って意味不明なのであります。『百人一首』の最も古い注釈宗祇の『応永抄』というものでは、秘伝めいたものを蹴散らしておりまして、ああやっぱりそうなのかと納得するのであります。つまり、宗祇のころにはどの歌にも怪しげな解説ができていて、耳にするとそれらにとらわれてしまうのを宗祇は戒めております。詠作主体を織女にして、歌の場面を天上にすれば、実に簡単な歌なのですが、たったそれだけの視点を得ることがなければ、非常におかしな歌なのであります。
コメント
コメントを投稿