超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(3) 柿本人麿
あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麿
(万葉巻十一、2802異本歌)(拾遺、恋三、778)(柿本集15280)
〔釈義〕
(あしひきの)山鳥の尾の(恋にやつれて)長くしだれ下った尾、それを横たえて、山鳥はその尾のように長々しい秋の夜を(妻と離れて)独り寝るというが、そのように、私も長々しい秋の夜を(妻と離れて)、独りでか、まあ寝るだろうこと?!(寂しいことだが何とも致し方ない)。
〔義趣討究〕の要旨
① 上の句の五七五は単なる序詞ではなく、下の句「ながながし夜を独りかも寝む」と密接なつながりを持っている。
② 山鳥はキジ科の日本固有種で、キジよりも長い尾を持ち、1メートル近い。雌は雄の三分の一くらいの長さ。
③ 枕草子のほか、奥儀抄や俊頼頭脳・袖中抄などにある山鳥の生態は、昼は雌雄同居し、夜は谷を隔てて寝る、鏡を見せると慰む、というものである。
④ 中国の故事には、伝説上の霊鳥である鸞(らん)について、配偶者を見ると鳴き、鏡に映る自分の姿を見ても鳴くとあり、山鶏の生態についても同様の記述がある。
⑤ 山鳥と鏡にまつわる歌は、「山鳥の尾ろの波都乎に鏡かけとなふべみこそ汝によそりけめ」と万葉集巻十四3468番に見え、その歌から派生したと思われる歌がある。
⑥ 宣長によれば、山鳥の尾は夜光るもので、万葉集の歌に「鏡かけ」と詠んでいるのは、尾が鏡のように夜ひかることを言う。
⑦ 万葉集巻十四の歌において、山鳥はすでに枕草子や奥儀抄と同じ見方がされているので、万葉集巻十一の歌も、実際の山鳥の生態ではなく、中国の故事を踏まえたものだ。
⑧ 「しだり尾」は、単に山鳥の尾を言うのではなく、力なく地面に横たえおいた、恋に悽然(せいぜん)とした姿を描き出している。
⑨ 「独りかも寝む」という表現は愛する人と逢えない状態を前提にして諦念の表現となっている。この歌は長い期間に亘って逢えないことを詠んでいるので、人麿の作と擬するなら、石見の国に妻を残した情況で詠まれたと考える。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、山鳥の独り寝の説話と、秋の夜長を妻と離れて独り寝する自分の境遇を二重映しにしている。
② 上の句の序は、枕詞を使ったり、「の」を連ねたことによって長い山鳥の尾をイメージさせ、導かれた言葉は「長き」ではなく「長々し」なので、秋の長い一夜と同時に一人寝が来る日も来る日も続く意味になる。
③ 四句目までの表現は、音調面で単調な繰り返しが連続しており、憂鬱な感じを起させ、末句の軽快な音調には静かな諦念を感じさせる。
④ 人麿作とみてよい名歌である。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の柿本人麿の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、豊富な和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、それらが緊密に関連していて、著者の主張はここでも非常に鮮明でありましょう。特に、山鳥に関して中国の故事の影響下に詠まれた別の万葉集の歌を紹介し、枕草子や歌学書の叙述を引用しておりまして、そこから「あしびきの」の歌が、単に序詞の面白さによる歌ではなくて、詠作者の境遇と山鳥の説話上の生態を重ね合わせたものであることを解き明かした点は、古注釈書も触れているとは言いながら、大手柄と言ってもいいのではないでしょうか。特に、詠作者の境遇が柿本人麿の境遇としてみなしうることを指摘している点は、非常に重要な指摘だと思います。
著者の見解を元にすると、この人麿の作だとされる歌は、一旦山鳥の歌としてそのまま解釈し、その後で山鳥と同じように寂しい独り寝の境遇を嘆く内容が余情として添えられるべきなのでありましょう。実際、著者の釈義はそのような二重の解釈になっておりまして、そういう解釈でないとこの歌を受け止めたことにはならないかもしれないのです。三十一文字の短詩形なのでありますけれども、内容はその倍を含んでいるということになります。
〔蛇足の蛇足〕
中世の歌道家だった六条藤家が、人麿影供という行事を始めて、新古今和歌集の時代には和歌の聖として尊崇されたそうでありまして、この歌人を「歌聖」と称したりもするようです。柿本人麿は天智天皇や持統天皇の時代の人だということで、『百人一首』では両天皇のあとに登場するわけです。もっと古代の人かと思い込んでおりましたが、平城京に遷都する前の時代の人だったわけです。
この歌は、万葉集では人麿の歌ではなさそうでありまして、やはり百人一首は勅撰集に従うという方針で作られたことが分かります。ついでに言うと、この歌の元の歌には、オリジナルの歌番号が付されていないのであります。どういうことかというと、この歌は、万葉集の巻第十一・2802番歌の異伝として出てくるものだからです。
2802 念友 念毛金津 足檜之 山鳥尾之 永此夜乎
或本歌曰 足日木乃 山鳥之尾之 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨将宿
とありまして、2802番の歌は「思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の ながきこの夜を」と訓じたりしますが、これが万葉編者の採用した歌の形で、別の本にあった「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねん」と訓じる歌が参考として添えられているわけです。だから、2803番の歌は別の歌なのです。どういう経緯があったのかはもちろん不明ですが、この添え物が拾遺集の編者に気に入られて、めでたく勅撰集に採用されたばかりか、柿本人麿の作品として日の目を見たわけです。目立たない付き人だったのに、映画の主役に抜擢されて主演男優賞をもらったような話であります。
以前取り上げました北原白秋の評釈を見て見ると、元の歌に即した解釈部分は、「かうも長い長い夜を、我身独りで寝ることか。」というだけでありまして、下の句だけを訳してあります。これに補足してあるのは、「思ふ人は来ず、つひに逢へずに」と「さてさてなんといふわびしい事であらう」という状況説明と心情説明でありまして、上の句の枕詞や序詞の部分は、一切評釈には繰り込んでいないのであります。大胆ですごいなあと感心しましたが、佐佐木信綱の『百人一首講義』とほとんど同文でありまして、本当に北原白秋が一から執筆したとは到底考えられませんでした。それはともかく、枕詞「あしびきの」や、それを含む序詞「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」はばっさり切り落として処理していましたが、桑田明氏の義趣討究を読むと、切り落とすのはまずいかもしれないと感じました。なお、「ながながし」は、山鳥の尾の物理的な長さと、夜を過ごす心理的な長さの転換を果たすわけですが、この「ながながし」を注釈書などは掛詞とは呼ばないようであります。
もう一つ指摘しておくとよいと思うのは、「しだり尾」のことですが、たまに品種改良された鶏のオナガドリをイラストとして添えるのを見かけますが、鳥の本体から2メートルくらい尾が垂れているのは、誤りであります。山鳥はキジ科の鳥でありましてオナガドリとは別物で、その尾はピンと張りがあり、実は鳥が地べたを徘徊してエサを探しているときなんか、むしろ胴体よりも上になるわけです。枝に留まると、確かに下を向いたりするわけですが、気になる人はGoogleなどで検索するのがおすすめです。
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