超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(12) 僧正遍昭

 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばし留めむ    僧正遍昭

     (古今、雑上、872)(遍昭集18874)(六帖31319、雑風)(和漢朗詠集下、妓女)


〔釈義〕

天空を吹く風よ、雲の上の通い路を、雲を吹き寄せて鎖してくれよ、(そうして貰って、ここに集まって妙なる舞を見せてくれた)天の少女たちの美しい姿を、もう暫く引留めて鑑賞しよう(と思うのだ)!


〔義趣討究〕の要旨

① 従来の解釈では、「雲の通ひ路」を「雲の間を通って天に通じる路」とし、地上で舞った天女が天上に帰還すると解する点に疑問がある。

② 「雲の通ひ路」やそこから派生したと思われる「雲路」という表現は、古歌の例を見る限り、「雲の上の通ひ路」を意味する物であって、地上から天へ通じる路ではなく、天上で交通する路である。

③ 「天つ風」が「雲の通ひ路」を「吹きとじる」というのは、風が雲を吹き寄せて雲の通い路を鎖すことであり、地上から「雲の通ひ路」自体は見えないものとして歌に詠まれている。

④ 「雲の通ひ路」と「少女」が詠まれた歌には、必ずと言っていいほど「月の光」が詠み込まれているが、この歌では特に月は出ていないが、おそらく天女(少女)自身が光を放っている可能性がある。


〔鑑賞〕の要旨

① 五節の舞の起源によれば、天武天皇が吉野の宮で日暮れに琴を弾いていると、天女が現われて琴に合わせて舞ったというものである。これは天女が天下りしたと考えられる。

② この歌の場面を地上の皇居内であると考えると、遍昭の歌以降の五節の歌に月が出て来る理由もわかるが、例えば天上の月宮殿で舞う場面なので、月が詠まれていないと考えると幻想的な詩の世界となる。

③ 現実の宮中の儀式の場面と伝説や空想の世界の場面が二重写しになっている。現実の世界で少女の姿を留めるというのは卑俗な感じになるが、天女や天宮の世界と見ることでロマンチックで軽妙洒脱な感じが出て来る。

④ 三句切れで、上の句と下の句がそれぞれ完結しているため、歌意がすっきりしている。音調も軽快である。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の僧正遍昭の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、豊富な和歌の引用があったものを、今回も乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、〔義趣討究〕では「雲の通ひ路」という表現を検討して、それが天上の路であって、地上と天上をつなぐ路ではないと結論付けています。ただし、例歌は僧正遍昭の歌の詠まれた時代の歌というわけではなく、影響下にある後世の歌ですから、証明としては弱いような気もします。しかしながら、遍昭の歌を享受して詠まれた歌を分析して出た結論は、無視することのできないものでありましょう。


〔鑑賞〕において、著者はこの歌の舞台が天上ではないかということを主張しますが、その根拠が「雲の通ひ路」という言葉であることを、あまり押し出していないのが不思議です。諸注釈は「少女」をすべからく「天女」であると指摘しながら、あくまでも五節の舞姫が地上から天上へ戻る歌として解していますが、なるほど、「天女」であるなら舞った場所は天上であると考えるからこそ、「雲の通ひ路」に意味が出てくるわけなのでありましょう。もし、地上の豊明節会の一場面にこだわるなら、たとえば楽曲を奏でる宮廷の賀楽師たちに命じて、演奏を継続させ、アンコールで舞姫たちに舞わせ続けるというような歌でなければならないわけです。そうではないとすると、眼前の節会の舞に心奪われ、まるで天上で天女の舞を鑑賞した気分であるなら、アンコールしたい気分を「天つ風雲の通ひ路吹きとじよ」と表現したのは適切というか、舞姫たちへの最高の賛辞となることでしょう。


   伶人の 管弦の音 鳴り止むな おとめの姿 しばし留めむ(粗忽)

     ※伶人……雅楽を奏する人。


〔蛇足の蛇足〕

五節の舞姫と言うのは、旧暦の十一月に行われる豊明節会で舞を披露する乙女たちですが、それを天女に見立てたのがこの歌の手柄なのでしょう。よって、彼女たちをもう少し鑑賞したいなら、天女の帰り道である雲の通路を閉じる必要があるという理屈なのです。機知溢れる内容を、卒なく和歌にまとめたあたりが、蔵人頭を務めた人物らしい詠み口なのであります。   


これに対して、もう一つの詠み口があるとするなら、天女は天の羽衣を着ているはずですから、その羽衣を隠してしまえと詠めばいいのかと思います。羽衣伝説では、羽衣を隠された天女は男の妻となって、子供を産むという展開になります。中国の『捜神記』には、天女が羽衣を取り返して天に帰り、さらにあとで子供たちを迎えに来るという結末の話もございます。


   ひさかたの 天の羽衣 隠してむ おとめの姿 しばし留めむ(粗忽)


僧正遍昭は、六歌仙の一人として有名ですが、晩年は僧正という地位まで昇りまして、仁和二年(886)には輦車(れんしゃ)を許されておりますが、これは轅 (ながえ) を腰の辺に当て、人の手で引く車のことで、 東宮・皇族、また勅許を得た重臣の乗り物なのだそうです。大内裏の中を貴人を乗せて人力で引くんですが、宮城門から宮門までの間を乗るためのものらしく、目を引く特別扱いだったことでしょう。これは、その年の暮れに七十の賀を朝廷で祝ってもらっていますので、その時のためだったようです。祝ってもらった後、遍昭は数年の間は生きていたようで、寛平二年(890)になって亡くなっております。


上田秋成の『春雨物語』の中の「天津処女」には、この僧正遍昭のことが出てきますけれども、そこには、在俗時代の良岑宗貞が提案して、五節の舞姫の人数を四人から五人に増やしたというような話が出てきます。秋成のことですから、遍昭というのはこれほど好色な奴だという皮肉であります。ただ、本当の話なんでしょうか。どこを調べると出て来る情報なのか、見当が付きません。明治時代にも舞われたことがあったらしく、Wikipediaには舞姫の6人の名前が出ております。

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