富士山は世界遺産。(4) update ver.

2013年5月5日

東京は豊島区に雑司ヶ谷という土地がありまして、雑司ヶ谷霊園で有名であります。その付近には鬼子母神がありまして、一般には子育ての神様と考えたらいいのかも知れません、篤く信仰されてきたようです。


鬼子母神にお参りするのに一番近いのは、もちろん都電荒川線の鬼子母神前駅であります。鬼子母神は、JR山手線からだと目白駅から徒歩10分、池袋駅からも10分くらいの所でありまして、ある意味陸の孤島であります。ただ、都電に乗れば北に4駅でJR大塚駅、南は3駅で終点の早稲田でありますから、便利な場所とも言えるのであります。今は地下鉄副都心線というものができまして、これが鬼子母神駅の真下に「雑司ヶ谷駅」を構えましたので、新宿も渋谷も、さらには横浜にも容易にアクセスできるようになったんであります。


ところが、問題なのは都電の「雑司ヶ谷駅」と一駅ずれているのでありまして、副都心線開業当時も問題になりましたが、今でも大問題でありますけれども、都電から地下鉄に、地下鉄から都電に乗り換えるというのは実際には非常に珍しいはずなので無視していいでしょうけれども、しかしなにゆえ副都心線の駅名を「鬼子母神」と命名しなかったのか、世の中には奇妙なことがあるものであります。


カヤ(榧)の木のひこばえ(のようなもの)。

地下鉄の雑司ヶ谷駅の出口にはたぶん千登世橋出口があるはずで、明治通りと目白通りが交差するところが千登世橋であります。この橋は河川を渡す橋ではなくて、いまではどこにでもある道路を立体交差した橋ですが、完成が昭和7年(1932)といいますから、その時代には非常に珍しいものだったはずであります。


この千登世橋の周辺は、その当時までは東京市の郊外で高田町と称していたようでありますけれども、その年の内に東京市豊島区に編入されて消滅しまして、学校名などにかろうじて「高田」の名前が残っているのであります。実は、池袋が繁華街になる以前は、この高田町の鬼子母神のあたりが繁華街であったはずなのでありまして、女給のいるカフェーがあったり、ビリヤード場があったりした遊興娯楽の街であったらしいのであります。


今や、古色蒼然と寂れた大正ロマンのようなものを、東京の中にあって醸していたんでありますが、地下鉄工事に加えて地上部は大きな道路を設置する用意がなされて、昔の面影はついえようとしているのであります。1980年代のある年、ある月のある日、私は鬼子母神の都電停車場に近い床屋に行きまして、結婚式を控えて調髪を頼んだんですが、90歳くらいの店主は心を込めてその腕前を発揮し、髪をなでつけながら昭和初期の鬼子母神の繁栄を私に語って教えてくれたのでありました。


店主は若き日に千葉の田舎を出て、東京で修行を積み、郊外の繁華な土地で床屋を営んだのであります。


ウィキペディアを見ますと、便利なことにこの町の変遷を辿ることができました。それによると、明治22年(1889)に合併によって高田村ができまして、それが大正年間に人口が増えに増え、その人口増によって大正9年(1920)に高田町になったようであります。なぜなら大正2年(1913)あたりで1万人に満たなかった6000人くらいの人口が、大正9年には3万人に迫る勢いを示しました。そして、大正12年の関東大震災の後には人口が激増しまして、豊島区編入直前の昭和5年(1930)の国勢調査では何と48532人というようなことでありまして、編入完了の昭和7年にはゆうに5万人を超えていたはずなのであります。


面積がたった1・91平方㎞だったそうですから、正方形なら一片は1・4㎞、あるいは長方形なら長辺が2㎞で短辺が1㎞程度なのであります。その人口密度は現在の東京都中野区や豊島区、埼玉県蕨市なんかを凌駕しているのでありまして、どれほど過密だったのか想像もつかないくらいなのであります。そんな場所の目抜き通りに開業した床屋のお爺さんの腕は確かでありまして、鉄鏝で固めた頭髪はきれいに整いまして式の当日一筋の乱れもなかったのであります。使われたのは、ストーブで熱したハート型の鉄鏝(てつごて)でありますが、長い靴べらくらいのサイズでありました。ドライヤーによる温風を使わない調髪というのは、後にも先にもあの時だけのことです。


埼玉県旧与野市の「与野の大カヤ」。

ところで、個人の経済活動といいますか消費行動の指標として大事なのは、高価なものをどこに買いに行くかということがありまして、つまり晴れの買い物をどこでするかによって、そのお店なり商店街なり都市なりの価値が決まることでありましょう。隣接する都市の住人がどこの街で浪費をするのか、どこでデートするのか、どこで結婚式を挙げるのか、晴れ着をどこであつらえるかというのは、おそらく重要なことでありまして、それは商店街の盛衰や都市の発展ぶりなどによって刻々と変わるものであります。


ウィキペディアの「与野市」という項目を見ておりましたら、「近代初期には与野宿は近隣の浦和宿や大宮宿を越える繁栄を見せ、当時の大宮の住人は『大きな買い物は与野でする』などと言われた時代もある……」という記述がありまして、なるほど実は大宮や浦和などより与野が繁華な街であった時代があって、そう言う時代の記憶をとどめている人がまだいるのであります。


つまり、大きな買い物というのは喜怒哀楽を伴いまして、人の記憶に長く残るのであります。


だとすると、このカヤ(榧)の木の存在というのは大きなものでありまして、現在のところ旧与野市というのは合併後のさいたま市中央区となっておりますけれども、その中央区の中央にそびえ立つのがこの樹木であるということが分かるわけであります。マンションが建ち並ぶ今は目だたなくなりつつありますが、かつてはランドマークだったはずです。なにゆえ、マイナーな与野市が中央区を名乗ったかという点について、私は長らくと言っても10年くらいのことですが、かすかな違和感と言いますか疑念と言いますか、そういう気分を抱いていたのであります。けれども、鉄道や高速道路のない時代に、繁栄を誇った近隣随一の街が実はここにあったということなのです。そして、その繁華街のそばにこんな大木が隆々とそびえ立ち、往来の人が与野に来たと実感し、来客をもてなすように木陰を作っていたというのは、いい話ではありませんか。


カヤというのは、そう至るところにない樹木でありまして、他の樹木に比べると成長が遅いのだそうであります。その代わり木質は緻密でありまして、欲しくてもなかなか買えない高級将棋盤はカヤ(榧)で出来たものであります。盤がカヤなら、それに見合う駒はたぶんツゲ(黄楊)であります。将棋の名人戦などになったら、そういう組み合わせでなければ、棋士はやる気が起きないことでしょう。


注連縄が張られている与野の大カヤ。  

与野の大カヤというのは、実は車のナビゲーションの画面に示されておりまして、つまりナビゲーションシステムも元々は誰かどこかの人が智恵を寄せ集めて作るものでありますから、どこか人間くさい、ちょっとした癖が入り込む余地があるわけです。それは、国語辞書というようなものの記述に人間くささが横溢しまして、時には人に眉をひそめさせたり、微苦笑を誘ったりするのでありましたが、それと似ていることでしょう。


だとすれば、帝国書院の地図帳にだって、国土地理院発行の2万5千分の1地図にだって、近ごろ世話になることの多いグーグル・マップにだって、誰かのちょっとした思い入れや思い込みやイタズラが入り込むはずでありまして、本日に限ってはカーナビの表示が大変に重宝したのであります。なにせ、目的地の与野の大カヤがそのまんま表示されていたからなのであります。グーグルで見ていたら、ちょうどこの大カヤがストリートビューで見えないようになっておりまして、理由は全くの不明でありまして、ひょっとすると国の指定する天然記念物だから見せちゃダメなのかと思ったくらいであります。暇な人は御覧あれ。


さいたま市教育委員会の案内板が建ててありましたので、ぜひともご紹介しましょう。


当然この案内板は、「与野市教育委員会」が元来設置したもののはずでありまして、合併に当たって担当者が律儀に新市名を貼り付けて修正したことでありましょう。手間は手間でありますけれども、その辺に手抜かりを許さないというのは、仕事としては立派であります。もちろん、旧与野市の時代に文面をしたためたはずでありまして、その文面の意味するところは、与野というのは中世から近代のある時期まで繁華な街であり、この地域の経済や政治や文化を担ってきたという事を柔らかに訴えているようであります。


首都圏に過剰に人口が集中いたしました結果、それまでの街並みが埋没しまして、人の流れが電車の駅に吸い取られていったために、商店街はじりじりと衰退の道を辿り、洗練された街がいつの間にかレトロを漂わすさびれた空気をまとったのでしょうけれども、往時を知る人か、もしくはそういう人から昔の豊かさを聞かされた子孫がさりげなく、そうした過去の栄光をしたためたのでありましょう。読んでみて悪くないのであります。


「まち」の中心、「まち」の歴史。

なるほどなるほど、この案内には愛情と言いますか、郷土を思う切ない気持ちと言いますか、矜持とか自負とかそう言ったものとともに、それをさりげなく包み隠そうとする羞恥心も含まれておりまして、それでも何事かを訴えているのであります。


与野市のことを考えるに当たって、雑司ヶ谷の鬼子母神、あるいは高田村・高田町ということを考えて見たのでありますけれども、同じようなことは各地にあることかも知れません。


私も身内のことで思い出すことがありました。嫁入り道具を買い求めるために遠路はるばる大きな都会に出かけたと言う話なのでありますが、お嫁に行っった人は夫とともに転居を繰り返して、たまたまその大きな都会の片隅に移り住んでいたのであります。そのお嫁さんが病に倒れてお葬式となりまして、たまたま私の一家が予約したのがホテルの大きな和室だったので、お嫁さんの父上を泊まらせてあげたのであります。


ああ、この街のすぐそこのデパートに嫁入り道具を買いに来たのだよと、娘を亡くした老いた父親は語ったのでありますが、あの田舎からここまで100㎞もあるではないかと驚いたのでありますが、そうかその当時そういう買い物のできる場所はここだったのかと、その時北関東の都市で思い至ったのであります。一世一代の買い物だったらしいのです。


買い物をするというのは消費行動ではありますが、そこに価値観が絡み、抜き差しのならない大切な記憶を形成します。 

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