富士山は世界遺産。(2) update ver.

2013年5月3日

ゴールデンウィークも後半になりましたが、午前中はよいお天気でありまして、物ぐさな一家も順次お出かけと相成りました。残った者が相談しまして近場の、余り疲れないところに行って見ようということになりました。もちろん、混んでいそうな幹線道路、高速道路、そういう所は避けまして、辿り着いたところが春日部であります。


もちろん「かすかべ」でありますが、「粕壁」と言うこともあったようでありまして、江戸時代に徳川幕府が整備した日光街道では日本橋を出まして、千住宿・草加宿・越ヶ谷宿を通った後に出てくる四番目の宿場「粕壁宿」だったようであります。本日は、日光街道の脇街道であります日光御成街道を経由して粕壁を目指し、帰途は日光街道を使うというような気分でありますが、果たしてこれで正確に物を言っているのか自分でも自信がありません。道案内の人が必要なんですが、何事も自分たちで試行錯誤するというのが、人生の楽しみを増すものであります。


特別天然記念物、牛島の藤。樹齢1200年余り。

岩槻から粕壁に掛けては現在の埼玉県道2号線を通ることにしましたので、人形を扱う大きなお店が目だちまして、いわゆる岩槻人形の大店があるところであります。昔は岩槻市でありましたが、すでにさいたま市に編入されまして「岩槻区」になっておりますが、合併なのか編入なのか、そのあたりの事情には疎いのであります。調べたら「編入した」ようでありまして、平成17年(2005)から市域が区に変わったようであります。県道2号線というのは元は国道16号だったそうで、バイパス道路である現在の国道16号と平行しているんでありますが、古いこの道の方が岩槻から春日部までまっすぐでありまして、ゆっくりのんびり走ることができるのであります。


春日部市内の中心部を通過して牛島地区に入りますと、まもなく牛島の藤のある藤花園でありまして、指定された駐車場にも余裕がありましたから、のんびりした気分のまま目的の場所に辿り着くというのは奇蹟のような気がいたします。途中、交差する道路が渋滞している箇所がいくつかありました。さて、お目当ての藤ですが、弘法大師が植えたかもと言う噂もあるらしいのでありますが、ともかくものすごい古木が藤棚から紫色の房をたくさんなびかせまして、初夏の風に乗って藤の花の甘い香りが漂うというような至福の時間を過ごしました。


1200年前と言いますと、時は平安時代でありまして、ものすごい長寿の藤であります。

入り口の所で、「かすかべ案内人の会」作成の「藤花園内マップ」をいただきまして、これを眺めて驚くのは、入り口近い所にあるのが1200年の樹齢を誇る藤でありますが、その向こうに樹齢600年の藤が並んでおりまして、さらには入り口右手のお食事処の前には樹齢800年の藤が控えておりまして、それがきれいに手入れされて見事な藤棚を形成しているわけでありますから、写真を撮ったり、のれんのような藤の花房をよけて藤棚の下に入ったり、外からの眺め内側からの眺め、どれもこれもほれぼれするわけであります。小さな子供が藤棚の下ではしゃぎ回るのでありますけれども、それもそのはずでありまして、藤棚の下は適度な日陰でありまして、甘い香りが満ちているんであります。


樹齢600年の楠もございました。

奥の方には、菖蒲なんかも咲いておりまして、これがまた非常に勢いのある麗しい花の色を湛えておりますから、藤が長生きだけではないのであります。樹齢500年の赤松が何本かあるとマップに記してありましたけれども、ちっとも古くさい感じではありませんから、言われてみなければ500年というような時の流れを感じないのであります。入り口近い所にはツツジがさりげなく咲いておりましたが、その花たるや直径が10㎝もあろうかという大輪でありまして、土壌がいいのか手入れがいいのか、その土地が肥沃で植物に適しているのか、腕利きの庭師さんがいるのか、とにかくピカピカであります。


近ごろの整備された真新しい庭園のようにも見えますけれども、これがずっと数百年、積もり積もって千年、こんな具合であったと言うことのようであります。近場の観光地ですから、さしたる期待を持たずに出向きましたけれども、さすがに特別天然記念物でありまして、最初に指定したのは昭和3年(1928)だったようでありまして、その時は天然記念物に指定されただけのようですが、さらに特別天然記念物に格上げされたのが昭和30年(1955)だったようでありますが、そんな貴重な物を間近で見て、香りを楽しめるというのは大変なものであります。


詩人の三好達治も大好きで、仲間と連れ立って毎年のように訪問したらしいのであります。


そう言えば、萩原葉子さんが惜しくも芥川賞を逃した小説『天上の花』の中にも、戦後三好達治さんが仲間を引き連れてどこかへ行く様子がしたためられていましたが、どうやらああした催しの一つが五月頃に春日部の牛島の藤を見に行くことであったのかも知れません。あの小説は、三好達治さんの伝記の形を取ってはおりますが、観念的な恋愛感情と、現実の結婚生活の食い違いと言いますか、そういう物を描いていて秀逸でありまして、「小説かどうか分からん」というような作品にとってはどうでもいいようなことで受賞を逃したのは、書いた作家にとっても不幸だったかも知れませんが、与え損なった選考委員にとっても不幸でありまして、その時から選考委員に加わった三島由紀夫はもうちょっと彼らしくごり押ししてもよかったろうにと、野次馬としては思うのであります。


のれんに腕押しという言葉が浮かぶしなやかな藤の花房。

先輩作家を前にした三島由紀夫がどういう人なのか分からないわけでありますが、選考委員にデビューを果たしたのに借りてきた猫みたいだったなら、その後の彼の人生の成り行きへのヒントになるかも知れません。支持した作品が受賞を取り逃がしても構わないと言うなら、頼まれても委員に加わらなければいいんじゃないのと、余計なことを考えたりするわけです。気概が足りないぞ、と見るわけです。


そう言えば、三島由紀夫が太宰治に初めて面会した時の話というのがあって、太宰治に絡まれたりしていたはずであります。案外内気だったり大人しかったりしたのかも知れないのでありまして、そういう所は青森の金持ちの息子だった太宰治から見たら、生真面目で軟弱な都会のお坊ちゃまでしかなく、与しやすい人に見えたのかも知れないのであります。市ヶ谷の壮絶な最期から眺めた三島由紀夫というのは何とも勇ましいのでありますけれども、実像は別のようです。10代の前半から普通の子供が接しないような平安時代の物語を耽読していた人物には、およそ10人くらいの文壇の先輩たちを向こうに回して激しく自分の見解を押し通すなんてことは想像の外だったんでありましょう。唾を飛ばすとか、茶碗を投げつけるとか、さらにはちゃぶ台をひっくり返すようなことは、夢想だにしないのかも知れません。


藤の花というのは可憐な繊細な感じでありますが、華やかなのれんみたいでありました。


2013年5月4日

これだけ生きてきても知らないことは山ほどありまして、理解できないことは海ほどあるわけなのであります。藤の花というものは、子供の頃からどこかで見覚えまして、見間違うことの少ない物かと思うのであります。


記憶の中で藤の花をしっかり見たのはいつどこでどんなふうになのかと考えましたら、東京の亀戸天神に見に行った記憶があるのであります。カメラマンになりたがっていた友人と二人で出かけまして、恐らくは電車で行ったのだろうと思うのですが、残念なことに記憶は曖昧でありまして、神社の周りを一周した後、そのあたりの天丼屋さんに入りまして、穴子の天丼などを注文した覚えがあるんでありますけれども、夢か幻のように頼りない記憶になっているのであります。


藤棚から垂れる藤の花房。

昨日行ってきました春日部市の牛島の藤でありますが、そこの石碑に次のようなことが書いてありましたので、参考までにご紹介いたしましょう。ただし、石碑の一部が植物の蔭に隠れておりますので、私の文責ということで内容の保証はいたしかねるというような、いかにももったいぶったご紹介であります。


タイトルは『藤の伝説』とありまして、「むかし、柳原で農家の娘が長い間病気で苦しんでいた。旅僧から娘の病気は生垣の中にある藤を寺に納めるとよくなるといわれたので、藤を寺の境内に移し植えたところ病気は治ったという。この寺は蓮花院と呼ばれ今はないが、藤だけが残されてそのあとをしのばせている。」これは、埼玉県教育委員会などが中心となって牛島の藤のある藤花園の中に建立した石碑に書かれたものであります。日付が昭和47年3月とありますので、1972年のものでありましてつい昨日のような気がするんですが、実はもう40年以上前(2023年からしたら、何と半世紀、50年前)の物と言うことになります。


石碑には「国指定特別天然記念物」と刻んでありますから、昭和30年に指定されて17年後にその指定の重みを感じて関係者がこんな物を建立したに違いないわけでありまして、樹齢の古さは結局日本のどこを探して見てもこれを上回るものはなかったようなのであります。文中の「柳原」は、牛島の近隣の地名でありまして、地元の人なら分かる程度の地域名のようであります。


大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)のほとりに位置しますが、それは利根川が東京湾に注いでいた時の流路。


若い頃には将来老いた自分のことなど想像の範囲外でありまして、たとえば「藤の花」の記憶をたどると多少それらしい記憶が浮かんでくるわけですが、その記憶の周辺がすっぽりと抜け落ちまして、どうやら二三枚のスナップ写真程度の映像が浮かんでくる程度で、それ以上の手がかりがさっぱり残っていないのであります。そんなふうに老いぼれるとはうかつにも考えませんでした。


亀戸天神の藤は、カメラマンだった友人がカメラを持参して写真を撮影したのかどうかさえ覚えていなわけでありまして、何とも頼りない記憶力なのであります。それでも、こうして知らないところへ行って、珍しい物を見ますと、それなりの記憶の引き出しが引き開けられまして、中から少しは有意義な記憶の欠片が出て来るわけでありますが、誰もがそんな物なのでありましょうか。人間の身体は新しい食物を摂取しまして、細胞などが入れ替わっているはずでありますけれども、この記憶という物は一体どういう形で蓄えられ、そして必要に応じてどのように引き出されるのか、考えて見ると不思議であります。


藤の古木の根っこの部分。

1200年前から今になるまで生きてきた植物と言うことでありますけれども、年輪などを考慮して決定するのでありましょうか。それとも、根本の古いあたりを採取して炭素などを測定して古さを決定するのかどうか。何をどう見ると1200年という数字がはじき出されるのか、そのあたりは門外漢にはまったく推測できないのであります。たとえば、伐り倒された樹木が、成形されて材木となりまして、建物の一部に残ったような場合には比較的年代測定が簡単そうでありますが、今現在生きている植物について鑑定するというのは、容易に想像が付きません。


縄文杉なんかだと、伐り倒された同種の杉の年輪を数えておけばある程度推測が付くでしょうけれども、藤の場合どうなのか。疑っているというのではなくして、どのようにこの藤の年代測定をしたのか知りたいものであります。藤のような、蔓性のものに関して普通に耳にしたことがないわけで、気にすると気になります。この牛島の藤から各地に苗が配られたこともあったようでありまして、子孫繁栄のめでたい藤なのであります。


我が家の近所にも樹齢千年を超える樹木があるみたいですから、あとで見物に参りましょう。


それにしても、春日部市というのは関東平野の真ん中でありまして、道路が立体交差しているところであるとか、高いビルを除くと凸凹が極端に少ないのであります。春日部市の市役所のあたりの標高というのは、調べてみるといろんな数字が出て来てしまいますが、5メートルなどと言うのもありますけれども、それは一番低いところの数字のようでありまして、市役所のサイトを検索して出て来る数字は、どうやら8メートルから15メートルの範囲の中と言うことでありまして、おそらく「山」はないのではないかと推測されるのであります。


ちなみに、つまりついでに申しますと、埼玉県の平野部では家の裏手の藪なんかを「山」と称するのでありまして、別にこんもりと高くなっていなくても「山」と言うはうはずなのであります。「山」という言い方が「山岳」のような険峻なものを指すものなのか、それとも居住地域である「里」と異なる利用法の場所を指すのか、というような問題は考えてみる必要があるかも知れません。


藤花園のシャクナゲ。緋色?

もちろん、平坦な土地柄では、藪になっている場所であるとか、作物を植えるために耕す畑以外の場所というのを、洒落て「山」と称したのかも知れないのでありますけれども、日常生活の中で山が見えないのかというと筑波山だって浅間山だって富士山だって遠目に見える土地ですから、「山」がどんなものか知らないなんてことは無いのであります。だとすると、家の裏手の藪を山と呼んだのはどうしてなのか、「山」という言葉に実は「こんもりとしたもの」というニュアンスがあって、別に土が盛り上がっている地形を言うわけでは無いとしたらいかがでありましょう。


杉田玄白などが『ターヘルアナトミア』を訳す時に、分からない単語があって随分苦労をしたという話の中で、「鼻」の説明書きを理解する時に、「顔の中央でうずたかい場所」の「うずたかい」が分からなくて困ったと聞いたことがありましたが、そんなことをふと連想するのであります。あれは、同じ単語で「庭の中央に木の葉がうずたかく積もる」という用例によって、膝を打つように分かったはずであります。「山」は遠目にこんもりしているところを指すのかも知れないのであります。


巨大隕石が落ちて津波が来たら、関東平野は水浸しの運命であります。つまり、平坦な土地がどこまでも続いております。 

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