まったりと物を捨てることを考える(28) update ver.

2016年2月24日

本をある程度処分いたしましたが、まあ、焼け石に水であります。処分しにくい本が大量に残っているわけで、近ごろ買って読んだり読まなかったりした本を処分したくらいでは、見た目に何も変わらないのであります。そういうことなら、今までも盛んにやってきたことですから、自慢するほどでもないのであります。


最近よく眺めているミニマリストのブログがありまして、そこの最新記事では、50代になったら処分してしまいたいものの代表が四つ挙げてありました。


一つ目の処分したいものは、物でありまして、ダブついているガラクタを捨てようと書いてあります。


二つ目の処分したいものが、やらねばならないことでありまして、それらを捨てようということです。抽象的ですが、普通の50代なら胸に覚えのあることであります。あれこれ抱え込んでもしょうがないことでしょう。


三つ目の処分したいものが、自分が知らず知らず身に着けた習慣であります。これは、言うなれば悪しき習い性でありまして、悪癖はもう自覚的に捨てるのがよろしいということです。私は小言を言うのを止めました。


四つ目の処分したいものが友人関係、人間関係とありまして、友人・知人何て捨ててしまいなさいと言うのです。自分にプラスのない人とは、交渉を断つということが推奨されているのであります。


なるほど、この逆と言うのは、いわゆる「俗物」であります。「俗物」は世の中にたくさん生息しておりますので、生態を観察するのは簡単です。たとえば、贈り物をあげるのも貰うのも大好きで、いろんな役員などを引き受け、行った先々で他の悪口を言い散らし、そして仲間とつるんであれこれする、と言うことでありましょう。PTAとか自治体とか、サークルとかは全部そういう集まりです。そうなるとにぎやかですが、もめ事は限りないようでありまして、何をわいわい話しているかと思ったら、損をしたのなんのと恨み言だったりするわけであります。徒党を組んでいるので仲がいいのかと思ったら、実は互いに憎悪をたぎらせていたりして、その場では聞き流しますが、心の中でそういう人たちを笑います。


レンギョウもしばらくご無沙汰。

自分に合った仕事を探すという若者がおりまして、これに対して自分探しをして、さらに自分にぴったりの仕事を探すなんておかしいぞと言う大人の意見がありました。とりあえず仕事に就いて仕事に慣れて行くものだという見解であります。


同じようなことは恋愛とか結婚についても言えるわけで、自分にぴったりな人を探していたんじゃ恋愛も結婚も無理でありましょう。時めくような出逢いを期待していたら、おそらく相手は見つからないかもしれないのであります。人気のある人、感じのいい人、センスのいい人、学歴も教養もあってお家柄もいい人、などと選んでいたら、需要と供給の関係からすると婚期を失うかもしれないのであります。あるいは二股、三股になってしまうことでありましょう。


友人関係もそうで、話し上手で気の利く人を友人だと思っていると、そういう人はどこに行っても人気者でありますから、こちらは友人の中の一人に過ぎないということが発生いたします。ひょっとすると、単なる知り合いの一人だったなんてことになりかねません。このあたりは難しいところでありまして、友情と言うものも難しいところがあるのであります。断捨離を唱えた方が、夫を断捨離してしまったという話もありまして、ミニマリストなども結局恋人を捨てたり配偶者を捨てたりすることになるのかもしれないのであります。


過不足なく人生を生きていくというのは、案外難しそうです。


2016年2月27日

断捨離の方は継続中でありますけれども、本日も古い段ボール箱に本やCDを詰め込みまして、回収してもらったのであります。本もCDもあまり古いと値段が付かないのでありますけれども、実はネットで調べてみるとそれが高額で取引されていることがありまして、要するに買取サービスをしているお店は、今現在の売れ筋を集めているのでありまして、古本とは別の世界のようなのです。


心の岸辺に咲いた赤いスイートピー。

VHSのアニメなどが少しあるんですが、もうこういうものを今時のお店に持って行っても値は付かないことでありましょう。1985年くらい、すなわち今から30年前にはVHSの再生機が出始めた頃でありまして、その頃のビデオ屋にはソフトがほとんどなかったのであります。なんと再生機をソフトと一緒に貸し出してくれたりしたものでありまして、自転車の籠に入れて運んだのが嘘みたいです。


あれから30年、もはやダウンロードして眺めたり、違法なのかもしれないのでありますがYouTubeなどで見ようと思えば簡単に見ることができるようであります。こうなったらそのまま持ち続けて骨董的価値が出るまで保存しておくという手もありますが、さてどうなりますことやら。そう言えば、本棚に長らく埋もれていた出版物を捨てようと思ったのでありますが、ふと気まぐれにそれもネットの検索に掛けてみたのであります。何せ活字ではありません。謄写版風の文字で印刷されたものでありまして、明らかに私家版なのでありますが、何とちゃんと出版物扱いになっていて、えらく値が付く様子であります。どこをどう見ても金額が書いてないわけでありまして、それでもちゃんと取引されてしまうようであります。


国会図書館に得体のしれない本を納入していくばくかの金銭を代金として受け取っていたという事件が、少し前に報じられまして、そういう手口を思い付く才覚と、それをおかしいと見抜いて防衛する才覚があるとわかりました。世の中は複雑なのであります。


どこで内容に線引きをするのか、悩ましいことでしょう。


2016年3月2日

いよいよ花粉が大量に飛来しそうでありまして、本日は空気清浄機を押し入れから出して稼働させました。うかつに布団を外に干さないことと、外出した時の衣類などを室内に放置しないのが肝心であります。こまめに掃除機をかけることが必要でありまして、外から来るものを「断」ち、中に入ったものをこまめに「捨」てまして、花粉から身を「離」すのがコツであります。何のことはない、「断捨離」そのものでありまして、だとすると家の中にあるガラクタというのは、花粉と同じ物ということが言えそうであります。


要するに戦争に負けて東京をはじめとする主要都市が焼け野原となりまして、そうなると復興の時に杉の需要が大量に発生するだろうと予測して、植えまくったことが、現在の花粉症の大元であります。需要予測が見事に外れまして、世の中は鉄とコンクリートの建物が主流になりまして、当てずっぽうの杉の植林が裏目に出たのであります。目には見えない微細な花粉が、悪さを引き起こしているのであります。


これに対して、近代社会資本主義の大量生産、メディアを使った過剰な宣伝、家庭に商品を潜り込ませるための「お試し」「試供品」「おまけ」「サービス特価」というような仕掛けによって、いつの間にかキャパシティを超えた品々が家庭に溜まってしまったようであります。だから、迂闊な老人の家の台所や茶の間、さらには押し入れを見ると、そこにはサービスでもらったものが、束になって収納してあるのです。迂闊なのは老人だけではなくて、子育て家庭も、独身者の住まいも同じであります。


徐々に徐々に黄色くなる水仙のつぼみ。

いつかは使えそうなものが大量に家の中に侵入しておりまして、これらをガラクタと見抜いて廃棄しろ、捨ててしまえ、というのがどうやら断捨離の基本であります。「もったいない」とか「良心の呵責を感じる」というような甘いことを言わないで、不要なものはどんどん家から出すことが肝心のようであります。


子供が学校で作らされた作品なども、そういうものを作れないほど貧しかった時代からみたら、すばらしい作品ですが、よく眺めてみたら価値はないのであります。ペットボトルも空き缶も、それが世間に広まるまではいかにも貴重品で、それを集めて何かを作れそうでありました。しかし、これだけ大量に出回ると価値は限りなくゼロに近付くのであります。


10年前20年前のベストセラーは、Amazonで見る限り1円であります。それと全く同じで、ほっておいても家の中に溜まるものは、これは限りなく価値がないのであります。花粉と同じであると考えてようやく納得がゆくのであります。子供が使い残した鉛筆やシャーペン、クレヨンに色鉛筆に水彩絵の具、さらにはお習字セット、裁縫セット、ピアニカ、縦笛、そういうものは大量に作られたものでありまして、値段は有って無きがごときものだったはずなのであります。世間に一つも無ければ価値はうなぎのぼりですが、掃いて捨てるほど大量にばらまかれたインチキ商品でありますから、手元に来たときはすでに1円だったと考えたらいいのであります。だから、捨てたほうが身のためなのであります。


手つかずの物を捨てるのは忍びないようですが、諦めが肝心。


2016年3月7日

雨が降りまして、微妙に寒いというような気温であります。この週末も断捨離に励みまして、昔は使っていたが今はもう用がないもの、ダブついて二つあったもの、何かの景品でもらったが一度も使ったことのないもの、ポイントがたまって買ってみたもののサイズがどうも小さすぎるもの、そういうものをかき集めて、買取してくれるお店に持って行きました。1件目に一品だけ持ち込んでみたのですが、非常に渋い提示額だったので、それも含めて2件目にすべて持ち込んでみましたが、こちらは割とましな金額が示されましたので、全部処分ができてしまいました。


処分して帰ってきまして、処分したものの中の大きなものが置いてあったスペースを掃除しましたら、部屋の持ち主が気分が変ったのでありましょう。これもあれも不要だと申し出まして、またさらに断捨離は進行いたしました。5年、10年前に必需品だったものが、家族構成の変化、生活スタイルの変化によって、まったく不用品になっておりまして、勿体ないと思いはしますが、しかし古びた物はいろいろ問題も起きますから、やはり処分が必要なのであります。


雨に濡れている水仙の花。

10年ということで考えてみると、持っている家電品のほとんどが寿命に達しまして、ほとんど買い替えているのであります。最も長持ちしているのが冷蔵庫でありますが、それ以外は壊れたり、動かなくなったり、性能が落ちたりしまして、やむなく新しいものを手に入れて処分いたしました。


最近も炊飯器を買い換えたのでありますが、それはどうしてかというと、内釜のテフロン加工のようなものが剥げまして、ご飯がくっ付いてしまうようになりまして、最終段階では小さなお茶わん一膳分くらいが残ってしまっていたのであります。さて他の部分は問題がありませんので、内釜を交換しようとしたんですが、メーカーのサイトで確認すると、何とすべて買い替える金額の90%の代金を出さないと、新しい内釜が手に入らないのであります。


サイトに掲載されている内釜の値段に我が目を疑いましたが、おそらく内釜が剥げたなら、配線やネジなども劣化しておりまして、内釜は新しいが電気が通らないなどという事態が発生しそうであります。そうは思ってみても、炊飯器の状況はなんだかすごいことになっているのであります。炊飯器の値段は、もしかして内釜の代金なのかと思うのでありますが、しかし釈然といたしません。しかしまあ、あれこれ想像しながら、自分の気持ちを納得させて新品を買いました。


しかし、炊飯器の値段はピンからキリまで。相棒をお店に連れて行くと、きっと最高級の内釜を備えた最新機種を欲しがるでしょうから、私がかってにネットで注文して済ませましたが、案の定、叱られたのであります。


日本までやって来て爆買いに走る皆さんは、どれくらいの値段の物を買うのでしょう?

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