まったりと物を捨てることを考える(23) update ver.
2016年2月9日
断捨離を志しておりますが、まあ本日もそれなりに、自分なりに頑張りました。
捨てるものを確定しまして、ゴミの分別を考えまして、燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミなどに分けまして処分してゆくわけです。さらに、今時のネット申し込みによって書籍を処分しつつありますが、これが結構大変なのであります。神経を使うというか、後で悔いの無いように仕分けするわけでありまして、結構時間を食います。
一つには、買ったにもかかわらずどうも一度も読んでいないと思われるものにぶつかった時にどうするか、せっかくだから読みたい、でもいままで読まなかったんだから処分しよう、というふうに揺れるわけであります。自分が買い求めた本にはそういうことはなさそうでありますが、家族が買った流行物の本の中にけっこうあるんであります。5年前に映画になったとか、3年前にテレビドラマになったとか、結構話題だったので、本屋さんで買ったようであります。私は流行物を買わない主義でありまして、買ってもネットで1円などというのを取り寄せますので、新本に特有の出版社の宣伝チラシが入らないから、これは私のじゃないと分かるのであります。
さて、告知するべきか、それともこのまま処分するか。しばし目を閉じて黙考するわけで、もうこれだけで哲学者のようであります。しかし、悩むのはそれだけじゃないのであります。
オオキバナカタバミの花盛り。
古い本を引っ張り出しまして、これを検索に掛けてみるとけっこう値打ちがあったりしまして、自分で値を付けて売るかどうか考えてしまったりするのであります。こうなると売れるまでの時間と、今処分してできるスペースを秤にかけて考えることになるのであります。さらに、汚れているものをちょいとこすって見たり、埃をかぶったものをはたきで清めたり、これもまた結構手間がかかるのであります。まるで古本屋のオヤジでありますが、いえいえ、そのものかもしれません。
それにしても要らない本が出て来る出て来る、いくらでも不要なのでありますが、ふりかえってみれば半年ごと位にブックオフなどに出向いて本を処分しているはずなのに、溜まりに溜まっているわけで、本当にきりがないのであります。面白いのは、読んでいない本を見て読もうかと思って取っておくんですが、半年経っても、一年経っても読まないものは読まないままで、不思議であります。縁がないのか、それとも何かが読むのを邪魔しているのか。
それから、しっかり読んで、読んだ内容が頭にくっきり浮かぶので処分しても構わないと思う本も結構あることが面白いと思います。きっちり消費して大満足でありまして、欲しい人に分けてあげたいというような気持であります。ともかく、作業の結果、押し入れの段ボールは減りに減り、本棚にも隙間ができまして、これをいちだん推し進めて本棚を減らすところまで行けたらいいのであります。古すぎて変色している文庫本などは、そのうち資源ゴミに出すことになるでありましょう。
古典的名作と称されて買わされたものも、時が過ぎれば一時の流行だったと気づく悲しさ。「古典」とか「名作」というような評価というものは、売りたいがための売り文句だったのかと、老いてから合点しました。
2016年2月10日
強風の吹き荒れる一日でした。晴れているのに気温は上がらず、寒いまま日が暮れてしまったのであります。
本を思い切って処分しているのでありますが、本棚に隙間ができましたので、同じ種類の本を寄せ集めたり、サイズの同じものを固めたりしてみました。そうやって見ると、いかに普段本棚がいっぱいになっていて、可動性を失っていたかということが分かるわけです。ともかく、隙間を利用して、本の離合集散をしてみると、いかにも二度と読みそうもない新書などが目についてくるのであります。
何せ高校生の頃から大学生に掛けて、岩波新書は必需品でありましたし、その後新書の出版ブームもあったわけで、ダブついているものは限りないのであります。当時は、その道の権威が啓蒙のために書いてくれたのが新書でありました。よって、当時は言うまでもなく、今でも崇拝する気持ちはあるんですが、冷めた目でよく見ると、適当な話題を適当な文体で書いてありまして、ひょっとすると編集者が作文したのかという怪しいものまで目につきまして、こりゃあ捨てたほうがよさそうであります。
価値があるものと見える本もありますが、今なら同じ内容をネットで見つけることも可能であります。また、古びてしまって価値の無くなったものは、その分野の研究史でもわざわざ書く研究者なら持っていてもいいはずですが、ともかく、もう世の中には不要に見えるのであります。酸性紙と呼んだような気がしますが、1970年代以前は紙質も悪くて、茶色く変色しております。初心者向けの入門書が多いことからして、作ったほうも読み捨てのつもりだったようです。
スイセンが次第に芽を伸ばしております。
これらの新書も、実は箱に入れられて引越し先を生き延びただけでありまして、何かのついでに段ボール箱から出されただけなのであります。古本屋で買ったのもあるし、ネットで買ったのもあるんですが、さすがにもうどうにもならない感じでありまして、ブックオフなどに送り付けるのもためらわれます。神田には岩波書店の本を扱う古本屋もありましたが、紙ごみとして出した場合でも、巡り巡ってそう言うところに行き着くのかもしれません。
書物が物価に比べて高価だった時代、そして日本全体が貧しかった時代には、新書だって貴重な情報源だったんでありますけれども、今その一冊の内容を集めようとすると、たぶんグーグル検索で1秒あれば事足りるはずであります。1秒で新書の何万倍かの情報が集まってしまいまして、集まり過ぎて困るわけで、もしかしたら数十年前の新書にも素朴で根源的な問題意識をコンパクトに教えてもらえるという利点もあるように見受けられます。
しかし、これを老人の私が今さら読書してもしょうがないし、誰かにプレゼントしても喜んではもらえそうもないのであります。30年くらい前に買っただけで積んでおいた新書を一冊、せっかくだからと読んでみましたが、そこには万葉集や古事記の時代には「黄色」という概念がなく、黄色は「赤」または「青」の範疇であったと書いてありました。また、「草薙の剣」の「くさなぎ」というのは、草刈りのことではなくて「臭い蛇」「いやなにょろにょろ」だという見解が示してありました。こりゃあ為になりましたが、だからどうということでもありません。
『日本国語大辞典』には、「草薙」の通説は草刈り、一説として「臭い蛇」説もあると出ています。だとすると、この著者の意見が反映したのでありましょう。
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