若い身そらで禿頭。(6) update ver.

2012年4月14日


つい最近まで丸裸だった樹木が、新しい芽を出して春の到来を実感させております。去年の放射能騒ぎの後で芽吹きましたが、どの程度汚染されたのか、放射能はこの樹木にどれくらい影響を与えたのか、そのあたりは世間が騒ぎませんのでよく分からないわけです。


世界の人は日本は汚染がひどくて住めないと考えたわけで、ドイツの人を始めとして帰る国のある人は帰国したわけです。チェルノブイリの汚染のその後を知っているわけですから、これは現実的な行動であって誰も責めることは出来ません。東京電力の恩恵を受けていた首都圏の人たちの多くは、仕事や学校がありますからそのまま居残ったわけで、そうなるとみんな不安を抱えながら、沈黙とは行かないまでも、ことさら騒がない方向で対処したということです。


そのことが、福島の人々の避難行動を鈍らせてしまった側面があるでしょう。万事、控えめな土地柄であることが、災いにもなり、また無用な混乱をきたさない点では幸いにもなったということなのであります。


写真は、カエデの一種、手向山の新緑です。

これを方言で言えば、「仕方あんめえ」であり「因果見た」ということでありますが、すぐに目に見えて影響が現れないだけに、事の本質は非常に重大なんであります。


何を今さら言っているのかといいますと、子供がお世話になった幼稚園にはカエデ園というものがありまして、カエデの林があったからなんであります。これも一本だけだとなんでもないんですが、20本、30本と揃いますと、赤い葉っぱが濃く見えて、紫色とか茶褐色の塊となりますので、そこで異彩を放つということになるのであります。カエデ園の隣の駐車場で、子供に自転車を教えたことや、両手に子供の手を握りまして通園させたことを思い出すと、ちょっと胸がうずくのであります。私のそうした行動を、感無量の思いで見守っていた人が何人かいるんでありまして、こちらのごく普通の行動が周囲の人に感無量であるということは、実は大変なことなのであります。


ふつうであることのありがたさってことであります。カエデを見ると、そういうことをふつふつと思い出して、ため息と言いますか、嘆息と言いますか、井伏鱒二さんの『山椒魚』の主人公のように、あああと声を発してしまうわけです。


去年生えていた場所に、今年もその植物が生え出しまして、なんとなく安堵するわけであります。


一昨年は、ヤブラン(藪蘭)の葉っぱが何となく半分枯れていてきれいではないので、初冬に鎌できれいさっぱり刈り取ってみたんであります。そうしたら昨年の春に、見事に生えそろいまして、花の時期が終わっても葉っぱはどれもきれいなので、去年の初冬にはそのまま放置しました。その代わり、ギボウシ(擬宝珠)の葉っぱがぐったりと枯れましたので、これをきれいさっぱり刈り取ってみたのであります。その結果、この庭は基本的に平坦な地面でありまして、ヤブランやギボウシが大きな株を作って小山のようになることに気が付きました。ギボウシを刈り込んだ跡は、地上げした跡の更地のようでありまして、歩き安いこと、このうえないのでありました。


もううかつに歩けないギボウシの芽生え。



紫色の保護膜と言いますか、皮を突き破りまして、ギボウシの若葉が生えてきております。この様子だと、一週間しないうちに元通り、小山のような株になりまして、要するに藪を形成することでしょう。真冬の間、更地のようになった庭を何度か竹箒で掃き清めましたので、地面は非常にきれいでありまして、そんなことなら毎日掃き掃除をするんであったと、過去の怠惰を反省したものであります。


竹箒を使いますと、枯葉・葉屑といったものだけが集まりまして、もとの地面はそのままなのであります。うずたかく積もった塵は、一見土のように見えましたが、何度か降った雨のお陰で土が流れ、そのままこんもりとゴミ・芥が集積しているわけです。これを見ると竹箒の優秀さがよく分かりまして、日本の風土、日本の庭、我が家の庭にはぴったりと言うことですね。竹箒で荒れたあとを、庭箒でさらさらと掃きますと、つやつや、つるつるの表面が姿をあらわしまして、これは掃き掃除をしたことのない人には分からない快感なのであります。実家の庭で試しても同じですし、座敷の畳を座敷箒で掃き清めても同じなのであります。


人間の目というのは、ある意味節穴なんですが、清掃した後の地面とかコンクリートは見分けます。


だから、ちょっとした街を散策してみても、その街の住人の意識というか、生活のレベルというものは、何となく分かるわけで、たとえば今は岐阜県の飛騨高山などを訪問してみれば、古い住宅などを大切にしながら、丁寧に、懇切に、気持ちよく生活していることが分かるわけで、荒れた土地の幹線道路沿いの、住民も役所も何となく怠惰でほこりっぽい土地を歩く時とは気分が違うのであります。ちゃんと掃除をする、ちゃんと手入れをすることが、身を守り、自分たちの日々の安楽につながって行くと言うことは、私のかってな妄想かも知れませんけれども、あるある、そうそう、と同意してもらえるんではないでしょうか。


掃除しない場所に出て来るお化けというのがあったと思うんでありますが、掃除しないと人の領域が狭くなりまして、使えるはずの場所が使えない感じがいたします。物置なんかも、時々中にしまってあるものを取り出して掃除するといいのでありましょう。探し物を一つ取り出すのは、案外思ったよりも手間・暇が必要ですが、全部出すと言うことなら、実は簡単な場合が多いのであります。


手当たり次第に出しまくりまして、箒で土埃・クモの巣の類を始末しますと、後は棚なら雑巾くらい掛ければ、きれいさっぱりしますし、入れ直すことで捨てるガラクタ、再使用する家電品が飛び出してきまして、節約に非常に貢献するはずなんでありますね。


ピカピカってことは、新品だけの問題ではありません。古いものこそピカピカは似合うんであります。 

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